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喜びの神殿 ⑤


――
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。
――


それゆえに、

わたしたちの神イエス・キリストと父なる神の憐れみによって、はっきりとはっきりとはっきりと言っておく、

案ずることなどなにもない…!

たとえ文字によって殺されようとも、霊は復活させ、生かしてくれるのだから――なんどでもなんどでもなんどでも。

思い煩うことさえ、こんな、たかが可視の地上世界においてなど、ただのひとつとしてありはしない…!

なぜとならば、

「あなたを破壊するものは速やかに来たが、あなたを建てるものはさらに速やかに来る」

という神の言葉は今日、実現したからである。

わたしがわたしの心の中に、

あなたがあなたの心の中に、

不可視の、永遠の、イエス・キリストの神殿を再建させたことによって。…


それゆえに、

「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」

――たとえ文字によって、罪によって、敵によって殺されて、

あるいはまた、「神」自身によって撃たれ、射られ、傷ついて、打ちのめされていようとも、

そのような可視の人生は今日もまた、あいもかわることなく荒廃し、とうてい目も当てられず、あまつさえ、振り仰ぐ先には月も星もなく、黒暗暗たる夜半の闇空しかなけれども、

私はここに、はっきりとはっきりと言うものである、

いつも喜べ、主にあって、いつも喜べ…!

なぜとならば、

主を喜び祝うことこそが――!


憐れみと喜びの霊に満たされて、

はっきりとはっきりと私は言う、

たとえ目に見えるお前の生活はいまだ荒廃し、

まるで荒れ野のようなその地には、ジャッカルの群れが嘲るように戯れていようとも、

お前の心の、喜びの神殿を建て直した者はだれでも、

ただひたすらに喜び、喜び歌うがいい。

イエス・キリストと、キリスト・イエスの父なる神を喜び祝うこと、それこそが「奉献」であり、

熟れたる葡萄のような唇で歌いあげる、その歓喜の歌声こそが、「礼拝」である。


――たとえ、あなたが今日もまた、

ひとり砂と石を噛み、塵の中に膝を抱き、

すべてを失い、かすかな望みすら見えずとも、

若い喜びさえ奪われて、

力も平和も幸せも忘れても、

そのような、瀕死の虫けらにも如かないあなた自身の姿だけが、

もはや見えなくなった眼の底に映り込む、紛れもないあなた自身の日常であったとしても、

あなたの不可視の心は、死者の中から復活し、憐れみと喜びの霊に満たされる――

そのとき、あなたの上には、義の太陽が昇り、

その翼の力によっていやされる、

あなたは牛舎の子牛のように躍り出て、跳び回る、

あなたは夜明けの星とともに喜び歌い、

神の子らとともに、喜びの声をあげながら、

あなたの神イエス・キリストの名前を喜び、喜び踊る――

それこそが、「聖別」である。


――たとえ、

財産を使い尽くして無一文となりはてて、

飢饉に襲われ困窮し、

身を寄せた豚小屋にまで飢えを満たすべくひとつの食べ物さえ見つからずとも、

それがこの終わりの時代に見つめ続け、その身をもって苦しみ続ける、あなたの悩ましき真実であったとしても、

あなたの心は、けっして泣かず、嘆かず、悲しむには及ばない。

あなたの心は、けっしていじけず、ひねくれず、ルサンチマンに冒されることもない。

なぜとならば、

あなたの心が見つめる憐れみと喜びの神殿は、さながらあなたの神が死者の中からよみがえったように、すでに再建されたからである…!

――それこそが、あなたの探し求めて来た「極めて良い真実」であり、

あなたのためにもらされた、「福音」である。


それゆえに、

それゆえに、

そこにはもはや夜はなく、

神の栄光が永遠にあなたを照らしつづける光の中を、

あなたは自分の栄光を携えながら、のぼって来る。 

喜びと賛美の歌を歌いつつ、自らの歌によって、あなたは迎え入れられて、

あなたの歌と呼応する、数えきれない歌々によって、あなたは永遠に生きつづけるのである。

――それこそが、

これこそが、

あなたと、あなたの神イエス・キリストの「婚礼の宴」であり、

わたしたちの父なる神の「聖なる安息日」なのだ





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