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アブラハムの子孫とは、キリストのことである ①



主はアブラム(アブラハム)に言われた。

「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る」

アブラム(アブラハム)は、主の言葉に従って旅立った。…


このような有名な書き出しとともに、ユダヤ民族の始祖とされているアブラハムの物語は始まる。旅立った時、彼は75歳であった。

さて、ここで確認しておきたいことがあるとすれば、主なる神が言われた「あなた」という言葉とは「アブラハム」のことである――という、自明の、瞭然の、当たり前のひとつ事である。

また、もっと言えば、「あなた」とは「アブラハムの子孫」であるところの、「キリスト」のことでもある――とも言っておきたい。

なぜなら、「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」など、イエス・キリストただ一人以外の、誰に向けて言われた言葉なのか。「からし種一粒ほどの信仰」をもって考えてみても、分かることだろう。

がしかし、

間違っても間違っても、「あなた」とは「ユダヤ民族」のことではない――この一点だけは、ここではっきりと、はっきりと、はっきりと、はっきりと書き記しておきたいと、そう思うのである。

なぜとならば、

ここで主なる神が言った「あなた」をば、「アブラハム」にとどまらず、「キリスト」にもとどまらず、「ユダヤ民族」と捉えることにこそ、これまでの、そして今もなお継続せられている「世界史のマチガイ」があるからだ。

それゆえに、もう一度くり返すが、

「あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る」

この「あなた」とは、「アブラハム」のことであり、むしろ、その子孫である「キリスト」のことである。

そして、同じ「あなた」とは、けっしてけっして、「ユダヤ民族」のことではないのである。


このような見解は、別段、私独自の、独特の、独善のものではない。

ほかならぬ聖書の中に、そう書いてある。

いわく、「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。」

この世のなによりも「聖書」を大切にし、「聖書」に書いてあることをば忠実に守り、信じようとする「聖書主義」の人々にこそ、この言葉をよくよく読んでもらいたいものである。

「アブラハムの子孫とは、キリストのことである」――というひと言を…!


私は何を言わんとしているのだろうか?

アブラハムの子孫とは、キリストのことである――こんなひと言なんかを、なにゆえにこうも強調するのだろうか。

アブラハムの子孫とは、キリストのことである――

だから何だというのだろうか?

こんなツマラナイことを、なにゆえになにゆえに、私はくり返しくり返し、書き込んでいるのだろうか。


それは、いつもいつも私が批判している「教会」とか「レビ人」とか「クリスチャン」とかいう世界には、

アブラハムの子孫とはキリストのことである――

この一つ事をば、まるで分かっていない人間が、「海辺の砂のように多い」からである。

そればかりか、むしろものの見事にカンチガイして、

アブラハムの子孫とは「ユダヤ民族」のことである――

などというふうに、「誤って」思い込んでいる人間もまた、「満天の星のよう」であるからである。

だから、いかなる批判も恐れることなく書き記しておくが、

アブラハムの子孫とは「ユダヤ民族」である――これは間違いである。(ほかならぬ「聖書」に、そう書いてある。)

そして、なにより、

アブラハムの子孫とは「ユダヤ民族」である――こういうカンチガイをしていた人間たちこそ、かつて、2000年前の今日、「イエスを十字架にかけて殺した」のである。

こういうマトハズレな思い込みをしていた人間たちこそ、イエスをメシアとして認めることなく、同じイエスを裁判にかけて、平手で打ったり、こぶしで殴ったり、唾を吐きかけたり、茨の冠をかぶせたり、葦の棒で頭を叩いたり、、、したのである。

それゆえに、

いかなる批判も恐れることなく、はっきりと言っておく、

「シオニズム」など、まるでトンチンカンな運動でしかなかった――これが、まぎれもない「史実」であるということだ。

またそして、

今なおイスラエルという「国家」を支持し、キリストの再臨をエルサレムという「地」においてなされるものと思い込んでいるトンチンカンな、ムチモーマイな、マトハズレな態度については、

はっきりとはっきりと、

「それは違う」と、反論しておきたい。



まことにしつこく、執拗に、あくこともなく言うのだが、

旧約の時代から、アブラハムの子孫とはキリストであった。

新約の時代に至ってなお、アブラハムの子孫とはキリストである。

アルファからオメガまで、アブラハムの子孫とは、キリストのことなのである。

もしも、ある人間が「アブラハムの子孫である」とするならば、その者が「キリストのものである」場合に限ってのみ、そうなのである。

これは、私の言葉ではなく、聖書の言葉である。

いわく、

「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」


それでは、ある人間が「キリストのもの」であるとは、いったいどういう意味だろうか?

『ローマ書所感』という文章の中でも触れているが、それは以下のような人のことである――

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

つまり、「イエスを復活させた方の霊がその内に宿っている人間」が、「キリストのもの」なのである。

そして、「イエスを復活させた方の霊がその内に宿っている人間」だけが、アブラハムの子孫なのである。


では、「イエスを復活させた方の霊がその内に宿っている人間」とは、いったい誰のことなのだろうか?

それは、

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく ”霊” によって施された割礼こそ割礼なのです。」

という言葉のとおりで、

「水に沈めただけのバプテスマ」なんかを一番の行事にしている、「教会ごっこ」をしている人間のことではない。

ヘブライ語をしゃべって、トーラーを読み込んで、定めの祭りを祝って、食べ物にも細かな規定があって、、、というような、「ユダヤ民族」のことでもなく、「ユダヤ人ごっこ」をしている人間のことでもない。

もう、何度も何度も書いてきたことだが、

「イエスを復活させた方の霊がその内に宿っている人間」とは、噂に聞いた神でも、他人が出会った神でもなく、――民族の神でも、国家の神でも、そういったいかなる公的な神でもなく、「わたしの神」と「顔と顔を合わせて、あいまみえた人間」のことである。

「イエスを復活させた方の霊がその内に宿っている人間」とは、「わたしの神」が、「復活したイエス」のことであると、知っている者である。そして、「わたしの神」が、イエスの「父よ」と呼びかけていた神、「父なる神」のことであると、知っている者のことである。

それゆえに、「イエスを復活させた方の霊がその内に宿っている人間」とは、イエスのように「アバ父よ」と、「わたしの神」に向かって呼びかける人間のことを、指し示しているのである。

そんな人間は、いかなる人種であろうが、国籍であろうが、関係ない。

それゆえに、

ある人間が「キリストのもの」であるとは、生まれながらの、血肉の、系図的なユダヤ人のことではなく、「内面がユダヤ人」であるということである。

「内面がユダヤ人」とは、アルファからオメガまで「不可視」のことを指し示しており、国家とか、民族とか、伝統とか、文化とか、国境とか、血統とか、系図とか、、、「外見上」の話ではないのである。

同様に、「クリスチャン」もまた、「不可視」のクリスチャンこそが本物のクリスチャンであって、教会に行って、讃美歌を歌って、礼拝をして、聖書を朗読して、、、というような人間のことを言っているのでのはないのである。


ほかならぬ「聖書」に描かれている。

冒頭のアブラハムという人物以降の、ユダヤ人たちの物語を追っていっても、いかに「外見上のユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそがユダヤ人である」という言葉の真実であるか、ユダヤ人たちの「歴史」が雄弁に物語っているではないか。

もしも、ヘブライ語をしゃべって、トーラーを読み込んで、定めの祭りを祝って、食べ物にも細かな規定があって、、、というような「外見上のユダヤ人」が「キリストのもの」であったのならば、どうして、イスラエル王国は北と南に分裂しなければならなかったのだろうか。

北と南に分裂したイスラエル王国が、アッシリアやバビロンといった帝国から侵略されて、若者も老人も女も子供も、ことごとく殺され、わずかに生き残った者は捕囚として他国に連れ去られ、、、そんな世にも悲惨な「歴史」を、「選民たるユダヤ人」が味わわねばならなかった理由とは、なんだったからだというのだろうか?

そのように滅ぼされ、辱められ、苦しめられ続けたイスラエル王国を「再興」してくれるはずだった「メシアたるイエス」をば、なにゆえになにゆえに、「(外見上の)ユダヤ人たち」は、十字架にかけて、殺さなければならなかったのだろうか?

まことにまことに残念な話ではあるが、

「(外見上の)ユダヤ人の歴史」とは、背信と不信仰の歴史である。

失敗と躓きの歴史である。

誰がなんと言おうと、ほかならぬ聖書にも書いてあるとおりに、「ユダヤ人は躓いた」のである。

それが、旧約から新約聖書に渡る歴史の「大概」である。

そのもっとも象徴的な出来事こそ、「イエスを十字架で殺した」という「罪」なのである。




つづく・・・

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