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エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(1)


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三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
――



(もしかしたら、これがここ半年私の書いてきた中で、もっとも重要な文章になるかもしれない。――そんな思いに、はらわたをかき立てられながら、書いたものです。)


―― わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか ――

人間イエスが磔刑に処せられた時、断末魔の叫び声として、このような言葉を残したことは、慰めである。

いかなる誤解も恐れずに、ここにイエスが「人の子」として、「神の子」として、「神の独り子」として、この「ひと言」を残すためにこそ、この地上に生を受けて、生きて、十字架にかかって死んだのだと、はっきりと書き記しておきたい。

―― わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか ――

この言葉は、詩篇の中からの引用とされているが、個人的には、引用であろうがなかろうが、そんなことはどっちだっていい。

もっと言えば、「どうだっていい」。

仮に引用でなかったとしても、また仮に他の表現であったとしても、「神に見捨てられたような苦しみ」を、イエスが最後の最後まで味わって、死んでいったのだということが分かればこその、「慰め」だからである。

もしもイエスが、「神に見捨てられた」ような苦しみを味わわなかったとしたら、どうして「人の心が分かる神」、「人の弱さに同情できる神」として、「主なるイエス・キリスト」を信じることができようか。

―― わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか ――

こんな、この世でもっとも苦しく悲惨な叫びをば、いったいなんど、なんど、なんど、――各時代の人間は、血反吐を吐きながら、神に向かって上げ続けて来ただろうか。

こんな、それ以上もないような嘆きと、救いもないような(というか完全に救いのなくなった)苦しみを、何千年、何千年、何千年、くりかえしくりかえし、くりかえしくりかえし、人は強いられつづけて来たことだろうか。

想像を絶するような塗炭の苦しみ、痛み、哀しみ…のただ中にあって、いかなる人間にも、けっして見つくすことも、知り尽くすことも、はかり尽くすことも許されないような深淵の底にあって、いったい、どれほどの命が、ごみのように、塵のように、虫けらのように、踏みにじられていっただろうか…。


―― わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか ――

「人の子イエスは、そんな苦しみを受けるべく、いかなるいわれもなかった」
「神の子イエスは、そんな地獄のような苦しみを味わうべく、ひとつの罪も犯したことはなかった」
「神の独り子、イエスは、それでもすべての人間の罪の赦しのために、犠牲の捧げものになってくれたのだ…」

――そのような「きれいごと」を、「うつくしきごとを」、「うるわしきオコトバ」を、百万言この両眼の前につみ重ねられたとしても、

なんの感動もない。

なんの感動もない。

なんの、なんの、なんの感動も、ありはしない。


だからこそ、

―― わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか ――

という、たった「ひと言」を、イエスが言ってくれたことだけが、「救い」なのである。

イエスもまた、自分を含めたあらゆる人間のように、「神に見捨てられた」と涙したのだ、そういう嘆きと呻きと哀しみを味わったのだ、血反吐を吐いて、血の涙を垂れ流して、叫びまわり、狂いまわり、のたうちまわったのだ。――そう「はっきりと悟る」ことこそが、たったひとつの「救い」なのである。ほんとうの「慰め」なのである。

なぜならば、

「人の子」でも「神の子」でも「神の独り子」でも、この地上にやって来て、わざわざ「人間」という汚(けが)れた肉の器をもって、イエスが生きたのは、いったい、何のためだったというのか?

福音書に書かれているような、「公生涯」を送るためか?

「聖書が実現する」ためか?

「預言が成就する」ためか?

そんなことよりも、

そんなことよりも、

そんなフザケタことよりも、

「神に見捨てられた」という苦しみをば、その身をもって味わうためにこそ、知るためにこそ、経験し、記憶するためにこそ、わざわざやって来たのである。

――そう、「はっきりと悟る」時、ほんとうに、ほんとうに、「人の気持ちが分かる神なのだ」ということも、はじめて「信じられる」のである。

すくなくとも、「まだ信じよう」と促されるべく、ひとつの揺るぎない理由となってくれる。

あまつさえ、「最後まで信じ続けよう」という、たしかなたしかな「力」を与えてくれる、最後の一人の友だちのような「ひと言」にまで、なってくれるのである。


―― わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか ――

このような叫び声をあげなければならない時、人はいったい、何を思うのか。

「ああ、やっぱり、神などいなかったのだ」
「ああ、神がいても、ひっきょう、この世の強き者や悪しき者や運の良き者たちの味方だったのだ」
「ああ、神がいても、ひっきょう、弱き者、貧しき者、虐げられし者たちの味方ではなかったのだ」
「ああ、神は公正でも公平でも正義でも愛でも慈しみでも憐れみでも…なかったのだ」
「ああ、神こそが悪魔の悪魔だったのだ」
「ああ、こんな人の心の痛みも分からない神などを、なぜ信じようなどと思ってしまったのだろう、こんな神に、いったい何を期待して祈ったというのだろう…」

・・・どのような言葉をならべたてても、もはや涸れきった涙の代わりに流れ出る血の味をば、いったいだれが表現できようぞ。

・・・もはやつぶれきった喉から漏れ出る力さえなくなった、声なき声をば、いったいだれが聞き取り、拾いあげることができようぞ。

・・・月も星も太陽も輝きを失った暗黒のただ中にあって、もはや押しつぶされて見えなくなくなった双眸を見開いてみたところで、いったいだれが、どんな光をば見ることができようぞ。


―― わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか ――

私は、いつからか、こんな血反吐を吐き下さなければならない夜に、目も耳も喉もことごとくつぶれ、何も見えず、何も聞こえず、何も言えず、五体もほだされて、寸毫うごめくことすらかなわなくなった「神の与えし絶望の真夜中」に、

神のような悪魔か、悪魔のような神か、もはや見分けもつかなくなった黒暗淵(やみわだ)のただ中で、

いつからか、「イエスもまた、同じよう苦しんだのだ」と、つぶやくようになった。

そこにはまた、まことに子どもっぽいような、罪人っぽいような、あるいは、まことにまことに人間らしいような、「ざまあみろ」という快感さえ、抱いている。

「ざまあみろ。神に見捨てられたという苦しみを味わって、お前もやっと、人間の気持ちが分かっただろう。神だろうが、神の子だろうが、全能者だろうが、万軍の主だろうが、なんだろうが、「神に見捨てられた」と叫ばねばならない時の人の苦しみが分からなくて、なにが神だ…なにが救い主だ…なにが愛だ…なにが憐れみだ…なにが…」

――という、まことにまことに人間らしい、歓びとでも呼べるような。

しかし、そういう快感や歓びやの正体のなんであろうが、

私が「アーメン」でも「ハレルヤ」でも「ホサナ」でも、そんな言葉を拾いあげるとしたら、自分が吐き下した血反吐の中からであり、垂れ流した血涙の底からである。そこからしか、拾いあげることは、けっしてない。

「アーメン」だろうが「ハレルヤ」だろうが「ホサナ」だろうが…「賛美」だろうが「感謝」だろうが「喜び」だろうが、なんだろうが…私のそれは、すべて、すべて、すべて、真っ赤な、あるいは真っ黒な、「血」にまみれている。

それゆえに、いかなる「血」の痕跡もとどめぬような「アーメン」や「ハレルヤ」やに、どうして、どうして、「声を合わせる」ことができようか。

かそけき血のにおいすら漂わせないような「アーメン」が、純然たる「嘘」でなくて、「たわ言」でなくて、「ざれ言」でなくて、「よまい言」でなくて、なんだろうか。

十字架の上のイエスが「アーメン」と言ったとしても、それはイエス自身の血にまみれている。

復活したイエスが「ハレルヤ」と歌っていたとしても、その詩(うた)もまた、血だらけである。

だからこそ、「彼は血に染みたる衣をまとえり」と書いてあるのである。



つづく・・・

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