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「安全」な聖書


「はてしない物語」は、はたして児童文学と呼ぶのが適切かと、いつでも再考を迫られるほど、示唆に富んだファンタジー小説である。

映画の方が、すなわち、「ネバーエンディング・ストーリー」と題された1984年の作品の方が、原作の小説を超えた出来栄えであるものと信じているが、そういう議論をばここで展開してみたいわけではない。


この物語は危険である―― 

主人公のバスチアン少年は、ある日、偶然とび込んだ古本屋の店主から、このように言われて、『はてしない物語』に興味を抱く、抱かされる。

ついには、持ち主の許可なく本を抱え、店をとび出してしまわなければならないほどの激しい衝動に、駆られてしまうまで。

「よく聞け。お前の読んでいる本たちは、どれも”安全”だ」

と、店主は言う。

「お前の本たちは、読んでいるうちに、お前をターザンにし、ロビンソン・クルーソーにしてくれる」

バスチアン少年は答える。

「そうだよ。だからこそ、僕は本が好きなんだ」

「そうだ。だがお前の本は、読み終われば、お前を元の少年に戻してくれるだろ?」
「うん…。だからなに?」
「よく聞け。お前は、ネモ船長のように、ノーチラス号の中に閉じ込められて、巨大なイカが襲って来た――そんな時、もうダメだ、これで終わりだ…そんなふうに絶望したりしないか?」
「だって…あれは、ただの物語じゃない」
「そうだ、その通りだ。だからこそ、お前の本は”安全”だと言っているんだ」

このひと言で、現実世界ではいじめられっ子の、内気なバスチアン少年の心は、完全に奪われてしまう。

「あなたの本は…違うの?」
「この本のことは…忘れるんだ」

…がしかし、現実世界ではいじめられっ子の、内気なバスチアン少年は、店主の隙を見て、おそらく生まれて初めての「盗み」めいた行動にまで出て、この「危険な本」を持ち去ってしまうのである。

「読みたい」「読んでみたい」、いや、「絶対に読まねばならない」という、燃えさかるような心の炎に駆られながら。…



さて、現代の我々が、小説『はてしない物語』でも、映画『ネバーエンディング・ストーリー』でも、その作品に触れようとする時には、「安全だと分かっている」上で、触れている。

これからどんな冒険が始まり、どんなファンタジーの世界が眼前にうち広げられるのだろうという、そのような「安全きわまりない」期待を胸にして、作品の中へとのめり込んでいく。

バスチアン少年の言う通り、それこそが「物語の醍醐味」だからである。

がしかし、

もしも、もしも古本屋の主人の言う通りに、そんな冒険が「安全」でなかったとしたら、どうだろうか。

もしも、本に書かれてある事柄が、次から次へと現実の出来事として我が身の上に起こり続けていって――などいう、それこそファンタジックな展開ではなく、

本に書かれている事柄の一々が、まさにまさしく、いま現実にて起こっている出来事であり、実際に過去に起こった事件でもあり、かてて加えて、これからそう遠くなり将来において、疑いも間違いなく起こるべき未来の話であるとしたら――?

同様に、

本の中に描かれた登場人物たちもまた、すべて、なべて、おしなべて、まぎれもない現実世界における、自分自身であったとしたら――

本の中に出て来る「最重要人物」が、嘘でも、偽りでも、作り物でもなく、本当にこの世界にも存在し、今まさに自分の人生とも直接的かつ積極的なかかわりを有し、自分という存在に干渉をくり返し、しかりしこうして、翻弄しているとしたら――

そんな、嘘や冗談みたいな本が、本当にこの世に存在していたとしたら――

そんな本など、とうてい「安全」であるはずがない。

古本屋の店主の言う通り、そんな本は、はなはだ「危険」であり、「忘れて」しまうべきシロモノである。

がしかし、そういう本は、現実に存在する。しかも、かなり身近な場所にあって、実に気楽に買うことも、手に取ることもできる状態で、存在しているのである。


そう、「聖書」である。

この世の三界において存在しえた、あらゆる偉人賢人聖人の類がなんと言っていようとも、この私ははっきりとくり返すものである、

すなわち、「聖書」とは、本当に本当に、本当に本当に、「危険」な本である、と。

それゆえに、どこぞの戦争犯罪人のように、そんなものは、はらい清めるべく火にくべて燃してしまえ、などと主張したいわけでもない。

「聖書」なるものが本当の、本物の、真実の「危険きわまりなき本」である、現在過去未来の三界において書かれたものの中で「もっとも怖ろしい本」である、そんな厳然たる「事実」をばろくすっぽ知りもせず、あまつさえ「面白い」などとのたまって押し広めようとする態度をこそ、「マトハズレ」だと言いたいまでなのである。

なぜか――。

至極かんたんな理由でしかない。

聖書においては、「神は生きている」というふうに、くり返しくり返し、くり返しくり返し、語られている。

そして、「神は生きている」とは、「神はたしかに存在している」などという、その程度の「安全」な意味なんかでは、けっしてない。

「神は生きている」とは、「神は自分の人生に直接的かつ積極的かつ能動的にかかわっている。自分という存在を、身と心と霊の世界において、翻弄している」という意味なのである。翻弄という単語がお嫌いなら、「支配している」でもいい。

それゆえに、「この身をもって神に出会う」とは、「自分の人生をもって神とあいまみえる」という意味である。

「聖書が面白い」などという言葉は、「自分の人生をもって神に出会ったことがない」からこそ歯ぐきの隙間からとびだして来るような、軽佻浮薄なお言葉にすぎずして、要するに、「自分は安全な場所にいてファンタジー物語を読んでいる」ような、オハナバタケ感覚でいるからこそ「面白い」のである。

もしも、「この身をもって神に出会った」者ならば、「神の恐ろしい顔」を、知っているはずである。

例えば、ヨブ記では、神は「いわれのない苦しみ」が人間の身の上に及ぼされることを、「許す」。サタンだのいう名をもって呼ばれるワケの分からん存在と議論した挙句のはてに、ある一人の人間がいわれもなく、否応もなく、否応もなく「金も仕事も健康も家庭も」根こそぎに奪われてしまうことをば、「許す」のである。――そんな話の、どこが「面白い」のか? もしも「面白い」と思うのならば、ひっきょう、「だって、これはただの物語じゃない」という感覚で眺めているからである。

エゼキエル書やホセア書なんかも同様である。これらの預言書がまずもって描いているのは、「神の裁きの顔」である。ある国が滅ぼされ、女や子供や老人も殺し尽くされて、わずかに残った生存者たちはことごとく敵国に捕囚とされて連れていかれる――ような神の裁きほど、恐ろしいものは、この世にない。――もしも、そういう「厳然たる事実」を、「自分の身をもって知っている」ならば、「面白い」という単語が、口をついて出て来ることこそ面白い(ちゃんちゃらおかしい)。

ヨナ書では、ヨナは海の上で大嵐に遭う。「波は船を砕かんばかりに、荒れに荒れ、船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨てた」――ような体験の、どこが「面白い」のか? そんな冷たく暗い海の中へ放り込まれて、巨大な魚によって飲み込まれ、その魚の腹の中で、三日三晩祈り続けるような経験の、何が「面白い」のか? たしかに面白い。物語として、ストーリーとして、映画として、「自分ではない人間がそのような目に遭っている様子をば、自分は安全な場所にいながら眺めている」のであれば、たしかに、これ以上にないほど「面白い」に違いない。

だから、マトハズレだというのである。

物語や、小説や、映画のような「安全な本」に触れる感覚で、「聖書」に触れるから、マトハズレだというのである。

そうしたければ、それでもいい。しかし、そんな「安全な聖書」を何千年読み込んでみたところで、「知識」は募っても、「解説」は上手くなっても、「面白い(という感覚)」を熱っぽく述べ伝えることはできるようになっても、「今、生きているわたしの神に、この身をもって出会う」ことなど、永遠にできはしない。

そんな「安全な聖書」の中の、「(ヨブやエゼキエルやエレミヤのような…)誰かが出会った神」をば、どんなにか「面白く」述べ伝えていただいても、「今、生きている、わたしの神」には、絶対に出会えない。

へブル語でもギリシャ語でもいいが、聖書を原語で読んだからといって、それがなんだろうか?

ユダヤでもメシアニックジュ―でもいいが、何千年も選民たるユダヤ民族が守り続けてきた「祭り」を祝ったからといって、それがなんだろうか?

イエスをヘブル語風に「イェシュア」と呼んで、福音書に描かれた「ユダヤ人イエス」を研究したからといって、それがなんだろうか?

『はてしない物語』の中にのめり込んだバスチアン少年が、何度も何度も「現実に」命の危険にさらされながら、ついに「幼心の君」と「顔と顔を合わせて」会ったように、「聖書」を読んで、のたうちまわるように苦しみながらでも、「今、生きているイエス」と、「顔と顔を合わせるようにして」出会わずして、どうするのだろうか?

そのような実体験と人生経験からすくい取った「言葉」を述べ伝えなくして、何が「永遠の命」だというのだろう?

「預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれ」という言葉を読んだことがないのだろうか?

さりながら、

この世の中の「レビ人」と呼ばれ、自称「神に仕える人」たちとは、こんなカンチガイを堂々としている上に、臆面もなく「すたれるべき預言や異言や知識」を追い求め、「誰かが出会った神」を、飽くこともなく述べ伝えている。――なんどでもくり返すが、だから、だからこそ、マトハズレだというのである。

聖書を「面白い本」として述べ伝えるのが、「レビ人」の使命なんだろうか? あるいは「危険な本」だと言いながらも、バスチアン少年の手に取らせるべく仕向けたような古本屋の主人みたいな振る舞いが…?


はっきりと言っておく、

聖書を「世にも危険な本」として読んだ者として、はっきりと言っておく、

「安全な聖書」ではなく、「危険な聖書」をば、バスチアン少年のように読んだ者は、「いま生きている神」と出会う。

それが、世にも不可解な「神の恐ろしい顔」であっても、世にも恐ろしい「神の裁きの顔」であっても、それが「今、生きている神」なのである。

「神の裁きの顔」が、金や、得や、益や、運や、幸や…を、もたらしてくれたから、神を信じるのではない。むしろ、不幸や、病や、苦や、涙や、死や…をもたらしている(それを許している)からこそ、「神は生きているし、神は恐ろしいし、神こそ主である」と知るのである。

くり返しになるが、そんな本の、どこが「面白い」というのだろうか――!

がしかし、

ここからが、この文章を書いた主眼であり、わたしが筆を執り上げた目的となっていくのであるが、

「危険な聖書」は、ただひたぶるに、「神の恐ろしい顔」や「神の裁きの顔」なんかを見せるばかりでは、けっしてけっして、けっしてけっして、終わることがない。

「神の憐れみ顔」や、「慈しみの顔」という、「恐ろしい顔」と「裁きの顔」の裏側(表側)をも、必ず必ず、必ず必ず、見せてくれるのである。

それが、「危険な聖書」におけるたったひとつの、「救い」だからである。

それが、「いま生きているイエス」、だからである。

それが、「自分の人生をもって出会うイエス・キリスト」、であるからである。



「安全な聖書」なんぞを何百年何千年と読み込んで、あらゆる研究分析考察を積み重ねてみたところで、深遠かつ高尚なる神学論争はできても、ここでわたしの言っている単純かつ明快なる真理のことなど、終生、分かることがない。

「安全な聖書」なんぞを完璧な原語で読み込んで、海辺の砂のような信徒教徒に支えられた宗派教義神学を生み出してみせてみようが、「自分の人生という聖書」を読まなかったならば、

いつもいつでも目睫に横たわる、ぬきさしならぬ現実の中において、共に居てくれる「インマヌエルの神、イエス・キリスト」にあいまみえることなど、けっしてけっしてできはしないからである。

はっきりと言っておくが、

わたしは「聖書」なんか、この世の誰にも、すすめようとは思わない。

もしもどうしても手に取りたくば、今あるものも、将来得られるであろうものも、すべてを投げ捨て、いっさいを犠牲にする覚悟を持って読むがいい。

「怖ろしい聖書」は命を与えるが、「安全な聖書」は命を奪うからだ。

聖書――

こんな危険な本をば知らずとも、「人間の一生という聖書」は、ただそれだけで十分に苦しいし、不可解だし、悩ましいものである。

もしも「たかが本にすぎない聖書」が「面白い」というならば、もっともっと「面白い」ものなど、この世界に、それこそ海辺の砂のように存在している。

幼い頃に、バスチアン少年のように「聖書」を手に取ってしまったがために、わたしはこれまで、どれだけ、どれだけ、どれだけ神を憎み、憎み、憎み恨んだことかしれない。

そんな思いをば、次なる「バスチアン少年」にしてほしいとは、けっして思わない。

「神の恐ろしい顔」も「神の裁きの顔」も、いかなる「バスチアン少年」にも、「自分の人生をもって」知ってほしいとも、思わない。

だからもう一度、はっきりと言っておくが、「聖書」なんか、すこしも「面白く」などない。

それでも、「神自身にだまされて聖書を読んでしまった」、すべての「バスチアン少年」に言えることがあるとしたならば、

もしも「神の恐ろしい顔」も「神の裁きの顔」も、「自分の人生をもって」出会ってしまったのならば、けっしてけっして、恐れることなかれ――なぜとならば、それは「神の御心に沿った読み方」であるのだから…!

「神の恐ろしい顔」と「神の裁きの顔」の結末は、人間の死や破滅ではない。

もう一度言うが、「神の恐ろしい顔」と「神の裁きの顔」の目的は、バスチアン少年の死や破滅ではない…!


まだ生きている――

まだ生きているのならば、必ず必ず、必ず必ず、「神の憐れみと慈しみの顔」を、「自分の人生をもって、仰ぎ見ることができる」

それが、「危険な聖書」全体を貫くようにして書かれている、「神の約束」なのである。

「安全な聖書」でも「危険な聖書」でも、「聖書」なんか、たとえ一頁として読んだことがなくとも、「恐ろしい神と出会い」、自分の人生に悩み苦しんでいる「バスチアン少年」がいるのならば、

もう一度、はっきりとはっきりとくり返しておく、

その人は、必ず必ず、必ず必ず、「いま生きているイエス」に、出会うことができるしょう。

その時、涙はぬぐわれ、痛みは喜びに変わり、嘆きは賛美に変わり、苦しみは感謝となるでしょう。

なぜとならば、痛みも不幸も苦しみも、すべての出来事が、「いま生きているイエス」へと自分を導いてくれていたことを、はっきりと「この身をもって知る」からです。

どうか、北の空が分かれて、雲間が開き、大地の上に輝くように、すべてのバスチアン少年が、「いま生きている、インマヌエルのイエス」と出会うことができますように。



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