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わたしは主である ③

3.もう一度、シナイ山に登れ



話は変わるようだが、

モーセとユダヤの群衆による「荒野の旅」には、ふたつの象徴的な「山」が登場する。

ひとつが、シナイ山であり、この頂において、モーセは主なる神から有名な「十戒」を授かった。

そして、もうひとつが、ピスガ山(ネボ山)であるが、

この頂にあって、かつてモーセが何をしたのか――

そして、主なる神が何をしたのか――

それを書き表すことこそが、『わたしは主である』と題したこの文章の、真の目的なのである。


では、ひとつめの山、すなわちシナイ山において、モーセの授かった十戒とは、いったいなんであったのだろうか――?

その文字のとおり、十の戒律が石板に刻まれたものがすなわち十戒であるのだが、それらは「聖書はわたしについて証するものだ」と言ったイエスによって、以下のように要約されている。

 心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、

隣人を自分のように愛せよ、

――この二つの掟の内に、十戒のみならず、「律法全体と預言者は基づいている」とまで、かつてイエスは語ったのであった。

が、ここでは「律法全体と預言者」についての詳細について語る時間はないので、ただ結論だけを述べてしまうが、

この二つの掟を、その身をもって体現することができなかった人間たちの失敗の歴史こそが、ほかならぬ「荒野の旅」だったのである。

かつてシナイ山のふもとにあって、ユダヤの民たちは「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と一斉に声を上げたという。――さりながら、そのうちのただの一人として、あのモーセでさえも、その言葉のとおりに行動することはできなかったのである。

それが「荒野の旅」の顛末である。

「荒野の旅」ばかりでない、そのような人間の姿こそが、アダムやエバをはじめとした、聖書の中の登場人物たちの上にあまねく認められる、「罪」の正体であり、

さらには、聖書の中の話に限定されず、この現実世界におけるすべての人間の「本性(原罪)」だと言い切って、何のはばかりもない真実なのである。


それゆえに、

「人間とはすべて罪人(つみびと)であり、そのような私たちのためにイエス様は十字架で死んでくださったのです、アーメン。」

――これが、世界中の四流教会の四流牧師や四流神父や四流クリスチャンたちやが、ろくすっぽ意味も分からぬままに、日夜くり返している「アーメンごっこ」である。

あまつさえ、そんな「ごっこ」の締めくくりには、毎週のように「教会」なる建物の中で、当たり前のように「献金袋」が回されているのだから、――キリスト教なる宗教とは、なんともまあ、ラクなショーバイである。

かつて十六世紀の善良なる人々が自ら贖宥状を購入したように、現代の善良なる人々がそんなショーバイに自らすすんで「投げ銭」してしまうから、たとえば「世界でもっとも多くの人間に福音を語った」などと調子に乗ったカンチガイ野郎などが、「アブラハムの子孫とはユダヤ民族のことである」なる世紀のデマを、世界中にまき散らしたりするのである。

さっきも言ったが、こういうトンチンカンばかりがこの世で幅を利かせているせいで、私のような「神なんかオオバカヤロウだ」と平気でうそぶくような人間まで、「徴兵された」のである。


話を元に戻して、

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、

隣人を自分のように愛せよ、

――という二つの掟であるが、これらは、神が引いた「レッドライン」というふうにも表現できる。

つまりは、冒頭の代助と親爺の例のように、その「レッドライン」を踏み越えた人間には、与えられるべき「罰」がある。

それは、「死」である。

もう一度くり返すが、神の「レッドライン」を踏み越えたすべての存在に対して、神の与える「報酬」とは、「死」である。

だからこそ、聖書にも描かれたように、かつて「モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者」が、ヨルダンの向こう側の約束の地へ渡ることを許されずに、「死骸を荒野にさらした」のである。

さっきも言ったが、これが荒野の旅の顛末であり、シナイ山の結末であり、もっとひらたく言えば、「神の審判」なのである。

それゆえに、

シナイ山とは、とりもなおさず、「神の裁きの山」にほかならない。

だからこそ、その頂でモーセが戒めを授かったことは、後年、「人を罪に定める務め」というふうに書かれたのである。

そして、私からしれみれば世にも残酷で、冷酷で、冷血で、血も涙もないような「神の裁き」に、いかな文句があろうが、不服があろうが、それはけっして受け付けられない。

なぜとならば――

そう、「わたしは主である」からだ。


それゆえに、

この地上の世界とは、シナイ山ととてもよく似かよっているし、まったく異なっているとも言えよう。

どういう意味かというと、

この世の中にあって、文句があろうが、不服があろうが、「文句なしの親子の恩愛」や「文句なしの愛国心」や「文句なしの愛社精神」などを受け入れて、体現できた人間は、「親爺」から可愛がられたり、「国」や「企業」の要職に付いたりすることができる。

さりながら、

そんなこの世の有様のようには、人が「神の安息」にあずかることは、ままならない。

まことにまことに残念ながら――文句があろうが、不服があろうが、

先の「二つの掟」を体現できる人間のひとりもいないように、

主なる神の御前において、「わたしは主である」を体現できる人間も、

ただのひとりもいないからである。

聖書的に言うならば、

「義人はいない、ひとりもいない」

すなわち、すべての人間は「母の胎内にある頃から」、すでに「レッドライン」を踏み越えてしまっているからである。


がしかし――

そうだとするならば、ここでどうしても、ひとつの疑問が沸き起こってくる。

すなわち、

すべての人は、生まれ落ちる前からすでに神の「レッドライン」を踏み越えている――

あるいは、踏み越えるような「罪なる傾向」を携えている――

その罪なる傾向によって、誰ひとりとして、この世にあって「わたしは主である」を体現することをなしえない――

それがすべての人間の「本性(原罪)」であり――

すなわち「父母未生以前の本来の面目」であり――

すなわち「かたくなな心」であり――

すなわち「かくもとらえがたく病んだ心」である――と

もしもそこまで言うのならば、

「わたしは主である」という神なる存在は、それを知っていたはずではないか――!


いや、神が知らなかったはずもなく、「知らなかった」なんて言えたわけもない――

神はたしかに、すべての人間の「罪なる傾向」を知っていたし、誰よりもよく知っているのである…!

よくよく承知の上でありながら、かつてユダヤの民に「荒野の旅」を強いたように、今なおまったく同じ「荒野の旅」をば、すべての人間に対してまるで兵役のように強いているとしたらば、

それはいったいなぜなのだ――

なぜ、そのような「冷酷非道」なる振る舞いを、神は人に向かってしなければならないのだ――

事前の同意も合意も警告もなく、勝手に「生まれさせて」おきながら、

事前の同意も合意も警告もなくしても、「生まれさせていただいた」恩義に感じ入れとのたまって、

やはり事前の同意も合意も警告もなきままに、まるで生きるに値しない「荒野」のような人の世界に放り出してなお、

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くした「文句なしの神への愛」をば当然のごとく言い迫り、

そんな「めちゃくちゃなるレッドライン」を一度でも踏み越えようものならば、

一脈の仮借も容赦もなきままに、すべては自己の責任において「罰」を甘んじて受け入れろとは――!



天地の創造主であり、「わたしは主である」という神は、たしかに知っていた――

すべての人間は、たったひとりの例外もなく、神の「レッドライン」を踏み越えるしか手立てのない生き物であることを――

それが、「かくもとらえがたく病んだ人の心」であることを――

そう知っていながらも、

「産めよ増えよ」とのたまって、まるで生きるに値しないようなこの地上世界という「荒野」へといざなったのだ――

どうして――!

どうして、そんなものが、「訓練」なのだろうか――!

どうして、それは「罰」ではなく、「非道」でもなく、あくまでも「訓練」だと、断言できるのだろうか――!

かてて加えて、そんな「荒野の訓練」が、「神の恵み」であることを心に信じろなど、どうして言い迫って来るのだろうか――!


もしも、

もしも、「わたしは主である」という存在が、

こういういっさいの疑問や煩悶やに相対し、

代助の親爺的な親たちや、軍国主義国家の上官たちや、戦後レジームのブラック企業の上役たちや、

「主よ、主よ」と言いながらも「神の御心を行わない」、口先だけの、見せかけだけの、ポーズだけの「教会」や 「クリスチャン」たちやのあげつらうように、

ひっきょう「甘ったれた泣き言」にすぎないと、

口を合わせるようにして宣うだけの、その程度の神にすぎないというならば、

愛すべき代助や、漱石や、私の友人のためにも、

「わたしは主である」という存在に向かって、「アーメン」の代わりに「バカヤロウ」と唱え、「ハレルヤ」の代わりに「クソクラエ」と叫び上げるばかりである。


こんなことを言って、私は誰かの気を引きたいわけでもなく、同調や承認を乞うているわけでもない。

「人」なんて、どうだっていい。

それが実の親兄弟様であれ、大企業の雇い主様であれ、大教会の神父様であれ、世界でもっとも多くの人間に福音を語った大伝道師様であれ、世界を変えるような発明や発見や学説を唱えた大学者様であれ、世界でもっとも偉大な権威を持った指導者様であれ、世界を牛耳ることのできる大資本家様であれ、なんであれ、

それが、しょせん自分と変わらぬ、しょせん虫けらにすぎない「人」である以上は、

あらゆる「人」なんて、どうだっていい。

私のごときちっぽけ虫けら一匹さえ滅ぼしえなかった、しょせん虫けらじみた「人」にむかって、

涙や鼻水とともに、上からも下からも血を垂れながし、死病に冒された五体をもって、咽喉も千切れるほどに叫び上げてみたところで、なんになろう。

たったひとつだけの、真に叫び上げるべき対象とは、

「神」である。

ただひとつだけの、真に引き出すべき回答があるとしたら、

「神の回答」である。

神よ、オマエは何と言っているのか――!

ただそれだけが、私の「命をかけた祈り」だからである。


それでは、

このようにうるさく、しつこく、口もはなはだ悪い、しょせん甘ったれた「泣き言」をくり返す私に対して告げられた、「神の回答」とは、なんであったのだろうか――?

それを述べる前に、ひとつだけ、私に与えられた信仰によって言っておきたい。

すなわち、

世界の終焉とか、最後の審判などと言われて知られる「かの日」においては、すべての人間は、かつてのユダヤの民のように、もう一度、「神の裁きの山」である「シナイ山」の前に、立たされるハメになるであろうと。

神の裁きの山たるシナイ山とは、全山を煙に覆われた、うかつに近づけばただちに命を落とすような、まことに恐ろしい山である。

そのように、神の裁きは絶対であり、そこにはいっさいの容赦がない。

たった一度でも、神の引いた「レッドライン」を踏み越えてしまったならば、それがいかなる人間であったとしても、エデンからは追放され、荒野では殺され、神殿は破壊され、国は滅ぼされ、民は殺され、女も子供も他国へ捕囚として連れさられ――

そのようにして、けっしてけっして、約束の地にも、神の安息にも、入ることは許されないのである。

なぜとならば、そう、「わたしは主である」から。

それゆえに、

この世の終わりとか、終末とか、最後の審判とか言われる「かの日」においては、

すべての人間は、ただのひとりの例外もなく、

「わたしは主である」という神によって、そんな血も涙もない「裁きの山」の前に、「立て」と言われるのである。

あまつさえ、その山の頂に向かって、「登って来い」とまで、命ぜられるのである。


しかししかし、

恐れることは、けっしてない。

すこぶる口が悪く、どこまでも甘ったれた私を含め、たとえば「神は非道だ」などと堂々と言い得るある種の人間は、

恐れることなど、何もないのである。

「かの日」にあって、「立て」と命ぜられたならば、私は堂々と胸を張りながら、「二度目のシナイ山」の前に、立つことができる。

「登って来い」と命ぜられたならば、意気揚々として、「もう一度登っていく」ことさえできる。

なぜとならば、私はすでに、登っているからである。

かつてモーセが「二度にわたって」シナイ山を登ったように、私も「二度にわたって」、シナイ山を登っているのである。

そして、

モーセがそこで何を見たのかも、聖書の中の知識として知っているばかりでない、

はなはだ甘ったれた私は、自分の人生という聖書において、

二度にわたって登った「シナイ山」の、その頂において、

「わたしの神」と、顔と顔を合わせてあいまみえているからである。


それゆえに、

「もう一度、シナイ山へ登れ」

――これが、「神のバカヤロウ」という泣き言をくり返した私にむかって告げられた、「神の回答」だったのである。



つづく・・・

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