記録:3

 カーテンの隙間から、陽射しが漏れる。白亜の壁で反射した光が、ベッドで横たわる男の顔を照らす。死人のように安らかな寝顔に、思わず手をかざしたくなった。
「起きてよ……」
 気付かずに言葉が漏れていた。男の名は藁谷将大、私の兄だ。
 兄さんは一か月半前に、ステージの上でパフォーマンス中に倒れた。ようやくたどり着けた夢の舞台。そこに兄さんは一分も立てなかった。その無念は、どれほどなのだろうか。いや、そもそも無念を感じることができるのだろうか、今の兄さんに。
 目を覚ました兄さんは、ありとあらゆることを認識できなくなった。今自分がいる場所も、自分の名前も、光も音も味も、全て。その過酷さも多分、認識できない。本当に、ひどい話だ。
 世間では熱中症と疲労による脳梗塞だと言われている。事件発生からしばらくは病院にも家にも多くの人が押しかけて大変だったが、それも少しは落ち着いてきた。その代わりに、もう一つ大きな問題ができてしまったが。
 ベッドからはみ出た手を、強く握る。今にもあふれ出しそうな涙を、眉間にしわを寄せて食い止める。
「兄さん……私——」
 次の言葉を紡ごうとしたとき、ドアがノックされた。そして、返事を待たずに言語療法士の先生が入ってきた。
「こんにちは。熱心ね」
「——少しでも良いんで、そばに居たいんです」
「優しいわね」
 先生が近くにおいてあったパイプ椅子に腰かけた。そして、白衣の中から取り出したメガネを掛ける。
「でも、無茶しちゃダメよ。あなたはあなたの生活を続けなくちゃ」
「私の——」
 そこで言いよどんでしまった。私の生活を取り戻すことができるのだろうか。
「そう。任せて、あなたのお兄さんは絶対に私が治して見せるから」
「——はい、ありがとうございます」
 治せることができるのだろうか、この人に——いや、人間に。腕時計を見るともう一時半。そろそろ時間だ。静かに席を立ち、ドアを開ける。最後に、ゆっくりと振り返る。
「さようなら、先生。兄をお願いします」
「はい。さようなら」
 笑顔で手を振る彼女を尻目にドアを閉める。そして、息を整えた。さあ、答えを出そうじゃないか。

「で、こんなところに呼び出したんですね」
「ええ」
 とある公園の一角、木陰の涼しいベンチで私と彼は落ち合った。彼——スイセンさんは残暑が厳しいというのに、暑苦しい黒服を身にまとっていた。規定とはいえ、大変だ。そんなことを考えていると、彼からから書類を差し出された。
「それで、どうするのですか?」
 受け取った書類の中から、一枚を取り出す。そこには、中性的な容姿の耳と目がない人型の何かが写っていた。書類を掴む手に、力が入る。
「こいつ——アニを倒せば兄は元に戻るんですか?」
「過去のケースでは、その可能性はあります」
「そうですか……」
 兄さんが倒れた原因を鋭く見つめる。熱中症でも脳梗塞でもない。兄さんは、こいつのせいですべてを失ったんだ。
 人類の天敵。認知の捕食者。美しくおぞましいもの。人知れず現れ、人知れず捕食し、人知れず消えていく化け物。最初、話を聞いたときは変な輩に絡まれたものだと思った。しかし、過去の事例や証拠映像を出されては信じるしかなかった。
「決まりましたか? 私たちに与するか否か」
「はい」
 バッグにしまってあるペンケースの中から、ボールペンを取り出す。
「私は、藁にもすがります」
 あの優しかった兄さんを取り戻すために、あの平穏な日々を取り戻すために私は戦う。風が少し、強くなった気がした。


藁谷将大に何が起きたのか。


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