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給仕ロボットは無視をされ、僕は1680万色可変紅生姜に困惑する。

田舎にある牛丼屋、そこでよくみる光景の一つに「タブレット端末を店員さんに操作して貰う年配」がある。

タブレットの操作は簡単で、食べたい品に指で触れ、注文を押してしまえば完了する。ただそれだけ。
確かに、説明書がテーブルにあるわけでもない。「もう少し」と感じるメニュー画面でもある。
けれどわからないなら、とりあえず適当に押してしまえば要領が掴めるのでは?と思ってしまうが、そういった話ではないのだろう。

こういった場面はよく見かける。

昨今のファミレスでは、人の代わりにロボットが給仕をしている。
軽快な音楽を鳴らしながら、人にぶつからないよう器用に近づいてくるサマは結構好きだったりする。

あれは、平日の朝方だった。

読みかけの本を片付けてしまおうと、ミニパフェとドリンクバーを頼んで、窓際のテーブル席を陣取っていた。4人席だ。ガラガラとはいえ少し背徳感を感じるが、これがいい!
そんな僕の対角に位置する席に、一人の女性が座った。年齢は30代。なんの気にも留めてなかったのだが
その女性も前述の牛丼屋のように店員さんにタブレットを操作してもらっていた。
少し驚いた。だってスマホは触っていたんだから。
もっと驚いたのは
その女性がロボットから料理を受け取らなかったのだ。
異様な光景だった。

「お料理をお持ちしました♪ お料理をお持ちしました♪ お料理をお持ちしました♪ お料理をお持ちしました♪ お料理を――」

主張するロボット。無視を決め込む女性。事の顛末が気になる僕。
なんだかロボットが可哀想にすら思えてしまって、立ち上がろうかなんて悩んでいると、店員さんがやって来て解決していった。

どちらも店員さんの手間を減らすために導入されたシステムなのに、結果的に手間を増やしてしまっている。
もちろん前述の二例は、省略された手間の数に比べれば無いに等しいんだろうけど、それでも存在していることは確か。
ロボットの接客は無機質だ。会話は出来ないし、こちらから動かなければ会計の一つも終われない。
『いままでと違う』ことに対して拒否反応を起こす人は多い気がする。だって、新しく覚えないといけないから。いままでの手法でも問題なかったのにどうして、って気持ちがあるのかもしれない。

僕が中学生になった頃から、労働がロボットに奪われるという話はあった。チャーリーとチョコレート工場で主人公のお父さんが仕事を奪われたようなことが、現実世界でも続々と起こっていくと。
実際、喫緊の超社会問題にはなっていないが、いつか迎える未来なのは間違いがない。税理士の友人が自虐していたのを思い出す。
効率化の代償として雇用がなくなるなんてことは、僕にでも分かることだ。
効率化を目指した結果、削ぎ落とされた物を忘れてはいけないんだと思う。それがコミュニケーションだったり、人情だったりするんだろう。
同時に、そういった物をサービスに望むのなら、受動的ではなく能動的な態度でないともいけないんだろう。

『新しい物』を忌避している、という側面もあるはずだ。
昔からのやり方で十分だって意見は、学習を避ける理由としては便利だし、避けても生きていける。
本当に必要なら学習もするだろう。忌避する余裕があるのは、実は贅沢なことなのかもしれない。

つい最近、発行が始まった新紙幣に対して「玩具のように見える」なんて意見も目にする(紙幣の本質を抉る意見ではあるんだろうけど)。
不思議な話だ。
価値は変わっていない。いままでの紙幣の見た目だって玩具同然だったじゃないか。一万円は一万円だ。
情報は変化しない。変化したのは、情報を捉える眼の方だと思う。
自身の眼をアップデートすることを怠って、かつ世界に「昔は!」と喚き散らすことが出来れば、立派な『老害』の完成だ。

間違いなく、僕も新しい物を忌避するときが来る。
いや、もう来てる。
Vtuberを見てインターネットキャバクラだと感じたし
VRChatでフォロワー(男)がメスになっているのは不気味だし
なろう系小説に面白さを感じるために随分と時間が掛かった。

30年後、まだ僕が生きてるとして、技術の進歩が止まらなかったとしたら、もっともっと、僕が受け入れ難い生活が来るだろう。
きっと
人々は、限りなくリアルに作られた仮想空間に作られたクラブで
性別も容姿も自由にカスタマイズしたアバターを纏って
AメロトBメロが消え失せたBPMだけがやたら速い曲に頭を振りながら
本体が男か女かも分からないアバターを誘っている……のかもしれない。

そんな未来が来たとしても、僕の違和感は、スマホを知らない世代の人達が感じてきたギャップに比べれば小さいんだろう。
板一つが世界を変えるなんて思っていたはずもないんだから。
それと同じことが起こるかもしれない。
ずーっと酷い、爆発的躍進とは真逆の、デイ・アフター・トゥモローのような世界が訪れているかもしれない。

だから
牛丼屋のタブレットに難色を示す姿を見て、他人事だと思えない。思ってはいけない。
30年後、僕が牛丼屋の席で難色を示していることもあり得るし
1680万色可紅生姜に困惑している可能性すらあるんだから。
ただ
機能効率に一辺倒になるのではなくて、少しだけでも非効率の面影を残すことが、優しさだと信じたい。

1680万色可変紅生姜の食べ方に困っている未来の自分のためにも。

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