リハビリテーションのリハビリテーション②
リハビリテーションを真のリハビリテーションに回帰させる事で、社会における諸問題の根本問題が見えてくる。
私の提起するリハビリテーションの事だけでなく、全般的な社会問題への対処として、国の方向性に異を唱えたい。
ひとり親問題、いじめの問題、性的マイノリティの問題などは、
まずは手当てという事で、何らかの利得を、全て社会保障制度の中に組み込む。その財源は無限とされる赤字国債の発行で賄い、”いま・ここ”的に問題を安易に処理して、ほぼ対処は終わる。
根本に潜む真の問題探究に切り込まない。この国の未来の在り様を全く考えない愚かな事だ。
真の問題点に触れるには、大きな発想の転換が必要である。
私は、ここに挙げた諸問題の根底にあるものが共通していると感じている。
それこそが、個人・他者・社会における「存在」の認識の軽視である。
どの問題も、「自分らしく生きる」事がしにくくなっている問題であると考える。
これらの対象者を”社会的弱者”と捉えて、法的権利や社会保障で保護する事は、まさに”いま・ここ”対応であり、
まずやるべき事であるが、理想としては最終手段であるべきと考える。
私が提唱する「リハビリテーション原義主義」に基づく、個人の「自分らしく生きる」事を互いに認め合う社会の形成。
それは個人の、自分らしく生きる「存在」を認め合う、個人意識の改革と、社会への波及。
これを現実のものとする為には、幼少期からの教育に取り入れる事しかない。
相手に「それは君らしいね」と言ってあげられる自分の価値観、「本当は自分はこうしたいんだ」と言える社会においてそれを認めてあげられる他の人の価値観。
あらゆる環境下で、素直に取り入れられない状況も、もちろんあると思うが、
少しでもこの価値観が皆の心の中に芽生える事ができたならば、
社会はもっと良い方に変化していくだろう。
今改めて、幸せな将来を見据えた”実現可能な理想論”が重要である。
”実現不可”は難しいかも知れないが、”実現困難”は”実現可能”にしてみたい。
それが理想論である。
夢想家にならないと”夢”なんて作り出せない。
多くの国民が今、幸せを感じられないのは、将来に対する漠然たる不安があるからである。
今一度、実現可能な理想論について考えてみよう。
我が国の悪いところ。
新しい思想は海外から持ち込み、理念をわが国の価値観をマッチングさせる事もなく国内に導入する。
最近では”SDG’s”なんてのもそうである。わが国に元から根付いているSDG’sはないのだろうか?
即時そのまま導入しないと、”世界のお仲間”に入れないからだろうが、
「わが国としてどうなのか?」、「わが国流の在り方を考えよう」と一旦国民で考える機会を持ち、最終的に世界の価値観と合わせるロードマップの提示が必要ではないだろうか。
国としてのビジョンにはなかったかも知れないが、地域においては持続可能な社会形成についてのアイデアと実践があるはずである。
国は、国民が、自らその社会問題に対して試行錯誤を重ねながら主体的に取り組んでいる「構え」を捉え、その正当性を評価した上で、世界の思想と対等にマッチングを試みて欲しい。
白熱した議論は民主主義国家の健全な姿である。
揉める事を想定し、新しい価値観の浸透には不可欠なプロセスである為に、おざなりな”公聴会”等の開催で、国民の議論、即ち国民の「考える力」を衰えさせる強権の発動を止めるべきだ。
確かに議論を終わらせたくなるような、稚拙な反論もある。
ただ、賛成も反対も、最終目標は同じ、個人・社会として「幸福」を感じる為だと思う。
ゴールについて共通認識があるのにわかり合えない。本当にもったいない。
「リハビリテーション原義主義」は、このすれ違いを見事にして解消してみせる。