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【DVで苦しんでいた頃の夢】恐怖の目覚めと今のわたし **あの選択があったから**

過去のブログから
昼間ちょっと精神的にこたえる事があり、一旦寝たものの夜中に覚醒
古いブログを読み返していて・・あっ、そんなこともあったな、とここにアップしなおしてみました。

***2019.2.18***
呪縛がとけ…長い事見てなかったDV系の夢をみた

登場人物は何故か知らない人ばかり。

けれども、結婚をしていた頃、暴力を受けていた頃の"どんなにもがいても逃れなれない"ような重い圧力を感じていた。

もしかしたら助けてくれるかもと思う人たちが、目を背け知らぬ顔をするのを見たときの、あの なんとも言いようがない絶望感と孤独感で胸が押しつぶされそうになって目が覚めた。

まぁ、誰しも危ない事には関わりたくないし、火の粉が降ってくるのは誰しも怖い…仕方のないことだ。自分にそう言い聞かせていた。

どちらにしろ…今はもうあんな思いをすることもなく平穏な日々を過ごしている。

元夫は数年前に亡くなって、この世にいない。
偶然街で鉢合わせる心配もなくなっただけでも怖さは減った。
たまに電車で似た感じの人を見かけるとヒヤッとしてしまうことも、少しずつ減ってきた。


ちょっとしたきっかけで怒りのスイッチが入ると止まらない人だった。言葉の暴力も酷かった。

心理学を学んだ今思えば、やりきれない想いを抱えていた人でもあったのだろう。

出会ったころは、そんな性質を抑えていたようだったが、何かのキッカケで一度暴力をふるい、タガが外れてしまったのであろう。

『いつかは変わるはず』『子どもが生まれたら、もしかしたら』
そんな幻想も幻想のまま。
歳を重ねるごとに酷くなっていった。飲酒の影響も大きかったように思う。

足首を持って逆さにされて出刃庖丁の背で脅されたり…
嫌な酔い方をしていた日『今日はなんだか怖いな』と予感して、浴室の内鍵をかけて入浴した時に、案の定「開けろ」と騒ぎだし、怖すぎて開けなかったのだが…木刀で(何故持ってたのか?)お風呂場入口のすりガラスの戸を割られた事がある。

割れたガラスの破片が湯船に降ってきて皮膚に刺さり、温まっていたからかパッと血が流れでて赤く染まる湯船…当時幼かった子ども達がそれを目にしてしまったこともショックで悲しかった。

やはり酔って、何かの言葉に反応してキレ、小鍋でわたしの目の当たりを叩かれたことがある。

怪談話に出てくるお岩さんのように右側の顔が腫れあがり目の高さが左右で違ってしまうほどだった。

子どもたちが、わたしの顔を見て怖すぎて笑ってしまうほどの状態で、いっとき顔がこのままになるのでは?と不安だった。

そんな状態であっても、警察に相談した時にも民事だからと介入せず。

『危なそうな時には合図を出すから警察を呼んでね』って息子にお願いしておいたことがあり、実際に呼んでもらった事があるが、

その時も警官は玄関から中には入ってはくれなかった…玄関の内側で服の上からお湯をかけられてた時も…「助けてください」と虚しく響くわたしの声。

最初に逃げた時は、まだDV法ができる前だった。
それでも、とても親身になってくれた市の職員の女性がいた。

着の身着のまま3人の子ども達と逃げ出したものの途方にくれ、ビジネスホテルに事情を話し、後で必ず支払うと伝えて泊めてもらえた時、出してくれた塩おむすびの美味しかった味は今でも思い出せる。そして翌朝、かなり長い道のりを幼かった子どもたちと市役所を目指して歩いたことも忘れられない。

婦人児童課に相談し、市役所の食堂でご飯をご馳走になり、そのままゴルフ場の女子寮に連れていってくれた。そこでしばらくキャディとして働いた。

小学校一年生だった息子の名字を変えて転校する手続きなどしてくれ、防災頭巾や学校で使いそうなものを集めてきてくれた担当の女性はいろいろと気にかけてくれた。

結局.逃げても言葉巧みに役所の方から大まかな情報を仕入れてしまう人で、その時には数ヶ月でみつかり連れ戻されてしまったのだが、その時の担当の女性は役所を定年退職する少し前に、心配して電話をくれた。

見ず知らずの人にもらった恩がたくさんあったなと様々想いが、怖い夢をきっかけに思い出される。


***
このブログを書いたのが4年近く前。

DV法が成立した平成13年に裁判離婚してからだいぶ経つが、長いこと追いかけられる怖い夢とかをみていたと思う。その度に怖かったが…気がつけば、このブログを書いた日を境にすっかりみてないように思う。

13年の結婚生活よりも、気付けば離婚後のシングルマザーとしての生活の方が長くなっている。

最初に逃げ出した時小1だった息子が中学生になった時に『おかあさん、いま出ないとおばあちゃんになってから別れても仕事もなくて大変だよ。逃げられなくなっちゃうよ』と背中を押してくれた。

子どものためにと我慢していたつもりだったが…わたしだけにではなく、子どもにも暴力を振るうこともあったので。

離婚して育ち盛りの子を4人育てる生活は大変だったものの、あの時の選択は子どもたちにとっても正解だったのだと思う。


あの時、離婚していなかったら
きっと今のようなフリーランスでカウンセラー活動とかできなかっただろうし、娘とダイビングの旅なんかも縁がなかっただろうなぁと思う。心理学を学ぶ心の余裕もなく、不平不満でいっぱいだったかもしれない。

最初は複数の仕事を掛け持ったりしていた。
そのうち派遣という働き方が増えてきたころに派遣登録をして、様々な仕事にチャレンジもでき、思ってもみなかった自分の得意な事も見えてきたり(苦手の事もクローズアップされて)、派遣先で知り合った若い方々の考え方に触れ、都度ブラッシュアップしながら生きてこれた気もする。

何度かの選択の時

回り道もあったけれど、離婚後は、しっかり自分で決めて生きてこれたことは誇りでもある。


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