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(ほぼ)100年前の世界旅行 イギリス(2) 7/31-8/19

7月末にロンドンに到着した眞一。引き続き友人たちとの再会を楽しんでいます。18年ぶりに会ったのは、超絶親切な写真家です。

ハーバート・ポンティング氏

8月6日、Oxford Circusに住むポンティング氏を訪ねた眞一。18年ぶりの再会で「禿げてるし太ってるし、道で会っても誰だかわからないだろう」と散々な言いようです。

これに遡る1910年(明治43)各国の探検隊が南極点への最初の到達を競っていました。英国スコット隊と、ノルウェーのアムンゼン隊、さらに日本の白瀬陸軍中尉も同じ年に南極を目指しています。このスコット隊に同行していた写真家が、ポンティング氏です。アムンゼンに約1ヶ月の遅れをとり南極点に到達したスコット隊5名は帰路に遭難。南極点には同行していなかったポンティング氏は生き残り、一行の姿を伝える記録写真・映像を持ち帰って、講演などを通じて広く公開していました。ロンドンの美術協会での写真展や、英国やデンマークの王室に映像を披露することもあったようです。

眞一と同氏との出会いは、ポンティング氏が1902年ごろ(明治39)から(日露戦争時の日本陸軍に米雑誌特派員として従軍する時期を挟んで)通算約3年間日本に滞在していた頃と思われます。日本各地を旅した記録はのちに”In Lotus-Land Japan”(1910)と題して出版されました。その翻訳版が「英国特派員の明治紀行」(新人物往来社 昭和63)ですが、翻訳にあたり事物の説明が多い部分は割愛したとのことで、日光滞在に関する部分は含まれていません。そこで原書にあたってみると、14章の”Nikko and Chuzenji”に、以下のような記述があります。

My first visit to Nikko was inseparably connected with the name of Kanaya.  

In Lotus-Land Japan (1910) 1985年正宗猪早夫氏による復刻版より。

金谷ホテルは1893年(明治26)には四軒町の金谷家の武家屋敷から現在の場所に移り本格的な西洋式ホテルとして運営を始めており、ポンティング氏来晃の頃眞一は、東京の立教学校での勉学を切り上げ父のホテルを手伝っていました。日本各地を旅し、日本人や文化をよく観察し、理解を深めていたポンティング氏との出会いは若い眞一にとって刺激的だったことでしょう。今回1925年のロンドン滞在中にポンティング氏から、南極探検の記録映像を使った講演(cinema lectureとして革新的だった様子)のこと、また日本に行きたいという意向を聞いた眞一は、彼が日光の記録映画を制作したら、当世風の良い宣伝になるだろう、と日記に書いています。

8月8日、眞一が保養地Weston-super-mareで静養中の友人、トーマスクック極東支配人グリーン氏を訪ねるにあたり、ポンティング氏が自分の車で送ってくれることになりました。そこから彼の故郷のソールズベリ、ストーンヘンジなども見物し、ボーンマス(モンティパイソン、ジョン・クリーズの出身地!)で一泊。翌日ロンドンに戻りました。

ここに泊まりました。

このドライブ旅行の途中の森や町を気に入ったようで「ここに住みたい」と複数回書いています。くつろいでイギリスを満喫している様子が伺えます。

オークの森。ここも気に入りました。

長いドライブであいにく風邪をひいてしまい、旅行後は一日中ベッドで過ごしましたが、ポンティング氏の南極体験記”The Great White South”(1921)を読み耽り、十分休養が取れました。

この表紙の写真、有名ですよね。

心配して様子を見に来てくれた彼に”Oh what a good fellow”と感謝しています。その後も南極探検の記録を見せてもらったり、食事をしたり、Henley-on-thamesを一緒に再訪したり、ロンドン滞在の後半はほとんど毎日一緒です。おそらく最初で最後の英国滞在がかくも有意義だったのは全くもってPonting氏のおかげである、と日記に記しました。

結局Ponting氏の再来日は実現しないまま、1935年(昭和10)に亡くなりました。著書”In Lotus-Land Japan”には、日光や中禅寺の風景や歴史、伝承、人々が大変細やかに温かく記されています。もし、再来日が実現していたら、どんな日光を撮ってくれたでしょうか。見てみたかったですね。

次の目的地はパリ、そしてスイスへと眞一の旅は続きます。

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