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(ほぼ)100年前の世界旅行 セイロン(2) ヌーワラ・エリア〜再びコロンボ 1925/11/24〜26

世界旅行も終盤、現在のスリランカの高原リゾート、ヌーワラ・エリアに滞在中の曽祖父・金谷眞一が出会ったのは、世界を渡り歩いた農業のプロ。驚きの旅は続きます。


こんなところに日本人

ヌーワラ・エリア滞在二日目、前日夕方からの豪雨の隙を見て、人力車で前日列車から見た茶畑の中の道を見物に出かけました。すると車夫が、ここから五里ほどの山奥に日本人の農場があるのを知っているかと話しかけます。
これ、親切そうなガイドに「こっち安全」とか言われてついていくと….というアレですよね。

眞一も、山奥に誘い襲うつもりかとまずは危ぶみ、でもこの男となら格闘になっても勝てそうだと考え、結局好奇心が勝り、人力車を降りて昼なお暗き熱帯の山道を歩き出します。ドキドキです。
巨大な鳥が飛び交い、車夫の英語も要領を得ず1時間ほど歩いても家は見えません。もう、帰りたい。すると突然横から大柄な現地人が一人飛び出してきました。万事休す、か…。

「驚いて思わずステッキを固く握り戦闘準備をなす。この男、体は巨大なるもなんとなく小僧顔にて悪人らしき様子なければ、汝は日本人の経営せる農園を知るやと問いたるに、立派な英語で
“Yes, sir. I am working under Mr. Igarashi and Haga who are opening a large farming of vegetation in this region. If you are visiting them, I shall take you to the gardens. “
との返事を得てやっと安心。」

金谷眞一 1925年11月24日日記より

よかった〜。一緒に歩いて行くと確かに耕作地と小屋があり、そこにいたのは屈強な50代の芳賀氏と、30代らしき五十嵐氏とその夫人です。初対面ですが話が弾み、五十嵐夫人の心づくしの凍み豆腐と素麺の昼食をご馳走になりました。この農園は、コロンボの東郷商会(前回登場した沼野氏のミカド商会同様の土産物屋兼代理店)の経営でした。芳賀鍬五郎氏は北海道出身の農学博士(さすが、「くわごろう」さん!)で、欧州の農園を視察した経験があり、家族を東京・高円寺に残してきている、と眞一は書いています。五十嵐氏は出羽出身で、農業実践はここが初めての様子です。眞一は遠い異国で農園開拓に励む3人の決心と勇気に感動し、大いに励まし別れました。

世界を渡り歩く農業・園芸のスペシャリスト

この「芳賀鍬五郎」氏をググってみると、著作に関する日本語情報と共に、繁体中国語の情報もずいぶん出てきました。AIさんに翻訳してもらったところ(便利ですね)、芳賀氏は1873年(明治6)に山形県で生まれ、1892年に札幌農学校に入学(第20期生)。札幌農学校といえば、初代教頭クラーク博士が卒業生へのはなむけに贈った言葉「青年よ、大志を抱け(Boys, be ambitious.)」が有名です。

話はそれますが、この訓示には続きがあり、「金や個人の出世や名誉のためでなく、知識、正義、同胞の発展のために大志を抱け。」ともあったのだそうです(諸説あり)。背筋が伸びます。

さて、おそらくそんな精神と共に農業を学んだ芳賀氏は、1903年に農商務省(今の農林水産省)で海外事業練習生となりました。アメリカ・ミズーリ植物園、英国王立植物園(Kew Garden)、英領インド・セイロンのベラデニア植物園に赴任したのち一旦帰国。1907年に台湾総督府に招かれ、園芸実験農場で13年間農場長を務める傍ら、各種品評会の選考委員や庭園の設計、南洋諸島や豪州、フィリピン、インドでの作物の調査や南洋植物の研究も行うなど、園芸の専門家として台湾ではよく知られた人物だったのです。眞一が出会った1925年は、インドネシア・ジャワ島の農場監督の任を終えて、東郷商会の招きでセイロンに来て農業指導をしていたのでした。ここには1年ほど滞在したのち帰国し、1931年に亡くなっています。この時代に農業・園芸のスペシャリストとして海外でも学び、活躍していた日本人がいたのですね。日本のアジア進出には光も影もあるでしょうが、芳賀氏のような人々の勇気や大志には敬意を表したいものです。五十嵐氏については残念ながら調べてもわかりませんでした。1930年代には日本を取り巻く世界情勢につれてほとんどの日本人がセイロンを離れたようですが、それまでに五十嵐夫妻の農園経営が成功していて欲しいと願う気持ちになります。

雨と寒さ


眞一はこの日の日記で、雨降りの中の山歩きは「悲惨」と振り返り、「日光に来るお客の苦しみを自ら体験した」と記しました。農園から戻り、夜には寝台列車でコロンボに向けて出発。寒さに閉口し、ボーイに追加の毛布を頼むと5ルピーを請求されます。あまりの高額に理由を聞いたところ、毛布は勝手に使われないよう寝台券番号を確認して開封するため、追加を要求するのは寝台券をもう一枚買うのと同じ、との回答。あきらめて手持ちのシャツ2枚、パジャマ、雨コート、セーターを全て着込んで、寝心地の悪い一夜を過ごしました。普段ホテルの主人としてお客をもてなすのとは逆の立場になってみることも、この旅の収穫だったことでしょう。

コロンボ再び


翌朝到着したコロンボは晴天。行きにグランドオリエンタルホテルに忘れた汽車の切符をヌーワラ・エリアに郵送してくれたポーターに礼のチップを渡したところ、手間と費用がかかったと暗に増額を要求されちょっとムッとしています。旅先で相手の厚意と思ったのが違った時のがっかり感、でしょうか。滞在はゴール・フェース・ホテル。

今のGalle Face Hotel。ナイトクラブCoconut Groveも有名だったそう。

この写真のように華やかに現存しています。スエズ運河以東最古の、1864年創業だそうです。支配人のチャンドラー氏に挨拶すると、日本の家具を買いたいというので眞一はカタログを送る約束をしました。日光の木彫作品を売り込むことも念頭にあったのかもしれません。

東郷商会の大野氏に会い、芳賀氏の農園を訪問したことを告げ、さらにポートサイードの南部憲一氏のコロンボ支店に兄・慶三氏を訪ね、憲一氏に世話になったことの礼を伝えました。

コロンボの名物商売人


ミカド商会の沼野氏とも再会し、自宅にお呼ばれして和食をご馳走になりました。眞一は一家団欒の場に呼んでくれた厚意に深く感謝しています。

沼野氏はコロンボにきて3年ほどの新興の土産物商で、名産の宝石も扱っていましたが、手強いライバルがいました。インド人宝石商のハシーム商会です。愛嬌たっぷりのカタコトの日本語を操るA. K. ハシームとその息子たちが1892年から営むこの店は、「エー・ケー・ハシーム」と目立つカタカナの看板を出し、日本人客にもらった名刺や推薦状を次々繰り出し言葉巧みに宝石などを勧め(しかも、日本円OK、後払いでも可!押しが強い!)、船の出航まで時間があると見るやキャンディの仏歯寺ツアーに送り込むなど、口八丁手八丁の名物店だったようです。

1930年ごろのハシーム商会のカタログ。錚々たる「お得意さま」がたです。

皇太子時代の昭和天皇も欧州航路の途中で立ち寄ったそうで、ハシーム商会はこれ以降もちろん「皇室御用達」を名乗っています。沼野氏が、日本郵船の船長や事務長らまでが懇意のハシームを日本人客に勧めている、同胞なのに無情だと恨むのを聞き、眞一は励ましの歌を贈りました。

 皮膚(はだ)は焼け 肉も血も湧く常夏に 住めど忘れぬ 国の同胞(はらから)
 良し悪しは 見る人々の心とし 咲けよここにも やまとなでしこ
 商いは 偽らぬこそ もとでなり ただひたすらに いそしみをせん

金谷眞一 1925年11月26日日記より

ハシーム商会は主に日本郵船の船客をターゲットにしていたためか、英国船でたった一人到着した眞一がキャッチされた様子はありません。感想が残っていなくてちょっと残念です。

沼野氏とは郊外の海水浴場にあるホテル・マウントラビニアにも出かけました。

こちらも現存のHotel Mount Lavinia. 見事なコロニアル感。

ホテルが海岸に設けた脱衣所の屋上に見物客用のテラスをつくり、ティーサービスを行っていることに感心しています。

ホテルのサイトにテラスの絵葉書がありました。これですね。

眞一はコロンボから大勢が海水浴に来ると聞き、リゾートの集客には何かスポーツが必要だ、日光にもプールが欲しい、と日記に記しました。
眞一念願の日光金谷ホテルのプールがホテルから少し離れた小倉山に作られたのは、1931(昭和6)年のことでした。

欧州を出て以来、日本人との出会いがずいぶん増えました。眞一の日記には、人々が遠い異国で活躍したり、苦労したりしている様子が生き生きと残され、眞一もその姿に元気づけられているように思われます。

神戸に向かう船を待つ5日間のスリランカ滞在を終え、11月27日にはいよいよフランス船Dumana号でインド洋航海へ。最初の停泊地はサイゴンです。
(3月20日訂正:次の停泊地は、シンガポールでした。その次がサイゴンです。失礼しました。)

参考文献:
「欧州航路の文化史」第4章「インドの代名詞コロンボーデッキパッセンジャーとハシーム商会」 橋本順光 青弓社 2017年


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