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(ほぼ)100年前の世界旅行 セイロン(1) コロンボ〜キャンディ、ヌーワラ・エリア 1925/11/21〜23

エジプト・ポートサイードを出発し、英国船Dumana号で紅海、インド洋の2週間の航海を経て、曽祖父・金谷眞一は英領セイロンのコロンボに無事到着しました。

コロンボ上陸

11月21日、早朝から荷下ろしが始まりました。乗客の多くはマドラスやカルカッタに向かい、コロンボで降りる乗客は少なかったようです。当時のコロンボは英国植民地であるセイロンの主要港です。「15日間同じ釜のパンを食べた船友60余名に別れを告げ」、大きな荷物はトーマスクックの人足に持って行かせ、自分は英国で買った釣り竿とステッキを持って小舟に乗って上陸しました。入国検査も問題なく、Grand Oriental Hotelへ。ホテルの部屋は「倉庫のよう」と感心していませんが、神戸に向かう船を待ち合わせるための5日間の滞在を利用して翌日から山の方へいく予定なので我慢です。

1875年創業。1960年代にジェフリー・バワにより改修された現在の姿です。

このホテルはオランダのセイロン総督のために建てられましたが、1837年には英国軍のバラックに、その後改装を経てホテルとして開業したものです。

冒頭の写真はおそらく、大通りの一つで、港にも近いヨークストリートではないかと思われます。コロンボはアスファルト舗装された道路と整然とした街路の美しい街だ、と眞一は日記に記しています。

ホテル近くにあったトーマスクックの支店長に挨拶し、山行きの旅程を組んで戻ったところ、ミカド商会の沼野氏の来訪を受けます。午後には店員が迎えにきて、沼野氏が経営する宝石や雑貨の店を訪ねました。

沼野氏

眞一の日記に「H. Numano」、「沼野氏」としか記載がなくフルネームが不明ですが、Proprietor of Mikado & Co. と同時に、東京の時事新報のSpecial Correspondentだったとも書かれています。海外の邦人を特派員として情報収集することはよく行われていたのでしょうか。沼野氏はコロンボに進出して10年あまり、苦心の末単独経営となった、とありますから共同経営にまつわる色々な問題があったということでしょう。またこの地には強力なライバルもいました。この話は山からコロンボに戻ってきた後に書きたいと思います。

2人は競馬場(Colombo Race Course)にも出かけました。広大な芝生の見物場が美しく、場内には現地の人も白人も女性を含めて入り乱れて賭け事に興じているけれど、酔漢は1人もおらず、大声も出さずに整然と楽しんでいるのは、日本の競馬場とはずいぶん違うと驚いています。沼野氏は五百円ほど儲けて喜色満面、眞一も1勝1敗で、その日の出費を上回るほど儲けました。婦女子が両手に余るほどの賞金を持ったまま次の賭け馬を選んでいる様子が剛毅、と感心しています。賭け事をこんなふうに自由に楽しむには自制心を養わねば、とは自戒の言葉でしょうか。

この競馬場はその後第二次大戦時には飛行場として使われ、戦後には賭博禁止法により競馬は終了し、土地も色々な用途に分割されました。現在は観客席や建物はリニューアルされ、グラウンド部分はラグビー場となっているそうです。

キャンディへ

翌日早朝出発です。なんとホテルに列車の乗車券を忘れてしまいましたが、「ポーターの如才なき取り扱いにより」乗車できました。車窓からの風景を楽しみ、英国式の広軌の汽車のコンパートメントには扇風機や専用の洗面所もあり、停車場には花壇があり整然として欧州よりよほど優れている、と書いています。クック社が作った旅程では途中のナヌ・オヤから夕方出発するヌーワラ・エリア方面行きに乗り換えるはずでしたが、待つのをやめて帰りに寄る予定だったキャンディに先に行くことにし、昼前にQueen‘s Hotelにチェックイン。こういうフットワークの軽さには毎度驚きます。3食付き17.5ルピー(15円75銭)。昼食後早速仏歯寺見物に出かけました。頼んでいないのに、案内人が英語と「日本語で」説明した、と日記にありますが、この頃それほど日本人が訪れていたのでしょうか。建物は粗末だが、老若男女が平身低頭し何事か唱えながら祈願する様子は、日本のお寺で見るとまったく同じだ、と感想を書きました。

Queen‘s Hotelは、キャンディの王のために19世紀初めに作られ、その後英国のセイロン総督の屋敷や、軍の施設やホステルなどに使用された後、1869年からQueen’s Hotelと称し、1895年には大規模な改修を経て高級ホテルとして再開業。今も続いています。

昔の姿。ホテルも町の様子も、あまり古さを感じさせないですね。

このホテルにはこの年の6月に秩父宮殿下も欧州行きの途中に宿泊されました。コロンボで欧州へいく船を待ち合わせる邦人の多くが、キャンディまで足を伸ばして滞在していたと眞一は書いていますから、なるほど、仏歯寺の案内人が日本語で説明するのもそういうわけなのですね。ちなみに、この秩父宮様の渡欧が、眞一が世界旅行に出かけようと考えたきっかけでした。最初は宮様の船のどこかに乗せてもらえればと考えたようですが、諸般の事情で叶わず、また、南洋によく出かけていた弟・山口正造(箱根・富士屋ホテル)から6月にインド洋を航行するのは体に悪いとアドバイスされました。当時欧州に行く場合、日本郵船の船で西に向かうのが一般的だったようですが、そんなわけで眞一は、宮様と同じ6月に、反対方向の太平洋へ、プレジデント・タフト号で単身出発したのでした。

翌日は朝食後に人力車で、ペラデニヤ植物園へ。熱帯の植物で充たされた庭園をみて、「弟正造が如何にこの種の植物を嘆賞するならんと、同伴せざるを残念に思えり」と書いています。

ヌーワラ・エリヤ着

植物園から戻り、午後はヌーワラ・エリヤへ向かいました。茶畑(セイロン紅茶ですね)とゴムの林、水田の間をうねる急勾配を、途中から狭軌に乗り換えて汽車は進みます。駅から人力車で夜9時半にグランドホテルに到着。こちらは第5代のセイロン提督のために1827年に建てられたバーンズホールを元にして開業したホテルです。こちらも現存。今のキャッチフレーズは、”The Grand Dame of South Asia”、「南アジアの貴婦人」です。

元々1階建だったものに2階、3階と追加して現在の姿になったようです。海抜六千二百尺(1878m)、「軽井沢と(奥日光・中禅寺の)中宮祠の混合というところなり」、滝や湖があり冷涼な風景を「故郷の文挾駅近くの地点と似ている」と書きました。夜は毛布2枚を重ねても寒かったようで、数日前はインド洋の炎暑で船上で寝苦しい夜を過ごしたのを思い出し、「旅行以外に得られない激変であり、それが楽しみだ」と書きました。

コロンボ、キャンディ、ヌワラ・エリアそれぞれに、蘭領、英領時代の建物が、オーナーや形を変えつつ100年前も、今も、ずっとホテルとして営業していることに驚きます。

明けて11月24日の日記冒頭には、「山奥にて日本人に会す」とあります。一体どういうことか、この続きは(2)で。




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