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(ほぼ)100年前の世界旅行 フィレンツェ〜ローマ 1925/10/7-16

イタリア湖水地方の旅を満喫した曽祖父 金谷眞一。イタリアの後にはエジプトへの旅も控えていますが、その前に花の都・フィレンツェ、そして、永遠の都・ローマが待っています。そして世界旅行中、最大のピンチも。

フィレンツェ

100年前のベニスにはあまり感心しなかった眞一、主な理由は、街が衛生的によろしくなかったことだったようです。「水が臭い、夜見た方が良い街」との感想で、1日滞在しただけで旅程を変更して次の目的地フィレンツェに向かいました。丸一日汽車で移動し、夕方にはフィレンツェのHotel  Italieに落ち着きます。ここは水道がある小さい部屋だが設備が近代的で良い、と日記に書いています。
フィレンツェには5泊の予定ですが着いて早々に「3泊でもいいかも」と思っている様子なのは、如何なることでしょうか。

これまでも古い遺跡や建築を見学した日に、古いものが今とそれほど変わらない形で存在していることには感心する一方で、「人間は物質的にも精神的にも大して進歩していない」と日記に書いています。昔の人はすごいなあと感心するよりも、翻って自分たちはどうだろうか、と内省するタイプだったのでしょうか。もっとよくなれるはず、もっと進歩できるはず、という焦燥感のようなものも感じられ、それが眞一時代の金谷ホテルの原動力だったようにも思えてきます。

フィレンツェ


とはいえ、何しろフィレンツェですので、主だった名所を1日かけて観光し、「イタリアは世界の芸術の半分を保有しているようだ」と感嘆しました。でも滞在3日目には、シエナ行きの観光ツアーが催行されず、一人で近郊のフィエーゾレを観光したのち、ローマに移動することにしました。

旅につきものの、アレ

夕方の汽車の一等車に乗り込んだところ、茶色の服をきた男が「ローマにいくのなら、席を変わらないとこの車両は切り離されます」と話しかけてきて親切に棚の荷物を下ろしてくれました。その男とともに通路に出たものの、車両の間の扉が閉じていて通行できずしばらく立っていた時に、男に後ろポケットの財布をすられてしまいました。別の車両に落ち着いてから気がつき、750リラ、日本円で77円ほどを失いました。眞一は日記に「やられた、やられた。生まれて初めて外国の掏摸にやられた」と書き出し、でも「財布は次女の雪子が出立の際に手渡してくれたイタリア製だったから、生まれ故郷に帰って満足だろう」と余裕を持って書いています。旅券などは無事だったこと、恐らく列車の通路が通行可能だったら、男はすんなり荷物を仲間に手渡して全部盗まれただろうから、まあこの程度で済んでよかった、という気持ちだったようです。結局掏摸氏が言った通り、はじめに乗った汽車は切り離されてローマには行かなかったので、一片の良心を感じたのかもしれません。

この災難を乗り合わせたフランス人とイタリア人の二人連れに話したところ、現金がない眞一に夕食をご馳走すると申し出てくれました。そんな理由はないと断りましたが、「他日日本に来遊の折、返礼を受くべし」とまで言われたので申し出を受けました。この時眞一は、ニースで風で飛んだ帽子を拾ってくれた若者が謝礼を固辞したことを思い出します。そうした厚意と、この盗難事件、そしてまた親切に巡り合い、「これも一つの経験として旅の戒めとなる」と日記に書きました。

「永遠の都・ローマ」はやっぱりすごかった

災難の後到着したローマでは、まずはGrand Hoterl Romaにチェックイン。ここは気に入らなかったようです。翌日近くのトーマスクックに出かけ、ロンドン支店のHinde氏や日本からの手紙も受け取りました。宿もHotel Majesticに変えて、ここからはトーマスクックの観光ツアー三昧。眞一は日記にこう記します。

英国のナショナルギャラリーに行ったとき、これを超えるものはないと思ったが、取り消す。ローマは他のどこよりもすごい。ヨーロッパの芸術の半分はゆうにある。世界の宝、知らなかったことが恥ずかしい。

1925年10月10日日記より(著者和訳)
古都チヴォリのヴィラデステにも足を伸ばしました
バチカン・サンタンジェロ城
パンテオン
バチカンのアポロン。個人的にはラオコーンをこよなく愛します
バチカン美術館 ラファエッロの間「アテネの学堂」


現在の私たちが行くようなところは全部観光し、3日目には「あまりに色々見て何がどこにあったかも列記できない。神武天皇の頃からの完全無欠な作品の数々。わが国の美術は到底誇るに足らず、のみならず美術品と称する資格なし」と白旗を上げました。この街は随分気に入ったようです。

船旅の値段

さてローマでは観光の他にも先の旅程を決めなければなりません。トーマスクックのマウリツィ氏に相談し、ナポリ発の香取丸(日本郵船)でエジプト・ポートサイードへ行くことにしましたが空きなし。

乗れなかった香取丸。シュッとした綺麗な船ですね


ブリンディジーアレクサンドリアしか方法がありませんが、このHelouan号がたった2日の船旅で34ポンド(400円超)とあまりにも高いので躊躇します。マウリツィ氏も「世界一高い」と言います。

こちらがたった2日で「世界一高い」Helouan号。だいぶ大きいです

この当時の価格を現在の価値に換算するのは難しいのですが、一番安く考えても44万円。流石に1日考えましたが、やはりやむなくブリンディジーアレクサンドリアを予約しました。結局たった2日間で39ポンド、468円。

眞一は旅程の費用を云々する際には走行距離で割って比較するのが常ですが、この時は「1時間当たり9.5円」と計算し、ぼったくり!高すぎ!と憤慨しています。でも、ほかに方法がない、と自分を納得させて「欧州で見るべきものは見た。マウリツィ氏の厚意に感謝せねば」と、書きました。あーでも、やっぱり高い!と頭をかきむしっていたかもしれません。

というのも、ここで日記は2冊目を終えて3冊目に入るのですが、3冊目の1ページ目が、これまでの旅程の費用の記録から始まっているのです。まとめると;
・横浜ーホノルル経由ーサンフランシスコ   
             5477マイルが300ドル(718円)
・モントリオールーケベック経由ーリバプール 
             2772マイルが145ドル(362.5円)
・ブリンディジーアレクサンドリア      
             830マイルが39ポンド(468円)。

確かに高いです。ただ、ここで日本郵船の船に乗れなかったことが、眞一の旅を当時の多くの日本人の旅とは違う、ユニークなものにした可能性があるのです。この続きはエジプト編で。

ローマからブリンディジに行く途中、ナポリ、ソレントなどを巡ります。また新しい出会いが待っています。

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