なぜ小説家に憧れるのか

なぜ小説も書けないのに小説家に憧れるのか

昔から小説が好きだったと言うのは確かです。
小学生の高学年から大人向けの小説を読み始め、高校生、大学生の時は常に小説を片手に暇があれば読んでいたような気がします。

常に現実とは違うもう一つ別の世界を抱えながら生きている感覚が、とても好きでした。

匿名性を考慮して、あまり具体的な好みは控えますが純文学系のものを好み好きな作家の本は全て読むような読み方をしていました。

社会人になって、かつてほど読む量は減りましたので、小説好きと今は公言するのも憚られる部類になっているかもしれません。

それでも小説が好きだという気持ちはあります。

小説自体が好きだ、という軸は確かにありますが、もしかして小説家への憧れは、もっと別のところにあるような気もしています。

こういう理由です。

「人生に退屈し始めている」

この年になると、さまざまなことを経験してきました。
よほどのお金持ちでなければ経験できないようなことは経験していません。

けれども、平均的な庶民の同じ年代のサラリーマンが経験する平均的なことは、具体的な部分は異なっても、おおよそ平均的には経験してきています(ひとえに年齢を重ねたということですが)。

そして、このままの生き方でこの先どうなるのかも、おおよそながら見えてくるものがあります。

だからこそ、大きく人生が変化することを望む気持ちが生じている。
そして、その変化させたいという気持ちと、小説家になりたいという気持ちとが、二つの意味でつながっているのだと思います。

一つ目は、小説家になって、これまでのサラリーマンとは別の職業に携わってみたい(つまりは、キャリアチェンジによる人生の変化)。

二つ目は、世界や社会から受け取るものではなく、自分自身の内発的に生じるもので、自分を楽しませたいという欲求。

この二つ目のほうが、理由として大きい気がします。

周囲から受け取るものを素直に受け取って楽しむことが最近できなくなっている。それこそ飽きてしまっている。
自分以外のものが中心になって作られたものを、受けとる日々に素直な興味がわかなくなっている。

美味しい食事も値段のはるお酒も、旅行先の素晴らしいホテルで過ごす時間も、住み良い住居も、社会的な地位も、どれも年相応くらいではありますが平均的に経験し、かつ先を見通したときに、
そこに「自分の内発的な創造」がないなかでは退屈している自分がいる。

であれば、自分が本当に満足するものは、自分自身で創り出したい、という気持ち。

つまり、小説家への憧れは、小説の中において自分が満足するものを自分自身で内発的に生み出したいという気持ちに起因しているように思います。

小説家は、小説の世界において「神」となります(大袈裟ではなく、自分が好きな小説は、いつまでも私の心のなかに世界としてあり、その世界を創造した小説への憧れというか尊敬の念があります。並大抵でできるものではなく)。

そういう創造的な行為ができる能力に憧れ、求めているのだと思います。

小説を書こうとしても書けない

小説を書けるという能力と活動は素晴らしいもの。
自分も世界を描きたい、と思う。

けれども、ここで大きな問題が横たわっています。
大きな大きな根本的な問題です。

小説を書きたいという熱烈な気持ちはあれども、
文章力がない。描きたい熱烈な物語を持っているわけではない(あるような気もするがおぼろなままに)。

小説家に向いているのは、きっと気がつけば小説を書いている人、
暇があれば下手でも上手くとも小説を書いてしまうような人、
根っからの文章を書くのが好きな人ではないか(職業となると、そうも言っていられないとしても)。小説を書く行為そのものが苦にならない人ではないか。

けれども、自分は小説を書こうと思っても何も書けない(実は一作なんとか書いてみたのだが)。
書いてみても、拙い文章でしかなく、ほとほと嫌気がさしてしまう。

自分が読む小説の文章と、自分の文章との落差に、大人と赤ちゃんくらいのギャップを感じる。

文章力も創造力も、構成力も何もない。何よりも書いても、あまりの下手さに辛くなっていくだけだ。

それでも小説を書けるようになりたい、努力あるのみ

それでも小説を書けるようになりたい。
欲張って一年後にどうなることを期待しているわけではありません。

ただ努力して、一番下の期待値としては十年後、
自分の心に浮かぶことを、それなりの文章力で、それなりの構成力で、一つの世界へと昇華することができるようになっている。

このくらいの目標であれば、達成できるのではないか。

そのために、日々努力して能力を開発していきたい。
そんなふうに思っています。

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