90年代後半の早稲田大学とか、演劇研究会とか、第三舞台とか・・


私は本当に幸いなことに第一希望の大学に入学しました。
一浪ですし、学部は第一希望じゃなかったですけれど。

当時、私の希望大学は、偏差値72。
倍率10倍みたいな学校でした。
早稲田大学第一文学部。
私が行ったのはその夜間部。
とはいえ、夜間部の最高峰。
腐っても早稲田。というか、早稲田の二文と日大芸術学部はほぼレベルも人気度も一緒でした。
だのに、日芸の文芸専修を早稲田の二文と試験日を重ねるくらいのいやらしさ。
教えている講師(民間系)もややかぶっていたりもしたようです。

村上春樹の母校として名を轟かせた学校です。

私が憧れたのが村上春樹(はもちろん読んではいましたよ)ではなく、早稲田大学演劇研究会。
鴻上尚史さん作演出・第三舞台です。
私が受験した時にはすでに学生演劇などではなく、私が最初にであった時には、イギリスで公演をして、凱旋公演で新宿のシアターアプルで公演をしていた頃でした。
天使は瞳を閉じて
たまたま、何度も電話をして当日券のチケットが取れて、その公演を見に行くことができました。
ロビーには鴻上尚史さんがいました。

中学生だった頃の何よりのアイドルは鴻上尚史さんでした。
手に入る限りの戯曲を読み漁り、エッセイも読みました。
父が私の鴻上尚史好きをとても応援してくれたので、父は毎週、当時鴻上さんが連載していた週刊朝日を私に読ませるために月曜には家に帰宅しました。
父は自営業で、広告代理店の下請けの仕事をしていました。
さらに言えば、父はもともと演劇青年で、自称宇野重吉さんの孫弟子でした。
演劇やそういう世界が我が家には近いところにありました。
当時は、多分、チャゲ&飛鳥とか東京ラブストリーとか、そんなものだったように思いますが、私が興味があったのは、フジテレビの深夜放送のカノッサの屈辱、とか、やっぱり猫が好き、とか。
そして、そもそも鴻上尚史さん、第三舞台でした。
当時はぴあという情報誌があり、それが本当に情報の全てでしたし、見ているだけで楽しめました。
はみ出しyouとぴあというちいさなコラム?がページのしたにあったりしました。
そこで、ビデオの交換とか依頼をしたりしました。
当時、第三舞台のことについては、wowwowの映像やらが頼りでした。
そもそも、私が第三舞台を知ったのは、 wowowのbe here nowアウトテイクスという番組でした。
録画したのは兄でした。当時やっていた、IQエンジンというのに出演していたのが第三舞台でした。兄はミリオタ?で、第三舞台という名前から何か軍事的なものを悟ったようでしたが、それは違っていました。
自己啓発セミナーに嵌る人たちと若い友情を重ねる人間の描写に圧倒されました。
それは台詞でした。ことば。
大高洋夫さんという方がいうセリフに圧倒されたのでした。
人形の話で、その人がどれだけ大事かを伝える、という。
その言葉は私が当時、親しくしていた友人に伝えたい言葉でした。
何度も何度も繰り返し見ました。
台詞ももちろん覚えました。

当時、結成からちょうど10年だったので、10年の記録のビデオも出ていました。
それも本当に台詞も音楽も全て覚えてしまうほど見ました。
だから、私は当時の世間の流行等を知りません。ただ、ひたすらそのビデオを部屋で再生していました。そうではない時は、鴻上尚史さんの戯曲なり、エッセイなりを繰り返し読んでいました。
そこで紹介された本も読みました。
そこで出逢ってよかったのが大島弓子さん。
鴻上さんは、私の知恵の源でした。大島弓子さんの他にもいっぱい読みました。
繰り返して何度も読みました。
サイン会にも、講演会にも行きました。
私の初恋の人は本当に鴻上尚史さんでした。

鴻上尚史さんはエッセイを書き続けていましたが、第三舞台の公演は無くなりました。
トランスという三人芝居がありました。
松重豊さんと第三舞台の長野里美さん、小須田康人さんのお芝居でした。
小須田康人さんが仕事のストレスで離人症になり、それを治療する高校時代の友人の長野里美さん演じる医師と同級生でオカマ(という言い方がどうかはわかりませんが、その中ではそのセリフもありましたし、当時はそういうしかなかったです)の松重豊さんが支えると。
もし、三人の誰かが死にたいようなことがあったら、どんな状況にあっても、集まろう、と。
当時はまだ高校生はただただ普通に受け入れていました。
松重豊さん演じるおかまのターミネータおかまのシュワこの存在感はすごかったです。

今、思えばあれはフィクションなのだと思います。

少なくとも、自分が生きている世界から鑑みたら、それはロマンティックな夢でした。

第三舞台は、私が中学生だった頃、第三舞台‘81〜91というメモリアルブックを出しています。
当時、本当に夢中だった私は、それを隈なく読みました。
あとがきにありました。
第三舞台の公演があなたが生きていた人生よりハードだったら今回の公演は負けです、というようなことが書いてありました。

多分、というか、事実、ハードでした。
それはまあ別の私の何かを読んでください。

高校生になった頃、鴻上尚史さんが結婚をしました。
私はそれを同じ部活(音楽部)の後輩から聞きました。
鴻上さんって、花ちゃん(後輩でしたが、上下なく、そういう言い方をする部活でした)
の好きな人だよね? と。
うちでは見ていない朝の情報番組でやったそうでした。
当時はヤフーニュースなどない時代です・・・。
ああ、となぜか冷めました。

中学生の時、初めてサイン会に行きました。
それは土曜日で、なんか授業の都合(欠席とか?)で、私はプールを泳ぐ必要がありました。
午後、鴻上さんのいる新宿紀伊國屋に行く予定でした。
前から、チケットは取っていましした。
プールで私は600M泳ぎました。
そして新宿の紀伊國屋に行きました。(我が家は都下でした。父が四谷に事務所を持っていたので、新宿は既知でした)
サイン会で、そのことを言うと、中学生か、まだわかんないよね、お父さんに読んでもらいなよ、と。

本当にショックでした。
いやいや、私は理解しているよ、と。
あなたは自分は中学生だかの頃、すごく世の中をわかったフリをしていたのに、そう言うことをい言うのか、と。

ちなみにそのサイン会の後、別の(これは多分、父が見つけてくれた)篠山紀信さんとの対談の公開イベントに行きました。
シノラマという紀信さんの奥様、樋口可南子さんの南国で撮った写真とお話を聞きました。
中学生だった自分には、全てがわかった訳ではないと思います。
でもな、と多分思っていました。

早稲田大学に入学する前、大隈講堂裏の演劇研究会を見に度々行きました。
当時は、東京オレンジとか、双数姉妹さんとかでした。
東京オレンジはよくわからないけれど、なんだか華やかで。その中心に堺雅人さんがいました。
特別、格好いい訳ではないのに、すごく輝いているのもわかりました。
総数姉妹は本当に難しくて、鴻上尚史さん風ご挨拶も高尚で、ああ、偏差値高い(早稲田は96年くらい、最高に偏差値と人気の高い大学でした。政経が偏差値75(この数値は当時の偏差値という概念のほぼ最上です)学校は違うよねえ、と思ったものでした。
総数姉妹の明星明美さんはなかなかすごい存在感で話はよくわからなかった(ロシアか何か?)のですが、圧倒されたのを覚えています。
その後、野田マップとかの舞台にも出ていらっしゃので、ああ、やっぱり違うなあ、と。
私も憧れてはいたのですが、凄すぎて、入れませんでした。

のちに演劇系の授業で仲良くなった男の子は、鴻上さんに憧れて、演劇研究会に入って、稽古を重ね、舞台にも立っていました。
けれど・・・。顔は悪くないけれど、華が本当になくて。
当時大学に跋扈していた、大学紛争の名残みたいな。学生連合?の役がめちゃくちゃハマっていて、痛かったです。
神戸出身で、母親と妹さんが見にいらしていました。本当に上品なお母様でした。
本人も僕は絵に描いたような中流の家に生まれた、と話していました。(当時はそれが中流のいい時代でしたのよ)
彼は、早稲田で演劇をやると言うので、自前学生をしていました。
そういう学生が結構、同期にはいて、彼もその一人でした。
一文ではなく、2文(夜間部。でも、それでも偏差値62で、倍率5倍)だからだったかもしれません。
親に夜間部でお金をもらうのは忍びないと、趣味貧乏をしていた同期はいました。
別の友達もそうで、四畳半トイレ共同みたいな物件に住み、私はよく飲み代を貸しました。

当時の早稲田の二文の学費は半期で30万円くらいだったので、できた技ですね。
でも、それにしてはいい授業がいっぱいあったので、いい学校なのだな、と思いました。
でも、当時は受かっていのに、なんだか聴講生みたいな居心地の悪さがあったりしたのですけれどね。

鴻上さんも授業をやっていました。

でも、私は受けることはなかったです。

一度だけ、学校ですれ違ったことがあります。

なんとも微妙な心地がしました。

90年代後半の早稲田大学の話でした。

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