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父の葬儀の話

母の時はお坊さんの都合が第一優先だったけど
父の時には火葬場の空き状況が優先だった。

逆算して本葬は三日後か四日後か。
葬儀屋さんが空き状況を確認しながらそのように告げた。

やがて、父の物言わぬ父が帰って来た。

エバーミングで綺麗にして頂いた上、
お殿様のような死装束を着せられている。

父は贅沢をする人ではなかったから、
その様が気恥ずかしそうでもあり、誇らしげでもあった。

やがて妹が、新幹線で駆け付けてくれた。

挨拶もそこそこに、父の枕元に駆け寄ると
『お父さん、何やってるのよ』と声を駆けた。

それは10年前の母の時と同じ光景だ。
歳の差の分だけ、
早くに両親を亡くしてしまった妹が可哀想で仕方なかった。

私と同じように、妹もまた気丈だった。
担当の方に挨拶をし、

『父から話は聞いています。
生前は父がお世話になり、有難うございました』

と頭を下げた。

父にとっての私は『姉』で、妹とは悪友のような関係だった。
二人で供託して、私を『おにーこ』と呼んでいたこともある。

きょうだい間でしこりを残したくなかったので
葬儀の日取りやその他の希望は、妹の意見を優先させることになった。

少しでも長く一緒に居たいと思いきや

『三日後で良いんじゃない?
お父さんも、お母さんに早く会いたいだろうし』

と云う、意外な答えが返って来た。

それもそうか、と思い、葬儀の希望を伝えた。

遺影の写真選びや、受付に飾る写真(数枚)を提出用に選ぶ。
遺影の写真は、父にとって最後の免許更新の物になった。
エンディングノートと同じように、見付け易い場所に置いてあったのだ。
アルバムもマメに整理してあったから、写真を選ぶのも苦ではなかった。

母との思い出、家族の思い出、子供たちとの思い出
祖母と一緒に出掛けた写真、夫婦の旅行の写真。

車が好きで、海や山に連れて行ってくれた。
草花が好きな母とは、花見の写真が多かった。

(まだまだ、これからだったんじゃないの?)

家のこと、恩返しのこと、何も成し得ていない。
父はあと数年の間に、家業の引き継ぎをする筈だったのだ。
何も終わっていないまま、余りにも早過ぎる。

悲しみ、怒り、悔しさ、後悔。
その時の気持ちはやはり、言葉では表しきれない。

葬儀のことも、一番相談したい相手なのに、死んでしまうなんて…
自分は舵を失くした船のようだ…とぼんやり思った。

お坊さんの運転手はどうしますか?
タクシーを手配しますか?

と訊かれた時、居合わせた叔母が
『息子に頼もうか?』と言ってくれた。

後に問題になるとも知らず、その申し出を受け入れた。

施主はお姉ちゃんが、と言われたので、
父への言葉は妹に任せることにした。

母の時は、家族を代表して、私が父と妹の手紙を代読したのだ。

その時に、自分の言葉で送りたかったと言われ、
ずっと心に引っかかっていた。

音楽は生前から、『葬儀で流して欲しい』と言われていた曲があった。

父はオーディオや音楽が好きだったから、クラシックから映画音楽、
母との思い出の曲など直ぐに選ぶことが出来た。

『生演奏も出来ますよ』

と言われ、一も二もなく弔奏を引き受けた。

小さい頃からお月謝を払ってくれたし、
私の師匠が、一緒に演奏して下さると快諾して下さった。

お棺に入れる品物は少し迷った。

両親は物持ちが良い上に、母の遺品も手付かずであったから、
還暦の時に贈ったちゃんちゃんこ、父の日にあげた服、
帽子や作業着も含めると、頭を悩ませるものだった。

一方で食べものはすぐに決まった。
父の好みは誰よりも熟知している。

妹が買ってきたものは、父の好みと異なっていた。
父は、妹が帰省する度に、妹が好きな物を買って来ていたのだろう。

妹の気持ちや思い出もあるから、
そこは、妹が選んできたものを優先させた。

妹は帰省する度、東京駅でお弁当を買って来てくれた。

その日も数種類のお弁当買って来てくれたので一緒に食べながら

『お父さんが好きなお弁当も買ってきたのにね』

と云うような話をした。

母の時と同じように、親子川の字になって寝た。
途中で目が覚めた時、妹の寝相が可愛くて、父と一緒に写真に収めた。

その時の写真を見返すと、就寝中なのにマスクをしている。
葬儀の時も参列者全員がマスク姿。

今振り返ると異様な光景だが
その時にはそれが当たり前の感染対策だと思い込んでいた。

打ち合わせの合間を縫って、私は父のお金を下ろしに奔走した。
何故なら、口座が凍結されてしまうからだ。

葬儀代を確保しておかないと…
その頭が何処かにあった。

友達が銀行員の為、
『おくやみ欄に載るまでに、殆どの遺族がやること』
と聞いた覚えもあった。

相続税は何時、どのタイミングで支払うのか。
その時には予備知識が無かった為、漠然とした不安だけが心を占めていた。
(後に、亡くなってから十ケ月後と知りました。
利子は付きますが、分納と云う方法もあります)

父も家族葬ではあったが、そもそもとして斎場の設定料金が高い。
パンフレットを見せられ、セットフランを選んだのだが、
見積もりの時点で、1.5倍くらいの料金提示をされた。

母の時にはお花を優先したのだが、
父の時には良い車に乗せてあげよう、できょうだいの意見が一致した。

父は本当に車が好きで、プラモデルなども所有していた。
景色や音響を楽しみたくて、映画館に行くのも好きだった。
南極物語やクリフハンガー、タイタニックも一緒に観に行った。
(それぞれ別々のタイミングで同じビデオも購入していた)

演奏会でも感動して、良く鼻を啜っていた。
私を『四季』のコンサートに連れて行ってくれたのも、父だった。
当時の私は中学生。
途中で眠ってしまったことを、暫く揶揄されたものだった。

母の時も父の時も、私は打ち合わせの合間に仕事をしていた。
替えが効かなかったのもあるが、現実逃避の部分もあった。

噂が噂を呼び、組内の人が続々とお線香を上げに来てくれた。
ご近所付き合いは、お父さんの管轄だ。

その時には誰が誰かわからない人もいたけど、
『俺のこと、あんちゃん、あんちゃん、って慕ってくれてよ』
と泣いて下さった方もいらした。

父は下から二番目だったから、年上の方から可愛がられていた。
『何時も声を掛けたり、庭木を切ってくれたよ』
別の方が、そんな風に声をかけてくれた。

後で知ったのだが、一人暮らしのお年寄りなど気にかけ、
剪定や草刈りをしてあげていたらしい。

『困った時はお互い様だ』

と、常々口にしていたから、
その後の私は、近所の方たちに助けて頂けたのだろう。

更に驚いたのは、
父とは親ほど年の離れた叔母(父の姉)が、駆け付けてくれたことだ。

ヨロヨロと父に近付くと
『先に逝くなんて順番が違う。アンタは本当に馬鹿だねえ』
と愚痴めいたお別れを口にした。

その他に会いたい人はいないかな?
父のスマホの連絡帳を見たが、遣り取りをしていた相手は少ない。
不動産屋、子供たち、ケアマネさん。
後は法テラスの弁護士等だった。

通夜当日は、見事な秋晴れだった。

家族葬まで
親子水入らずで過ごせる残り僅かな時間だ。

母の時には、チェックアウトした叔父が会場ではなく自宅へやってきた為
今回は親戚全員に、直接会場へ向かって頂くようにお願いしていた。

しかし、お坊さんの送迎を『息子に頼もうか?』と引き受けてくれた叔母が
突然、自宅に押し掛けてきた。

要約すると息子さんとの伝達事項が上手く行かず、
『どうしよう』と言ったものだった。

私は最初からタクシーを頼むつもりで居たので、
今からでも…とお伝えしたのだが
『私が何とかするから気を遣わないで』の一点張り。

押し問答で時間だけが過ぎて行く。
斎場のお迎え時間も近付いているのに…

その瞬間、私の中で何かが切れた。
人が居るのも忘れて、トイレの中へと駆け込む。

パニクった叔母を窘め、宥めてくれるのは父だった。
私達、家族を守り続けてくれたお父さんが、居なくなってしまった。

『……お父さん!お父さん!』

気付けば泣き叫んでいた。
泣き止まなければ、と思うのに、堰を切ったように涙が溢れてくる。

哀しみ、怒り、不安や焦り。
その時の感情は、今でも上手く説明出来ない。

一つだけ言えるとすれば、父が居なくなってしまった喪失感を、
強く感じた瞬間だった。

号泣すること十分、
トイレから出た時に、叔母の姿は消えていた。

代わりに斎場の担当者が来て下さっていた。
どれだけの間、私の慟哭を聞いていたのだろう…
気まずさもあったが、何もなかったかのように頭を下げて下さった。

担当の方は、斎場のイベントなどで度々、父と会っていたようだった。

『エンディングノートに、
もしものことがあったら貴方に連絡するよう書いてあって』

とお伝えしたところ、
『そのエンディングノートを清書したのは私です』と言い
父の亡骸に手を合わせて下さった時も、涙を浮かべて下さっていた。

妹は車の運転が出来ない為、父と同じ車に乗る事となった。

父が母を喜ばせる為に手を掛けた
家や庭の周りを回って、車が遠ざかって行った。

つい二ヶ月前に父が選定したばかりの木々は、綺麗なままだ。
頭にずっと頭に靄がかかって、現実味がない。

『悪い夢だ』という言葉が思い浮かんだのは、
母の時に続いて二度目だった。

母の時も、
父は安定剤を飲んでいた為に霊柩車で、
私はやはり一人、自分の運転する車で斎場へと向かった。

入口には父の名前が入った葬儀の看板。
エントランスには思い出の写真や品物の数々が飾られていた。

家族葬ながら、親戚からのお花も頂き、慎ましくも立派なものだ。
お棺に入れられた父は何処か窮屈そうで、
『実はドッキリでした』と、今にも起き上がってきそうだった。

出棺までは透明のカプセル状の蓋。
好きなタイミングで、何時でも顔を見ることが出来る。

次々に親戚が集まって、通夜が執り行われた。
親戚全員が集まるのは、冠婚葬祭の何れかだ。
次第に世代交代して、従兄弟たちが参列するようになっていた。

母の時は父がお坊さんと話し込んでしまって、控室まで私が迎えに行った。悪びれる様子もなく『もう時間かー』と飄々としていた父。

その時、会話の相手をして下さっていたお坊さんが、
父の為のお経を上げているのが、すごく不思議な気持ちだった。

従兄弟がどのように送迎してくれたかはわからなかったが、
何とか滞りなく終わったように思えた。

父が眠る隣りの部屋で、告別式の打ち合わせをする。
斎場から頂いた進行表やひな形を持って、私は一度帰宅することになった。

家の戸締りや葬儀の進行やお別れの挨拶の打ち込み、
葬儀で流す音楽を編集するのも二度目のことだ。

何時かはお別れがくると思って居たけど、少なくても今ではない。

これから先の漠然とした不安、
父が入院中に観た『ミッド・サマー』を思い出して
途轍もない孤独感に苛まれていた。

時系列は忘れてしまったが、何故かSIMカードが読み込めなくなり
携帯ショップにも行った。
お父さんの姿を撮っていたから、『止めて』と言いたかったのかな…

コロナ禍だったから、通夜振る舞いもお弁当だった。
何処の仕出しか、美味しかったのを覚えている。

斎場には家族だけで泊まった。
母の時は水風呂のままお風呂に入ってしまったので
父の時には『気を付けないと』と思いながら、お湯を沸かした。

眠るギリギリまで、父の耳元に語り掛けたり
父が好きだった音楽や思い出の音楽を、それぞれに流したりしていた。

良くないとはわかっているが、
母が亡くなってからの私は、ずっと睡眠障害を患っている。
父が危篤状態となってからは、睡眠薬が欠かせなくなっていた。

コロナ禍の頃、眠る前に聴いていたフィーリングミュージック。
iPhoneから流すと少しだけ落ち着くことが出来ていた。

自分の寝室でもなければ一人でもない。
家族で過ごせる最後の夜だな…と考える間もなく眠りに就いた。



翌朝、担当の方が父の為にステーキを焼いてきて下さった。

『天国で、大好きな奥様と食べて下さい』のメッセージ付き。
お仕事だからかもしれないけど、お気持ちが嬉しくて泣いてしまった。

告別式は別のお坊さんが来て下さった。
もしかすると娘さんなのかな?
透き通った声で、歌うようにお経を読み上げて下さった。

父は女きょうだいが多かった為か、異性のお友達が多かった。
今頃、冗談を言って笑わせたかっただろうな、と思いながら
最後に送って下さるのが娘さんで良かったね、と心の中で語りかけていた。

弔奏には、私の師匠に来て頂いた。
リハーサルも何もなかったけれど、快く引き受けて下さって感謝している。

曲は以前、父が『弾いて欲しいなぁ』と言っていた映画音楽とみんなの歌。

父の人柄を知る先生は

『弾きながら、お父さんの顔を見ていたら涙が出てきちゃった。
こんなこと初めて』

と、お悔やみの言葉を掛けて下さった。

施主の挨拶も二度目だった。
母の時、父から『泣いちゃうから出来ない』と頼まれ手紙を代読したのだが
席に戻ってから妹と二人して『早口だったな』と言われたのを覚えている。

ゆっくり読み上げたかったけれど、告別式も分単位で動いている。
周りが時間を気にしているとわかったから、
その時も早口になってしまった。

本当は火葬場なんて行きたくない。

精神の死、肉体の死。
記憶以外の死が刻々と近付いている。

思い出の品の上から、参列者にお花を入れて頂き
お棺の蓋が閉められる時には、この上無い絶望感を味わった。

家族葬とは言え、やはり親戚や斎場の方には気を遣う。
先生と従兄弟にお車代を包んで、妹から渡すように手配もした。
(どちらも受け取っては頂けませんでした)

火葬場行きのバスには、妹と親戚が乗った。
施主になって初めて、父と一緒の車に乗った。

斎場の運転手が、祭壇に飾ってあったボンドカーのプラモデルを見て、
『お父様は007が好きだったんですね』と話し掛けてきた。

その両手首には大量のパワーストーン。
仕事から、着けてるのかな?と思いながら、父のコレクションの話をした。

火葬場付近も、父との思い出がいっぱいだ。

UFOキャッチャーで遊んでいた場所、好きだったラーメン屋、

祖父母とみんなで行った焼肉屋。

父は、何で居なくなってしまったんだろう…

隣りに人が居なかったら、発狂して居たかもしれない。
悲しくて寂しくて、どうしようもない孤独感に苛まれて仕方がなかった。

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