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葬儀をおえて



#創作大賞2024 #エッセイ部門

 人が死ぬと、通夜があり葬式をだす。
それぞれが生き難い世を何とか生きて、もと来たところに還っていくのだから家族も親族も弔問客もただそこだけを見つめればいいのではないか。
 なのに人はそこに歪んだ思いを交錯させていく。
先日、兄の四十九日が京都であったのだが、半月ほどしてとても嫌なことが起きた。
 事の起こりは、父の勲章だった。
 平成8年、父の叙勲の知らせを受けて、私たち兄弟三人でお金を出し合い勲章を入れる額を父にプレゼントした。父は大変喜んで、それを居間のサイドボードの上に飾っていた。
 ところが父が他界したのち、勲章がいつの間にか額から消えていた。どうしたのだろう、と思っていたらほどなくしてそれが京都の兄の所にあることが分かった。どういう経緯でそうなったのか分からなかった。が、私はそのことをさほど気にもかけていなかった。
 ところが、祖父を大尊敬している息子にとってはそれは大問題だった。どうしても、勲章を額の中に戻したいという。
「額全部が京都にいったのだったらわかるよ。賞状と勲章がそろってはじめて価値があるんだから。勲章だけがないなんてありえないよ」
 確かにそれはそうだ。
 ただ、いろいろな事があって私は身内とはずっと距離を置いていて兄の死でまた分け合いあいとなったところだったので、Nちゃんに勲章のことを持ち出すのは気が進まなかった。だけど、なかなか顔を合わすことができないので、法要のおわりかけにNちゃんにそっとその話をしてみた。
 すると、Nちゃんの顔色がさっと変わった。
「あれはお義父さんから洋ちゃんに、自分の形見として持っていてほしいといわれたものなのよ」
 Nちゃんはとても強い口調で真っ直ぐ私を見て言った。反論の余地はなさそうだ。
「分かったわ。父が“形見”と言ったんですね。それなら、そちらで持っていてください。Hには私の方からきちんと説明します」
 話はそこで穏やかに済んだはずだった。だから、手紙もなく書留で届いた封書の中の勲章を見たときには本当に驚き、すぐNちゃんに電話をした。すると、木で鼻を括ったような応対で、「もう、ほっといてもらえませんか」とガシャンと激しく電話を切られてしまった。私の両親も洋ちゃんもいなくなって、もう誰にも遠慮がいらなくなったからなのか……。兄が亡くなってから何度かNちゃんに電話をすることがあったのだが、その声や態度が今までとはまるで違うことに気づいていた。が、それはこれだけのことが起きたんだもの、そりゃあ、おかしくもなるわ、と思っていた。けれども、どうやらそれだけではないらしい。
 私には子供のころから、たとえ小さなことでもそれがとても重大なことだと思い込んでしまう性格があった。身体も心も弱くすぐ思い詰める私を家族は腫れ物にでも触るように、特別な存在として見守り続けてくれた。普通の人が首をかしげるような事をしても、それはK子によほどのことが起きたのだと私の言い分を通してくれた。
 今度のことを息子に話すと、「Nちゃんは、他人だからね」とすげなく言う。
 本当にその通りだ。かばってくれるのは洋ちゃんまでだった。それに洋ちゃんはとても自由人でNちゃんにずいぶん迷惑もかけたし、また、私の父が晩年になり気も弱くなって適当な空約束をNちゃんにしたのかもしれない。Nちゃんから見ると、私はずっと皆が甘やかすわがままな腹立たしい義妹でしかなかったのだろう。それを思い知った。
 私は洋ちゃんの形見の湿度計に目をやり、それからそれに寄り添うようにある短冊を眺めた。通夜の晩、次兄が帰路につく途中、朧月を見上げて身罷った兄を思い詠んだ短歌だ。兄弟だからこその胸に沁みるいい短歌だった。
 兄弟の絆って理屈じゃない。
何かの縁があって人はつながる。その鎖の一つが“死”によって断ち切られたとき、そこからばらばらと絆という鎖が壊れていくことがあってはならない。
 それを死者がどんなに悲しむだろう。
 忌明けの法要の日。琵琶湖のほとりのホテルから眺めた風景を思い出す。部屋は19階。琵琶湖側に天井ぎりぎりまで硬質ガラスが嵌められていた。大きな窓からの眺望に私は不思議なほど穏やかな、そして包まれるような気持ちになった。風景全体がどこか懐かしい。それはきっと、琵琶湖南西長等山中腹にある父母が眠る三井寺と姪の家がこんなにも近くにあるからだと思った。そのほかに、大切なことって何がある?
 お金も憎しみも、死者を悼む心の前ではすべて“無”です。ただ、手を合わせて感謝し冥福を祈ればいいのです。


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