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病院ハリーコール


#創作大賞2024 #エッセイ部門

 先日、デンタルインプラントの三か月に一度の検診のため大学病院に行った。朝、9時45分が私の診察時間。いつものようにせっかちな私は9時には病院に着き、六階6Cの待合室で足の運動なんかをしながら自分の番を待っていた。
 9時15分頃、なんだかとっても張りつめた声で院内放送があった。
「ハリーコール、ハリーコール。すぐに、一階まで」
 私とそこにいた数人の患者は、「何かとっても大変なことが起こっているのね」と互いに顔を見合わせた。六階は歯科だけなので、この階の先生たちには慌ただしい気配はなかったのだが、非常ランプがくるくる回り始めた病院は明らかに空気が変わっていた。
 ハリーコールは何度も繰り返された。しばらくして、「OOさんのご家族の方は、すぐ救急救命室までお越しください」というアナウンスが流れた。
 ハリーコールを伝える緊迫した声が耳の奥に残った。
 私が初めてラジオ局で原稿を読んだのは今から10年ほど前になる。隣町の小さなラジオ局でパーソナリティの募集があった。なにか面白いことがありそうで私は出かけてみた。ほらほら、早速、面白くなってきた。ガラス張りの無音のスタジオって、異空間。私と短い会話を交わした後、男の人が合図するとミキサーが黄色っぽいレバーを上げつまみをくるりと回した。「さあ」と言うように、男の人が私の顔を見たので私は軽くうなずいた。私は手渡されたプリントを一心に読み続けた。だけど、それだけじゃつまらない。
「私、自分の文章を読みたいんですけど」と言うと、そこにいた男の人二人と女の人はじーと私を見て、「じゃあ、次回」と言った。その不思議な静けさの部屋から外に出て、誰かに話しかけても私の言葉は通じないような、そんな気がした。
「お疲れさまでした」と、男の人がにこにこして私を見送ってくれた。その笑顔が私の中で"期待”となって高鳴っていった。だけどそれっきり、ラジオ局から何の連絡もなかった。
 ハリーコールは、なにも病院の中だけではない。
私の中でハリーコールはいつも耳鳴りのように鳴っている。このごろ、ハリーコールを聞くまいと耳を塞ごうとすればするほどますます心が乱れることが分かった。そこで私は、ハリーコールを私の中に当たり前に存在するものだと考えることにした。ときには、とても激しく警鐘音が鳴ることがある。
 そういうとき、私は私の身体の中の一つ一つに、「すぐ、救命に駆けつけてください」とアナウンスしお願いする。私一人で、患者で医師で看護師で患者の家族で、何役もこなすものだから、とても生きていることが疲れる。どうかすると嫌になる。でもそういうときね、私、思うの。私が何とか生きているのは、私の中だけでもこれだけの私が私を支えているのだということを。
 そして私には"もう一人のわたし”という、とても心強いカウンセラーがいる。彼女はいつも私を見守ってくれ、私のつまらない愚痴でも辛抱強く聞いてくれる。
 "折り合いをつける”、これを身につけた私は、生きることが少し楽になった。
 

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