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余白について

まず初めに奥深さを1つ定義するなら余白です。例えば登場人物が何を思って行動しているのか、どういう過去を持っているのかを部分的に説明することで、同時に説明していない部分が発生します。その余白には読者の思考が介入する余地があり、余白があることで登場人物の思考や人間関係に奥深さが発生すると私は考えています。

いっせいに飛び立った鳥 あの夏の君が走っていったんだろう/木下侑介「君が走っていったんだろう」

私はこの短歌一首から余白について論じます。この短歌の内容は上の句の鳥と下の句の君からそれぞれ青春性を表現しているものと考えています。この短歌の余白は鳥も君も力いっぱい走っているがその目的地が明示されていない点です。

青春の真ん中にいる人たちは、自分が今後どうなっていくのか選択することができます。若さに満ち溢れた青年が自身のエネルギーを走力に変えるが、その目的地が明示されていないことで「君」が青春の真ん中にいることを再認識できます。
この点から読者は余白から青春性を感じとり、奥深さが感じられると考えます。

追)この短歌における作中主体がその当時の君を想起している点も青春性を表現するのに一役買っていると思います。

死ぬ気持ち生きる気持ちが混じり合い僕らに雪を見させる長く/堂園昌彦「やがて秋茄子へと到る」

人間の内部を完璧に言葉で表現するのは本来不可能なので、一度その方法を放棄し感情における最も表裏がはっきりしている「死ぬ気持ち」「生きる気持ち」を取り上げ混じり合わせることで弁証法的に人間の複雑な内部を表現している作品だと考えています。

上の句で人間そのものを表現することで弁証法的に余白が作られ、その余白は私たち読者の経験や知識と重ねることができます。加えて、その作中主体(=僕ら)が雪を時間をかけて見ることで、見ると当時に発生している思慮や雑念に気づくことができます。なぜなら作中主体と我々の知識、経験は上の句で同化しているからです。その思慮や雑念も余白であり、作品の奥深さを演出しているのだと考えています。

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