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一首評 堂園昌彦

冬にいる寂しさと冬そのものの寂しさを分けていく細い滝
堂園昌彦「やがて秋茄子へと到る」

今、私は頭がおかしくなっていてかなりしんどいけどいきなり先輩から借りてる堂園昌彦の歌集を読みたくなったので読んでいい短歌があったので久しぶり文章を書いてみるか、の所存です。まだ書くことは決まってないです。

何を軸に評をしていけばいいのやらと考えて、冬にいる寂しさと冬そのものの寂しさの違いを考えてみる。

ところからこの短歌を読み進めて行く必要がある

と思った。一見正しいように見えてそれは短歌にある通り、細い滝が説明している。評をすることは、つまりふたつの寂しさの違いに着目すればできるかもしれないが、これはむしろ細い滝を役割を失いかねないなとも思う。この滝を見つけに行くことが最も素晴らしい評に当たるのだと思います。

別の視点から

この短歌の話者は細い滝を見ることで満ちたらなさをうめられ、滝が、滝の中にある水が落下する時間を過ごす中で自分というものについて考えたのだろうなと思う。話者は自分の中の繊細な寂しさに触れられたような気もする。

堂園昌彦の歌には自然物とそれを見る目と目を持った主体とそこを流れる時間が丁寧に描写されている。生きることはつらいし、生きることを考えることもつらい。そのつらさを滝の時間に向き合った1首だなと思いました。

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