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自分にもいつかオタクを辞める日が訪れるのだろうか

高校生になって彼女ができた人。大学生になってその生活を謳歌するようになった人。社会人になって多忙になった人。結婚して新たなるライフステージを駆け上がった人。いろんな人が世の中にはいますが、これらを通してオタクコンテンツから離れた人を「オタクじゃなくなった人」と形容している言葉をタイムラインでちょくちょく見かけます。

オタクじゃなくなった人になるパターンは
大きく分けて2つあると思っていて、1つはさっき挙げた「他の世界に居場所が産まれた人」。ではもうひとつはなにか。大人になるにつれてついてまわる感受性の劣化から訪れる、オタクコンテンツからの離脱です。例えるなら、、今期アニメの新作ゲームも話題の映画もレトロゲームの研究もソシャゲもなにもせず、咀嚼しているコンテンツはYoutubeに上がっている切り抜き動画やランキング上位に昇ってくる良質なMADばかり見て、いる人間です。こういう人、どこかで見た事あるような、ないような。
こういう人を見ていると見ているとただ苦しい気持ちでいっぱいになります。目を逸らしてしまったあとに「あれは明日なるかもしれない我が身だ…」と勘づいてしまうからです。つまりは自己中心的な同族嫌悪という訳だ。
元を辿っていけば、きっと、誰しも産まれた瞬間はなにかのオタクはずです。プラレール、レゴ、シルバニアファミリー、リカちゃんなど、、、ただ「好き」を謳歌していただけの瞬間が、みんなあったはずです。
それがいつしか学校という社会に属し、社交関係を学び、会社に就職して本格的に社会に進出する工程で、「好き」に社会を上塗りしていく状況が必ず出てきます。それが繰り返しされた果ての境地が、きっと「オタクでなくなったなにか」なのかもしれない…と思うわけです。

自分も、いずれ"かつてはオタクだったなにか"を散乱させ色褪せて行くのだろうか?酸性雨を浴びた木々のように、弱々しく立ち枯れてしまうのだろうか?「好き」すらも碌に感じ取れないやせ細ったなにかになってしまうのだろうか?そんな抗えない未来の心配をするたび、不安で死にそうになる毎日だ。時ですら流れに逆らえない無力な存在なら、僕らはなんだ?かつて萌え萌えイラストを狂ったように量産していた日々や、鉄道オタクとして過ごした時間すらも、過去の栄光で終わってしまうのだろうか?わからない。わからない。苦しい。こわい。負けたくない。負けたくない……。

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