赤島に渡る(上)
「長崎原爆の日」には、ある離れ小島のことをいつも思い浮かべる。何十年も空想してきたから、島のイメージは妙にクリアだ。ごつごつした磯を見下ろす台地に建つ木造校舎。赤茶けた土の校庭。眼下に波が打ち寄せる。視線を上げれば大海原を白いウサギが跳ねている。国民服を着た100人ほどの小学生が校庭に整列し、若い男の先生の話を聞いていた。
島の名前は赤島。長崎県の五島列島の南に、誤ってこぼした墨の一滴のように浮かんでいる。周囲は5キロほど、1時間余りで島を一周できる。道があれば、の話だが。
「空想の島」に僕は足を踏み入れることにした。
8月、長崎県の五島列島最大の島、福江島の港のターミナルで赤島行きの乗船券を買おうとした。窓口で尋ねると、「売り場はありません。船で買ってください」と言われた。
船が着く1番桟橋に向かう。黄島海運の22人乗りの客船が着岸していた。大型犬を連れた男性に続いて乗り込んだ。
午後2時出港。デッキに立つと、もわっとした湿った空気が体にまとわりついた。サウナに入っているような感覚である。客室に入ると、ソファを占領して寝そべった男が2人。高齢の男性が、島に帰るのであろう女性陣と談笑していた。数えると、乗船客は総勢13人。やがて、船員がやって来て赤島往復は1380円と言った。
「帰りの便は何時ですか」と聞くと、午後3時40分と教えてくれた。船は赤島に着いたあと、さらにその沖にある黄島(おうしま)へ向かい、荷下ろしして赤島経由で福江港に戻る行程だ。毎日2往復する生活路線である。
壁に「国境離島島民カードを持っている人は割り引きします」とお知らせが貼ってあった。 そんなカードがあるんだ。辺境の島に来たのだ、と実感する。
船の中でノートに文章を書いた。
終戦間際のころ、この島で命を拾った男がいた。
長崎市の旧制中学を出た後、胸を患い、旧制長崎医科大学の付属病院に入院した。結核がまだ不治の病のころだ。昭和20年春、沖縄に米軍が上陸し、戦艦大和が撃沈された。大学病院のベッドは、内地に戻る傷病兵たちのために空けておかなければならなくなった。男は医師に言われた。「君をここに置いている余裕がない。五島に転地療養したらどうか」。
提案ではなく、命令に近い響きだった。19歳の男は、五島列島のはずれの人口約500人の孤島へ渡った。だが、島の国民学校の校長に招集令状が来た。ただ一人いた女性教員は病に倒れた。児童数100人近くの学校に先生がいなくなった。療養といいながら、男は「小使い兼校長」の代用教員をすることになった。
ここまで書いたら、波による船の揺れで気分が悪くなった。見回すと乗客のほとんどが寝ていた。 福江港から12キロ、約30分で赤島の岸壁に着岸した。堤防の横に張り付いた急な石段の昇降口に、船のデッキが横付けされた。上下に揺れる船上から石段に移り、赤島に上陸した。
島民と思われる人が5人降りた。港に置いていたバイクに乗って帰る人が2人、手押し車に荷を積むお年寄りや、家の補修に使う板を下ろす人もいた。自動車はない。もちろんガソリンスタンドもない。バイクに乗るためのガソリンは、福江島で買って容器に入れて戻ってくるのだ。 郵便物を持って上陸した女性に声をかけた。「私は赤島に住んでるの」という船内での会話が耳に残っていた。
「小学校跡はどこですか」と尋ねた。女性は「すぐそこ」と指さした。「少しお話、いいですか」と問うと、「少し待って」と言われた。 女性にはこのあと、大事な仕事があった。離岸する船の「もやい綱」をはずして船員に手を振った。人口14人の島に船会社はない。島民が船の着岸、離岸を手伝うのだ。
「島のことを知りたい」と女性に言うと、小さな民家を案内された。島民以外が寝泊まりできる民宿のような家だった。だが管理人はいない。壁に赤島の古い写真が10枚ほど飾ってあった。戦前の写真かもしれない。
船着き場に集まる島民たちのにぎやかな写真があった。目を凝らして、胸を患った代用教員の男はいないだろうかと探した。
この島に渡ったおかげで、長崎原爆で死なずにすんだ父の姿を。