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映画オッペンハイマー鑑賞談

 「原爆の父」と呼ばれたオッペンハイマー。
祖父母はじめ身内に被爆者がいる長崎出身の私が見ても、不快感は抱かなかった。よく出来た映画である。

 確かに、作品の中でヒロシマナガサキに落とした原爆のニュース映像ぐらいは使って欲しいと思った。だが、「原爆が戦争終結を早め、多くのアメリカ人の命を救った」という単一思考から抜け出せない核大国アメリカで制作された事情に鑑みると、そこが限界なのだろう。

 しかし、ノンフィクションのエンタメ映画として「原爆製造」の負の側面に、これほど光を当てた例を知らない。作品はアカデミー賞など多くの賞を授かり、世界中に鑑賞の輪が広がったのも驚きである。ヒロシマナガサキの被害に目を背けてきたアメリカの変化を少なからず感じた。

 最初に書いた、何が「よく出来た映画」かというと、人類最初の核兵器製造の現場が、史実に基づいて描かれていたことだ。アメリカでしか出来ない作業である。

 もちろん、先住民の土地を奪ったこと、そこで被曝して苦しんだ人々がいたことは、すっぽりと抜け落ちてはいるが。ナガサキ人として、「よく出来ました」とは言っておきたいです。

 核兵器製造の現場を、米国以外の人が知る機会はほとんどない。人類で一発目の原爆が炸裂したのがロスアラモスの町であるなんて、どれほどの日本人が知っているだろうか。マンハッタン計画が、イタリアの科学者フェルミたちの協力なしには成功しなかったこともあまり知られていない。そして、戦後のアメリカの赤狩りと、オッペンハイマーの境遇も、初めて知ることとなった。

 軍人大統領アイゼンハワーが、「臆病者」とオッペンハイマーを蔑む感情の正体も、すんなりと飲み込めた。このころに「共産主義大嫌いイコールアメリカ」という骨格形成が、始まったのだと理解が進んだ。

 映画は、途中、時系列が混乱した。戦後の聴聞会など二つの会議の進行と、核実験を目指す現場シーンが入り乱れ、何度かついていけなくなった。当時の時代背景を身体感覚として持っていない日本人だから、意味をつかみかねたのかもしれない。

 映画の理解を進めるには、50年台のアメリカのマッカーシズム(赤狩り)と、55年のラッセル•アインシュタイン宣言を予習しておく必要があると、今なら思う。共和党上院議員のマッカーシーによる陰謀論を、多くのアメリカ人が信じこんだ背景がある。まさに今のトランプのような「虚言癖」の政治家の煽動で、オッペンハイマーは窮地に陥っていくのである。

 そして、映画の鍵を握る湖畔でのアインシュタインとオッペンハイマーの会話。このキーワードを理解するには、核兵器廃絶運動の嚆矢といえる「ラッセル•アインシュタイン宣言」を知っておかねばならない。


 「私たちは、将来起こり得るいかなる世界戦争においても核兵器は必ず使用されるであろうという事実、そして、そのような兵器が人類の存続を脅かしているという事実に鑑み、(中略)世界戦争によっては自分たちの目的を遂げることはできない。あらゆる紛争問題の解決のために平和的な手段を見いだすことを強く要請する」

 ナチスの核開発に対抗するため、核兵器を作ろうと呼びかけたアインシュタインが、後にその過ちを後悔して、宣言を発したという事実があるからこそ、ラストシーンは胸に迫るのである。

 結局、オッペンハイマーの「後悔」と、将来予測は現実のものとなった。いまアメリカとロシアだけで1万発を超える核兵器を保有する。その最初の一発を作った「原爆の父」の罪の重さを、さまざまな角度から考えさせられる作品である。

 しかし、最も罪深きものは為政者である。ナチスを潰す目的だった原爆は、ヒトラーが自殺し、ドイツが降伏した時点で利用価値を失った。なのになぜ、降伏が見えていた日本に使ったのか? ここはオッペンハイマーに罪はない。グローブスであり、トルーマンなのだ。為政者と軍人は目的を変えて、死の道を選ぶ。そう確信を深めた映画である。

 そして、アメリカに原爆を落とされたあの日以来、「属国」としての日本と、ためらいもなく暮らす日本人の多さにびっくりしている。右翼も左翼も、米軍機の低空飛行に許可を与えている日米安保条約という不平等条約に文句ひとつ言わない。

 オッペンハイマーの原爆製造、そしてその「成功」が、いまの日本の骨格形成(アメリカの核の傘平和主義)につながっていることを知ることができた。そんな映画だった。

#オッペンハイマー #ヒロシマナガサキ

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