短編小説「思い出を盗んで」その8 終章「思い出を盗んで」
終章「思い出を盗んで」
目を覚ますと、私は自分の部屋のベッドの中で横たわっていた。頭がぼんやりして夢を見ているようだった。しばらくして水の中から一気に顔を出した感覚がした。五感が再び動き出した。
部屋の明るさから昼近くになっていることに気づいた。時計を見ると十一時を回っている。
私は急いで階下へ降りて躊躇なく彼の部屋のドアを開けた。
何もない部屋の様子に私は呆然と立ち尽くした。昨夜床に点々とついていた血痕も綺麗に拭き取られていた。部屋を間違えたのかとも思ったが、窓から見える景色は彼の部屋からのものだった。
「大丈夫?」
婦長が背後から優しく私に声をかけてくれた。
「彼は…」
婦長は悲しげに首を横に振った。
「今朝早くに御家族がみえられてね。荷物も全部引き取っていかれたわ」
「…」
「『本来ならお世話になった皆様に形見分けをすべきなのですが、本人の遺志で…』っていうことらしいのよ。お父様が申し訳なさそうにそう仰っていたわ」
私は婦長に頭を下げ、その場を離れた。
中庭に出ると誰も座っていないベンチとそれに寄り添うテーブルがぽつんとあるだけだった。待ち人来たらず、といった感じでベンチもテーブルも寂しそうだった。
今日のような天気なら必ず誰かが日向ぼっこしているはずなのに…
私は療養所の裏の丘ㇸ上がった。見慣れた風景がいつものように広がっていた。晩秋の青い空が目に眩しい。
彼なりの優しさなのだろうか。彼は思い出を残さないように全てのものを盗っていった。ここに彼がいたことが幻だったと思えるくらいに。
私の記憶までは奪えないんだから!
私は思いっきり叫んだが、彼は応えてはくれなかった。ただ私の声が晩秋の青空へ消えていっただけだった。
彼と初めて出会った日も今日と同じ澄みきった青空だった。あの時と同じように私は腰をおろした。
彼と交わした会話が一言一句蘇ってくる。優しい風が彼の髪を揺らしていたことも鮮明な記憶として残っている。その風に運ばれた絵の具の匂いでさえ漂ってくるようだった。
いつか彼がノートに走り書きしていた言葉が浮かんだ。
すべて生命あるもののように…
私は体を横たえた。鮮やかな空の青さがぼんやりと滲んできた。
流れるままに身をまかせれば…
この後に続く言葉、今思いついたわ。でも、もう、あなたに伝えられないわよね。
すべて生命あるもののように…
やがて訪れる永遠のねむり…
私はゆっくりと目を閉じた。
すべて生命あるもののように…
短編小説「思い出を盗んで」完
オフコース「思い出を盗んで」より
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