私のこと ~その5~

こんにちは、水泡です。
暑くなってきました。
これを書いてる時の気温は28とか29度とかでした。
梅雨は?
梅雨はどこに行ったんですか?
じめじめは洗濯物も乾きにくいのでカラッと晴れてくれる分にはいいんですが、梅雨の風情も感じないまま6月を過ごすのもなんだか、その、もったいないかなって(ないものねだり)。

さて、いつものないものねだりを終えて、今日も今日とて、私のことを話すつもりなんですが、皆さんはご両親によく言われた注意や生きる指針みたいなことはありますか。

私は小さい頃、親によく「人に優しくしなさい」と教わって生きてきました。人に優しくすればその優しさが自分に帰って来る。努力もした分だけ誰かがちゃんと見てくれて評価してくれると。

もちろん当時の私は親の言うことを聞いて、自分なりの優しさやそれに付随した努力をしてきました。それが正しいことだと思って。

ですがいざ学校や社会に出てみると、自分の優しさが思わぬ方向に働くことがありました。

例えば困っている人に手伝いを願い出ると「なんでもっと早く来てくれないんだよ」と言われたことがありました。他にも手助けを求められて助けた後に何の感謝も告げずに去っていく人もいました。当時の私は純粋な気持ちで「どうして何も返してくれないのだろう?」と考えたものです。

当時の私は優しさにはなんらかの対価(優しさ)が返って来ると思っていたのですが、それは大きな間違いで優しさは常に「優しさ」で返ってはこないのだと知るようになったのです。上記でも挙げたように優しさを嫌味や悪意で返す人もいます。それを明確に感じるきっかけになったのは中学の頃です。

小学校の時は自分の家の近所の人間とのコミュニティしかなかったので、仲間意識みたいなものが強固になっていたように思っていたのですが、中学に上がった際に他の小学校にいた別のコミュニティが彼らの価値観を持って接してくるのです。中には自分優先を掲げる者もいて、そういった同級生は私を見るや詰って来たり、悪意をもって接してきました。

そこから高校、大学、社会人となって特に今、接客業をやるようになってなおのこと人に優しさを振りまくことの「無意味さ」を痛感することが多くなりました。どれだけ優しく、丁寧に、努力していても私を嫌に思う人はいて、私を拒絶する人間は絶対にいる。最初はそう思うことに苦痛を感じていたりもしましたが、今は「そうだよな」と認めるようになりました。

当然、私にだけ悪意をぶつける人はごく少数で、人に優しくすること自体は無意味ではないのですが、何かの返礼を期待するとたまに起こるずれにいらない時間を使うことがあるんだと、心底思うようになったのです。

優しくしすぎると相手はそれが「常」だと思い込み、いざ優しさを解くと不快感に苛まれ、私に悪意をぶつけます。だからこそ私は優しさの使いどころを決めるようになりました。心底から仲良くなりたい人には「常に優しくせず」どうでもいい人には「できるだけ優しくするように」なったのです。

逆じゃないか、と思うかもしれませんが、仲良くなりたい人には末永い関係を築きたいので私の「できる」「できない」を知っていただき、より深く私を落とし込んでいってほしいのです。

対してどうでもいい、なんなら私が嫌う人物には「できるだけ優しく」して相手に「コイツ使えるわ」と信じ込ませて、黙らせるのです。できないと攻撃してくることは接していればわかるので、自分に危害を加える相手こそ相手の人となりを調べて「優しさ」で徹底的に封殺する。こちらが優しさを絶えさせなければ、ヤジも飛んできませんからね。それが優しさの使い方だと私は学びました。

なので気を付けてください。もし万が一、私と同じような人を街で見かけたら、その人は「優しさ」を上手く扱って「自分の敵を上手く遠ざけている」方かもしれません。

これを呼んでくださった方々が「常」に「優しさ」を受け続けている方でないことを心から祈っております。