人間とは何か

「AIが教えてくれる」裏側にあるもの

前回の講義のあとから、ずっと心にひっかかっていたことがある。
先生の「AIが教えてくれるサービスを考えるけど、そんな世界に住みたいの?」
先生がそう突っ込むということは、そういうサービスを思いつく人が多いということで、そういうサービスを思いつく人が多いということは、何かしらの背景があるんではないか、というのが気になっていた。
グループワークで「レコメンド機能」に対する温度差があったことも、気になっていた。

一番最初に浮かんだ言葉は「情弱」だった。
2000年代にインターネットデビューして、どっぷり浸かった世代なので、
この言葉に漂う「負け組」感がものすごくある。
知らない、調べられない、正しい情報にアクセスできていない、
「ggrks」を突き付けられて、自分の不利益や不便さは全部「自分が知らないから」みたいな思い込みはある気がする。
情報商材とか煽り動画が伸びるのも、この辺を付かれているような気もする。「青い鳥症候群」みたいな。

もう一つ思ったのは、「コスパ」だ。最近だと「タイパ」になるのか。
概念化のプロセスを内面に持たない人というのは、意外といるんだと社会に出てから気づいた。
そう思った時に、自分で何か時間をかけるよりは、膨大な経験によって得られた知見を、「手軽に得たい」という欲望はあったりするのかなとも思う。
でも、なんで手軽に得たいと思うんだろうな。

「ローカス・オブ・コントロール」の話

そこで「ローカス・オブ・コントロール」である。
知人2人にユーザーインタビューをしたときに、
「人生において自分がコントロールしてコミットできる範囲を増やしたい」という欲求があるように思った。
そう思った時に、人は自分でコミットしたいこと・コミットしたくないことの線引きをしていて、好きなことに時間を割きたいから、それ以外はなるべく省力化したい。そういう部分はあるんだろうなと思う。
最近になって「FIRE」という生き方を知ったけれど、それはその最たるものなんだろうなと思う。
でも自分の好きな分野でも、レコメンドがうれしい時もある。
どういう時だろうと考えたら、それはどこか「感動」体験で、調べたくても知らなかったキーワードであったり、自分ひとりでたどり着けなかった領域のものを与えてくれた時だなと言うのがある。
だとすると、単純に「AIがレコメンド」と言ってしまいがちなところ、「その人」を理解する深いプロセス、プロトコルデータにあたる部分がしっかりしてこそだよなぁ。
なんでも相談してね!という人に限って、いざ相談してみたら、通り一遍の回答だけが来てがっかり、みたいなことになってしまうんだろう。

ちなみに、先生がおっしゃっていた教養の度合いで決定軸が「自分」になるか「他者」になるか、そして自分で決めたことに人は後悔しない、というのはとても共感するところで、なんでも人のせいにするタイプの人は、ひとえに幼いのだと思っていたけれど、詰まるところは概念化する経験が少ないということだとすれば、教養も身に着けるためには訓練がいるということか。先生が子どもと一緒に美術館やお寺に行きましょう、とおっしゃったのが分かった。媒体は何にせよ、心から感動する体験とそれを内省して概念化する時間が多ければ多い方がいいのだろうから。

プロデューサーとナラティブ

秋元康がすごいなというのは本当にそうで、以前講義で自分の知っているプラットフォームビジネスを書く回があったけれど、あの時BASEより先に思いついたのは、実は「XXX48」で、なぜそう思ったかというとAKB48が売れ始めた頃に、秋元康がインタビューで「アイドルというフォーマットを売る」という話をしていたのを思い出したからである。
その時は何言ってるんだろうと思っていたけど、あれよあれよという間に日本とアジアの各地に「〇〇48」ができた上に、いろんなご当地アイドル・地下アイドルがビジネスになった。彼は確かに「会いに行けるアイドル」というプラットフォームを作ったのだ。
「あるある」を誰よりも先にサービスにすること、それで肚に落ちた発言がもう一つあって、東宝の映画プロデューサーだった川村元気が言ってた
「僕の仕事は、たとえばみんなが通る駅に”クマのぬいぐるみ”が置いてあって、みんな見てるんだけど何も言わないところに、そこに行って『ここにクマのぬいぐるみがあるね』って言うこと」だった。
これも、聞いた当時は「なんかよくわかんないな」発言だったのだけど、みんなが言わないけど持っている共通認識を、見える形で示すこと、そのものだ。
ナラティブという言葉自体は、3年くらい前に上司と合わなくて買った組織経営論の中に出てきたので知った。「対話」とか「その人となりを表す物語」ぐらいに捉えていたけれど、文化的な活動は全て「ナラティブ」
確かに読書ひとつとっても、その後の自分の中に沸き起こる感情を含めると対話になる。なるほど。

UXデザインを学ぶことは「人間とは何か」との対峙

文化的な活動すべてにナラティブがあるなら、生活の中にもそれは当然ある。だからサービスデザインを考える時は、ナラティブに向き合わなくてはいけない。
サービスを考える側は、つい技術や発想を「とても良いもの」と考えがちだけど、そうではない。
例えば私はものすごく面倒くさがりなのだけど、よくある「便利グッズ」の類はめったに買わない。「便利グッズを”わざわざ探しに出かけて、買って日常に取り入れる”こと」すら面倒だからである。自分で書いてて思うが、サービス提供側が思うほど、ユーザが価値を感じていない商品って、たぶん相当数あるのだろう。
人間とは何か、というのは本当に究極の命題なんだろうな。
タイパ・コスパのことを考えた時に、10年前に骨折して入院した時のことを思い出した。仕事から離れて少しゆっくりできるかなと思いつつ、読書もあっという間に飽きて、当時絵日記を書いていたのだが、そこに書きなぐった言葉を今でも覚えている。
「人付き合いと仕事は飽きない」
雑音とか引っかかりがあって初めて、自分は自分でいられる部分があったのだ。人間とは何か。しばらく心に残っていそうである

キックボクシングの体験に行った話

ビジネスモデルについて、思いついたらそれを最小の単位で実現できないか考える、という話が印象に残っていたのだが、一昨日キックボクシングの体験レッスンに行って、あっそういうことかと急に思った。
レッスンの中で、「自分の体のコントロール方法を知って、それができるようになりましょう」とトレーナーが言った瞬間だったのだけど、
ビジネスモデルを概念化するというのは、この仕組みをつかうと、こういう作用がある、を明確にすることで、それは壮大なプランを立てて夢を見るよりも、各部の動きと作用を知り、うまく動かすということだ。
そしたら、勝手に全体の動きも大きくきれいになる。
グループワークを進めているけれども、あと3か月で、その中でどれだけそこを突き詰められるかな、と思う

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