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藤沢周平の愉楽にひたる①

〈SungerBook-舌鼓1〉


短編小説集「たそがれ清兵衛」について、何回かに亘り味わってみたいと思います。これは八編からなる短編集で、時代小説好きの方にとっては、垂涎の的となりましょう。私は必ずしもその類ではないのですが、藤沢周平の筆さばきは、なかなかのものだと思っています。もちろん、あくまでもディレッタントとしての論であります。

なぜ藤沢周平か

平成十二年(2000年)に福田和也先生の「作家の値うち」※が世に出されて以来、ある意味日本の小説は終わった感がなくもありません。小説のパワーダウンは、生活の物理的向上と関係しているのでしょうが、その伝で言えば経済的豊かさとともに、精神的世界の可能性はしだいに萎んでいるのでしょうか?

何年か前に芥川賞作を読んだ際に、凄まじい同人誌化が起きていると思いました。何にも響いてこないのです。文学界村という重箱のなかで、重箱の隅を突つくような技巧的戯れがあるばかりです。重箱を打ち破って出てくる思想もなければ、造形的新機軸もない、と感じます。

その一方では、三島由紀夫や松本清張など未だに輝きを放っている作品群があります。私にとっての藤沢周平は、読むべき小説がなくなっているなかで、ふと手にとった一冊だったというべきでしょう。不確かな記憶では「蝉しぐれ」が映画化された、あの頃のような気がします。ですから、藤沢周平が世に出て来るのと歩調を合わせて読んでいるわけではなく、後になってその世界を知り出したということです。

誰そ、かれ?

今回は表題作の「たそがれ清兵衛」について、分解したいと思っています。
主人公は井口清兵衛で、たそがれ清兵衛とは、彼のあだ名です。労咳で病床の妻奈美を抱えていて、その世話のために、彼は夕方になり仕事を終えるとさっさと帰宅する男なのです。その世話焼きぶりが半端なく、その愛妻ぶりが周囲の失笑を買ったりするわけです。現代で言う「五時から男」の江戸時代版ということになりましょう。

物語は冒頭まもなく藩の財政的疲弊について、仔細に語られます。天候不順続きや水害の発生で、米の収穫がままならず領民が打撃を受けるだけでなく、藩も年貢が上がってこないどころか、飢饉対策に支出は嵩んでいきます。

この時代の長雨や豪雨について簡潔に叙述されますが、これに触れて思うのは、気候変動での豪雨が昨今のものとして報道されますが、昔からあるのではないかという感想です。もちろん小説はフィクションですが、歴史的な背景はかなり事実を押さえているだろうと思っています。その方が、小説の結構として効果的だからです。また、明治時代にも東北では、豪雨続きで頻繁に災害が起きているという事実もあります。

あ、韓流とおんなじ!

さて、藩の台所事情が厳しくなってくると、泣かされるのは領民、のさばるのが悪徳商人で、そこに藩の役人との癒着が絡んできます。こういう事態に対して、善良な役人が前向きな対策で乗り切ろうとするのですが、敵方上層部の専横が立ちはだかってきます。ここに悪対善の構図が生まれます。

この構図は、韓流の時代劇でも頻繁に使われます。思わず「韓流とおんなじ!」と感じてしまいます。これは、私の韓流の観すぎからきている転倒というべきかもしれません。また、どこの国も同じかという思いにもなります。しかし、制作物同士の比較という点では、藤沢周平作品に大変失礼な申し上げ方になっているように思えてきました。ここは訂正して、韓流に対して「藤沢周平とおんなじ!」と言い換えておくべきだったかもしれません。

正義対悪という図式は、使いふるされたパターンといえましょう。しかし、これをもって藤沢作品を謗るには及びません。この、安心感のある結構の中に何を、どう見せてくれるのか、そこがお手並み拝見というところです。

清兵衛の覚醒

上意討ちを決心した家老屋敷の主人杉山頼母は、刺客として清兵衛に白羽の矢を立てます。しかも、成功すれば奈美を、腕のいい医者で治療させるという約束を与え、これにより清兵衛は決心することになります。上司に、清兵衛の剣の腕と、愛妻家の点に眼をつけられることで、彼のモチベーションが点火します。

実は「たそがれ清兵衛」の小説としての妙味は藩、つまり公の正義と、清兵衛個人の正義=妻を助けることとを一致させた点が、まず大きいのではないかと思われます。清兵衛のモチベーションに、藩のためと妻のためという二重性を持たせることにより、行動が成功すれば、公私に渡り二倍の成果が達成できることになるからです。

藩からの命令によって清兵衛を動かす仕立てにより、清兵衛を絶体逃げられないように設定しています。しかし、清兵衛はもし、自分が失敗したらとか、手負いの傷を受けてしまうとかは考えなかったのでしょうか。

病床の妻を思えば、腕に絶対の自信があっても、妻の面倒をみられなくなるなどの躊躇があって然るべきではなかったか、と思われます。しかし、そういう描写は全くありません。むしろ、このあたりの迷いを書き込んだ方が、行動後の成果により大きなふくらみと満足をもたらしたのでは、と愚行するものです。何のためらいもなく、上意討ちに行くのは、ややオートマチックで陰翳に欠けるかもしれません。

名作に不足あり

また、奈美についての描写もあまりありません。表題作以外の他の作品では、女人についての何とも言えない表現が魅力的なのですが、労咳とするだけで彼女の女人としての容貌も語られません。病人として奈美を設定したので、女人として妻を見ることを禁欲したというその表現だった、とは考えられないことではありません。しかし、健康時の思い出でも書けないことはなかった筈です。

当初発表は文芸誌でしたから、行動の無逡巡にしろ、奈美の描写にしろ、紙数の制約があったのかもしれないのですが、ここは、そういうことではなく、作品の本質論を語ろうとしています。作品中、一日中家で伏せって外の声を聞いている奈美の方が、城勤めの清兵衛より世間を知っているというくだりが出てきます。そういうことはさもありなんという感じで、つい頷いてしまいがちですが、これは筆が滑っているのではないか、と思えてなりません。思うに、ややアバウトの嫌いがあるためで、清兵衛の家が、井戸端脇にあるといった類いの状況設定が一言あるだけで解消されたのではないか、という気がします。

名作にタクティクスあり

藤沢作品を重箱の隅をつつくように荒探しをするつもりはありません。そもそも、類型的な派閥対立抗争の中で活躍する無形流の名手といった構成は、いわゆる時代劇仕立てそのものであり、エンターテイメント以上ではあり得ません。その前提で接しているからこそ、藤沢世界のストイックな筆致、細やかな生活の種々への目配り、会話の妙などに魅了される自分を許しているので、たかがディテール、されどディテール、そのこだわりこそ、エンターテイメントを充実させるものではないでしょうか。

無形流とはどんな剣なのか知る由もありませんが、この作品で描かれる剣さばきは、至ってシンプルです。藤沢作品は書かないで描くといった方法が巧みであり、この冴えは、清兵衛の剣さばきを超える、藤沢の筆さばきというべきかもしれません。

堀将監を倒す描写はわずか二行、北爪半四郎を仕止めるのも四行という手際です。あえて素っ気ない書き方をしている節があります。ここは藤沢の筆が、いかようにでもペインティングできる場面ではないでしょうか。この省筆ぶりにあるいは禁欲に、全体構成上の計算を垣間見るような気がします。

また、清兵衛が帰宅途中に、葱や豆腐を買うわずかの表現があるのですが、非常に鮮明に感じられるのは、食材に対する愛情のようなものからくるものと感じられます。それは、すなわち妻の健康にまっすぐに繋がっているものでしょう。

江戸の匂い

さらに会話では「藪でござる」のシンプルさとユーモアや、「おまえさま、今夜の豆腐汁は味がようござりますこと」などのせりふに漂う病床の妻の幸福感は、小説の内容と相俟って時代の香りを濃密に立ち込めさせる効果を放ちます。言ってみれば、「江戸香」という名のお香を一瞬焚いてみせたも同じです。

清兵衛が、与えられた上意討ちという仕事を成功させ、奈美も回復に向かい、ある夕暮れ、揶揄でしかなかった「たそがれ清兵衛」の意味が、美しく反転し、まるで日本男児のシンボルといえるぐらいにまで昇華するのを経験させられます。輝かしく、すばらしい幸福感に満ち満ちた、名ラストシーンというべきでしょう。この最後は、日本中の男どもの共通の願いに違いありません。

読後の抒情は珠玉のものです。★

(初出2019.11.1)


※「作家の値うち」飛鳥新社 2000年
日本の小説家100人の作品を批評し100点満点で採点した画期的評論。文芸評論第一人者福田和也著。
2021年同社より同一本が小川榮太郎著で発売されている。















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