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ノーティストの見た夢

〈SungerBook―男とスコーン7〉


私が前々回(4/15)投稿した記事「こんな肩書き嫌だ。どんな肩書き?」で、それまで使っていた自分のブロガーという肩書きをノーティストに改めたことを述べました。その頃たまたまnote記事でnoterという表現を見たことが契機となったしだいです。

ノーティストの見た夢(本稿の構成)

・ノーティストに憧れて
・プロもすなるnoteといふもの
・ノーティストのモンブラン
・源流は文芸にあるかも
・ノーティスト国民の出現
・noteのサステナビリティ
・noteにマガジンがあった
・素人視点とはいかに
・「SungerBook―男とスコーン7」?
・セカンドプレイスnote

ノ―ティストに憧れて

この「ノーティスト」が、思いがけず私を刺激してきて、予定外に本稿を書かせています。
アーティストのような芸術家的な語感と、表記はnoteとの繋がりを想起しやすくして、ノーチストではなくノーティストがいいのではと思っています。この呼称が当たり前に使われる日を夢見ているところです。

同時にnoteで書き、自分の記事をnoteの特性を活かしてスタイリッシュに編集し、それを投稿する私が夢想するノ―ティストに早く近づきたいと描いています。今、私の前にはnoteの活用プランがあり本稿はその実現前、例えばオ―ケストラ演奏直前のチュ―ニングを行なっているようなものかもしれません。私はnoteでコンサートを開くつもりなのでしょう。また、活用プランが見えたと同時に、noteというコンテンツを、あらためて捉え直す必要に駆られています。デジタルコンテンツに無学な私と言えど、想像できる限りリテラシーを発動したいと思います。

当然ながらノ―ティストは個々の記事を制作するクリエイターであるものの、その記事集合体の編集構成も組み立てなければなりません。それでこそ、noteの活用者といえるでしょうし、そもそも表現行為として書くことと、表現行動としてその発表スタイルも自分で構成することが求められます。noteユ―ザ―だからです。これがプロの作家や著述家だったら、編集者や出版社がついていて、
本の構成やデザインに口出しはしても、基本自分の手を煩わせることはないでしょう。

ノ―ティストとは、noteを媒体とする利用者であるとともに、その記事全体を構成する編集者という側面まで含めた概念です。この意味では、単なる肩書きの言い換えではありません。noteというデジタルコンテンツを発表の舞台として制作する
アマチュアを中心にした(プロの制作者も含めて)、クリエイター像の呼称といえます。noteのフル活用者であり、noteの応援者でもあります。

プロもすなるnoteといふもの

私はnoteを一つの表現媒体としてしか捉えていませんでしたが、noterの呼称を目にしたことが、ちょっと待てよとなりました。ブログのひとつの捉え方ではなく、そもそもわざわざnote社やnoteとしている、そこをロックオンする意識が働いたのです。特に、最近一度ならず、お笑い芸人が配信動画中でnoteを使っていることをコメントすることに接し、noteの浸透度を感じていたしだいです。私がnoteを選んだ感覚を、他の人も共有しているのではないかと感じるわけです。

私はnoteの機能を知悉しているわけではありませんが、いわゆるブログとは一線を画していて、その差別化を志向しているものと思われます。noteを使いこなしておられるノーティストの皆さんを前に、その内容に逐一触れるには及びませんが、noteブランドが形成されつつあると見ています。先般、著作家の山口周氏がnoteに記事を書いていて、専門家がnoteに寄稿するような事実に接して、ますますその意を強くしています。「寄稿」と書きましたが、一般的に出版社からの依頼を受けて著者が行なうものが寄稿ですから、note社が執筆要請していないものとして、そう感じています。マスコミや出版界においても、著者の意志による寄稿もあるにはあるでしょう。

著作家や評論家やジャーナリスト等、いわゆる著述のプロが選択するデジタルコンテンツの正確な活用状況は知りません。私が数年前に山口周氏の単行本「独学の技法」(ダイヤモンド社)を読んで知っている一つの事実を持って、プロのnoteへの信頼度評価と見るその妥当性はともかく、もしかしてそこに何らかの戦略的意思があるのかもしれません。書物媒体の顔の見えない一般読者より、noteユーザー層ははるかに顔つきが見えるだろう、という気がします。それはプロがnoteに依って自らの思考を広く著すこと以上に、note記事はまず持ってnoteユーザーという属性を帯びた読者が目にするはずだ、といったような判断があるかもしれないことです。また山口氏の展開されるテーマが、noteによくマッチしているようにも思います。

noteのサービスを始めて10周年の記事を目にしますが(株式会社noteは今年13周年)、着実に育っている印象を受けます。個人的な感覚では4∼5周年ですが、私の知るのが遅かっただけでしょう。著名人のウィキペディアにノーティストの肩書きが記載される日が近いのではと期待しています。山口氏だけではなく、著名な評論家やジャーナリストや作家がノーティストである事例はご承知の通りです。

ノーティストのモンブラン

noteのブランディング戦略という視点を持つと、
その特徴が見えてくるように思えます。まず、しっかり記事を読ませる造りと感じます。それがどこからきているかといえば、おそらく広告がないことでしょう。つまり、noteのスペックとしてアフェリエイトなしで記事を読ませます。また、そのことは記事作成者としてのノーティストを、様々な意味で大切に扱っているという感覚につながります。ブログが収益化手段としてのコンテンツのイメージが強いと思いますが、noteにはそれがない分スタイリッシュに感じられます。

このことの意味は、アフィリエイト収入のしくみを排除することにより、最も極端な例で言えば炎上狙いの荒稼ぎを避けるといったことに行き着くものと考えられます。また、文章のリーダビリティを高めたり、画面としてのスタイリッシュな印象なども、私が勝手にデジタルコンテンツのモンブランなどと言いたくなるところです。作家オリエンテッドと言えるかもしれません。

私がブログを現実的に意識しだしたのは、勝間和代氏の「目立つ力―インターネットが人生を変える方法」(小学館101新書)を2010年に読んだことがきっかけでした。このタイトルは安直さが貧相に思えて好きではないのですが、インターネットが自分の表現媒体として現実化させるものだということを気づかせる力がありました。氏のようにSEO対策やビュー数確保など、WEB世界の技術に詳しければ、もっと閲覧数を稼げる筈なのですが、そっち方面はまったくダメです。その角度からnoteを分析すればもっともっとその秘められた機能を明らかにできることでしょう。まあ、その領域はすでに私が述べるより、その方面に強いノーティストが個々の記事で語っていることです。

また、note proの存在がnoteのブランディングに貢献していると感じさせます。特徴やその詳細は知らないのですが、note利用が自分の人生における表現行為と考えた時に、note proに飛びつきたいくらいです。悲しいかな月額5万円は私の生活の身の丈には合わないだけです(企業向け?)。この上位ブランドの併設はnoteのステータス形成と、 noteユーザーの裾野の拡大に資するものと考えられます。

また、note創作大賞の企画も、noteのブランディングの一環と見ています。クリエイターに対しては評価システムということですが、ユーザーのレベル押し上げ効果とともに、業界としてみればnoteのイメージ戦略ともとれます。昨年私は大賞に応募しましたが、カスリもしませんでした。残念ではありますが、そんなことで一喜一憂していられません。別記事でも触れていますが、私は書くことに意義を見出していますし、 書くことが私の人生と腹を決めています。そんな人間にとってデジタルコンテンツは、極めて大きい意味を持っています。表現しようとするエクリチュールを促してくれます。

念のためにいい添えれば、既存の出版方法に頼らずして、自分の表現行為を実現する方法論的としてのことです。既存の出版を嫌っているのではなく、縁がないのです。

また大賞イベントにおける出版界との連携は、note社の野心を感じさせられました。もし、大賞作品から出版へと至りベストセラーにつながるということなどがあれば、とんでもないことだと思います。私が知らないだけで、すでにそれは起きていることかもしれません。私が咄嗟に思ったのは、ベストセラー作品を排出する窓口コンテンツとしてnoteが成功すれば、既存の出版界を呑み込み、例えれば無名のクリエイターを大量にnoteにインポートし、新人作家を世間にエクスポートするしくみを構築したことになるのでは、ということです。

おそらく、昔の作家がモンブランを愛用したように、しかも、そのスペックは進化を続けおり、現代のデジタルクリエイターはnoteにこだわるのです。それがノーティストです。

若菜つむ都の野辺にうちむれて花かとぞ見る峯の白雪

源流は文芸にあるかも

万葉集は奈良時代に編まれたものといわれます。
その中には庶民の和歌もあるようです。平安時代は言わずもがなですが土佐日記、枕草子、源氏物語····と我が祖先は、もともと文芸的な趣向に勤しんでいたようです。のみならず、源氏物語の小説としての世界史的先進性は日本国民として誇らしい限りです。編年的に時代時代をを辿ることを避けて、いきなりワープしてしまい明治、大正に戻れば、森鴎外、夏目漱石と親しみのある著名人が浮かび、今となってはレトロ感に染めて人口に膾炙する昭和となれば、川端康成、三島由紀夫など世界的な作家が、かなり身近な存在として私たちのすぐ傍らにいます。小説家、文豪的なところを持ち出さずとも、西行、定家、芭蕉と、歴史的歌人俳人詩人を引き合いにだせば、相田みつを、谷川俊太郎、俵万智と直結してきて、空気は一気に令和のこんにちに至ります。  

文芸的なスピリッツの源流は大昔から今に続いている一方で、それを流布する装置の点では、出版文化の功績は多大なものがありました。それが90年代後半からインターネットが登場し、今私たちはSNSの時代の真っ只中にいます。紙の文化に頼らない表現媒体、流布方法の登場は、革命と言っていいでしょう。蔡倫、グーテンベルクの歴史的発明を超越しています。これをシンギュラリティと呼ぶのは違いますが、凄いことになったものです。特に、作家や著述家でなくとも、容易に一般人が表現できる、筆記用具と表現媒体を入手したことについてです。

現に昭和生まれの私は、出版文化の概念に染まっていて、それは自己表現の具体化イメージと表裏を成しています。要は、いまだに本という形に対する夢は、過去から連綿と引きずっています。デジタルコンテンツが出版文化を置換してしまうわけではありませんが、革命的であることは間違いないことでしょう。かつて、必ずしも小説ということではなく、文芸の世界に魅せられて辿る、同人誌などでの発表を経ていずれ出版へ、という流れがありました。小説のパワーダウンと出版業界のダウンサイジングがのたうちまわっているうちに、インターネットの登場が出版に捕われない表現形態を普及させてしまいました。出版を経ずしてエクリチュールによる自己表現を可能にしていまったのです。

このことは、漠然とした自分の夢が勝手に変えられてしまったという面と、そのことによって夢が叶えられたという二面性をもっています。日進月歩の科学技術による利便性向上をなんとなく享受するのではなく、ここを俯瞰的に見る時、アッと驚くのです。語用の的確さはさておいて、自分史上の革命が起きています。若くして作家デビューできていれば、こういうことはなかったわけですが。

ノーティスト国民の出現


しかし、出版黄金時代にデビューできていないわけで、つまりプロになれない者にも表現ツールが与えられたことは、大いにラッキーと言うべきでしょう。また、デジタル時代といえど、出版文化は残るでしょうし、残るべきと思います。誰でも作家になれる時代、良いものであれば読まれる可能性がある時代が到来しています。

ここで言うプロとは、著作物による著作権収入を指してします。旧来の作家という概念です。いわゆる印税とは違うコンテンツの販売を実現している有料noteは、既存出版界とは異なるアプローチを採っているわけです。

文学志向の昭和の同人誌とは違って、noteはオープンでカジュアルです。閉鎖的な純文学村から飛び出して、様々なコンテンツが流布されています。それは一面的に言えば、「文章」ではなく「記事」と表現するそのスタンスに表われているかもしれません。今実際にnoteが狭義の文芸を扱っているいないに関わらず、個人の表現の歴史的潮流として語っています。文学が起動していた表現世界が、デジタルコンテンツの牽引力により、必ずしも小説を中心とした文芸ではない、あえて言えば、エッセイ、コラム、評論、書評、映画評と、広く捉えて文芸や、noteの機能活用等含めた生活全般の記事が溢れています。エクリチュールとして刻むことができ、国民のリテラシー向上に寄与することと思われます。歴史的に画期的なことが今正に展開しているといえましょう。昨年現在でnote登録者数が730万人ということです。紛れもなく全国でノーティスト国民がうごめいています。

こうした、既存のジャーナリズムや出版文化を塗り替えるかの可能性は、視聴覚メディアのテレビ業界をYouTubeなど動画配信サービスが席巻しつつあるかに見える状況と軌を一にしていると思われます。そう捉えるとわかり易く感じられます。実際には置換や代替が起きるわけではなく、個人の動画配信内容がTV放送に対する批評性もちながら、加算混合的に情報や知識の多面性を獲得できることは、一面的なお仕着せの報道よりましなことです。このことは東浩紀氏が、厳密に正確な表現をたどれませんが、そのような趣旨の発言をされていました。

放送がインフラともいうべき施設規模が必要なことに比べ、通信は格段に簡便なツールでできることは、雨後の筍のようなユーチューバーの登場を見れば押して知るべしでしょう。この一方で、出版や紙媒体での報道とデジタルコンテンツとでは、何か違いがあるでしょうか。旧来のTV放送や出版をアナログ世界と呼ぶとすれば、動画配信もnoteの投稿もデジタル世界でのことです。発信する内容が受け手に届くまでの方法がたやすくなったことは同じようなものでしょう。

ここに至って、デジタル技術の進展が表現方法のハードルを下げていることに辿り着きます。しかし、これはわかりきったことを迂回してみせたに過ぎないことになってしまいました。

私は、noteを日本の文学史的流れに位置づけたいわけではありません。ただただ、私の志向性からきているものと思われます。この意味では、多くのnoteユーザーが指向しているクリエイティブへの取り組みとは、かなり違った感じなのではないでしょうか。いかにして閲覧数を上げるかや、フォロアー数を増やすかといったデジタルコンテンツnoteの攻略といった興味と異なり、昭和の文学村の住人がレトロな演歌を歌っているようなものかもしれません。しかし、私はそれでいいのです。また、閲覧数に無頓着なわけでもありません。

鶯は鳴けどもいまだふるさとの雪の下草春をやは知る

noteのサステナビリティ

私たちは、今や水や空気と同じような環境条件としてリテラシーのツールを入手しています。イザヤ・ベンダサンが、日本人の水と安全に対するおめでたい妄信を指摘したのは随分昔のことになってしまいましたが、私は、水や安全に限らずデジタルコンテンツも、所与のものとしてあぐらをかくことに一抹のリスクを覚えます。

というのは、昨年LINE BLOGが終了した事例にあるように、われわれに提供されているプラットフォームが永続的である保証はない、という不安があります。自分の叙述したものをある程度長く温存したいと思うのは、著作に手を染めた者としては当然の思いです。もし、自分が作家として名を成し著作物の形で出版を実現していれば、それは書店や図書館の片隅にでも在り続けるでしょう。その書物の内容にもよりますが、図書館の開架で10〜20年ぐらいでしょうか。自分の死後後人の目に触れる可能性のことです。人気がなければ在庫に入ってしまうのでしょう。

それなら自費出版も現実的な方法ですが費用の問題と、手作りは労力の問題になります。そこをブレークスルーするのがデジタルコンテンツという革命だったわけです。ところが、われわれはその会社のプラットホームという船に乗っかっているだけです。すでに触れたように、現在noteのユーザー数は相当なもので、豪華客船に乗っているとは誰も思いたくないことです。これは、note社の収益状況を気にしているわけです。ザッと見た限りで確かなことを述べる知識はありませんが、バランスシート上の観点と今後の収益改善プランもあるようで、それほど気にする必要もないなどと検索していたら、橘大悟氏が「note㈱の赤字から考える有料記事への挑戦」の記事で有料noteの利用がnote社の収益に資するとの提案していました。同じような問題意識の方と共有感がもてたのと、私は、個人が無理なく出せる程度でのサブスクnote(=プレミアム会員)や、記事の有料販売もそろそろ視野に入ってきています。それがnoteのサステナビリティにつながるものならです。そう考えるほど、私にとって、水と空気と安全とnoteが必要なのです。

3年前に、板橋区立図書館で調べ物をしていたら北原遼三郎氏の「明治の建築家・妻木頼黄の生涯」(現代書館)を見つけました。妻木頼黄は、わが国の著名な建築家ですが、その著書はどうみても出版された気配がないので、非常に驚くとともに、こういう世へのプレゼン方法があるのだと思い、なんというかうれしく感じたものです。自費出版だと思うわけですが、書店を通じて販売のルートを経なくても、おそらく図書館への寄贈かと推測します。本の体裁としては、しっかりした単行本でした。自費出版にしろ、手作りにしろ、後代に残す方法に出合った気がする体験でした。

このことは、自分が出版社からの要請に基づいて本を出せるかに関わらず、紙の形態で本という造作で世に提出するありかたに、やはり惹きつけるものだったのです。このことを思うにつけ、noteはnoteとして拡散しつつ、やはり、どういう形かで紙の本づくりまでの道を模索してほしい気がします。出版社とのタイアップはすでに行なわれていることですが、自費にしろ印税にしろnote経由での回路も開いてほしいものです。

ここの文脈では、noteが単にデジタルコンテンツに固執せず、しなやかなコンテンツ産業で業容を広げサステナビリティにつなげてほしい、という意味合いで述べているわけです。

noteにマガジンがあった

本稿の冒頭付近で「ノ―ティストとは、noteを媒体とする利用者であるとともに、その記事全体を構成する編集者という側面まで含めた概念」と書くこの後半部分は、私がnoteのマガジンに気がついたのがきっかけのことです。マガジンを利用されている方にはわかりきったことですが、私は周回遅れでマガジンのことを知ったというわけです。通常投稿記事が10本あれば、各単発記事ごとにnote内にあるわけですが、例えば書評5本、生活エッセイ5本なら、この5本ずつをそれぞれのブックにまとめることができるのです。文章のジャンルではなく、内容のテーマ別でも、括りはいかようにでもかまいません。クリエイターが私の書評5セットありますよ、私の最近の生活エッセイ5本読んでみてといった提示ができるという意味です。

実は私の手掛ける記事は、まもなく全100本になりますが、これをまとめたいと思っていました。
そもそもLINE BLOGを利用していましたが、一昨年に主戦場をnoteに変えました。しかし、noteの方が日が浅いため、LINE BLOGにより多くの記事があったものを昨年の同ブログ終了に伴い、はてなブログに移行したのですが、この分についてもnoteにまとめたい意識があり、最近この作業に動きだしたものです。とこうしているうちに、noteのマガジンに気がつき、一気にマガジン化のプランが燃え盛っているのです。

しかし、デジタルに疎い私なので、その作成方法、他の人からの見え方など、スンナリ理解できているわけではありません。ただ意味合いとしては、自己記事全集を作り投稿することです。その
完成は私を急かすのですが、夢の中でのランニングのように、デジタルへの理解が恐ろしく時間を費やしています。noteの機能に関する記事を尋ね歩くことにもなっています。

このマガジン化を、私の中ではわかりやすくブック化と呼びますが、単品記事での投稿と併せて、
ブック化して投稿すること。自分全集をショーケースに並べること。ノーティストとしては、そこまで手掛けたいと思っています。それは、全集でなくとも、エッセイ集ブック①、文芸批評集ブック②など、単行本の形でもいいわけですが、単品記事を機銃掃射すると同時に、私が別途記事で書いた「記事も撃たねば読まれまい」(投稿済み)の考え方の一環として、ウェブ世界へのプレゼン方法として実現したいと考えています。noteの機能を活かした、記事提示の工夫のことですが、表現をそこまで駆使してこそノーティストだと思うわけです。

大空は梅の匂ひにかすみつゝくもりもはてぬ春の夜の月

素人視点とはいかに

noteの機能をよく活用し表現行為(投稿)の形態にも意を注ぎ、世の中へのプレゼンテーションを工夫するのが noteを操るノーティストの思考です。
もう一方で、記事内容そのものについての考え方もノーティストは持っています。ノーティストの概念は、この二本柱により定義されるというのが
私見です。

素人視点の考え方については、別記事でまとめています(noteには未収録、追って投稿予定)が、それをリピートしてもしょうがありませんので、
「素人視点の思想」のサマリーをあらためて述べるものです。

私がデジタルコンテンツで表現を開始した時、換言すればブログ投稿を始めた時、著述する素人の記事を人に読んでもらうにはどうすればいいかという課題に迫られていました。普通に考えて「誰も読まねんじゃね」と思うわけです。知識、情報、論理、文学的センス····どう見ても、専門家や作家に及ばないわけだから、とぶち当たるのです。デジタルの登場する以前、旧世界でのシナリオとしては文学賞をとったり、編集者に見出されたりしない限り自分の原稿が陽の目をみることはないのです。

どう考えても、印税収入で生計を営むプロ、作家とは対極の位置にいることを拠点とするしかないと思うわけです。それが「素人視点の思想」です。これは、勇ましく戦略などと言うより、表現のスタンスと言う方がいいような気がしています。例えば、文学世界で定説となっているような考え方について、私は批評を試みています。以下、予定しているマガジンのタイトルに添って、二三の記事タイトルとワンポイント紹介を通じて、伝わるものがあればと思います。ここでは、考え方を説明するのではなく、実例の紹介を通じて感じて頂けたらと意図しています。

「SungerBook―男とスコーン7」?

本稿のサブタイトルについてですが、「ノーティストの見た夢」の、自己全集における位置づけを表わしています。「SungerBook」は自己全集名とも私のレーベルとも言えましょう。「ちくま文庫」みたいなものです。 予定している、レーベルのセットリストを紹介してみましょう。

●キャッツアイ
―突き詰める、見極める〈論考〉 

・新説「作者の死」
テクスト論で知られるロラン・バルトに疑問をぶつけています。
・何故その本は読まれるか※
6冊の本について読者の立場から価値分析を行なってみました。
・素人視点※
その思想としての特徴と、文章の「民芸」論を展開しています。
etc.

●舌鼓
―どこまで味わい尽くせるか〈文芸批評〉

・藤沢周平の愉楽にひたる⑴⑵
藤沢周平の世界を堪能しています。
・百田尚樹「輝く夜」の輝き
百田氏を喝采するとともに、添削してみました。
・「上から目線」と文芸批評※
江藤淳など、文芸評論家からどんなことが学べるのでしょう。
etc.

●燕返し
―斬らずにいられない〈クリティーク〉

・仲木戸を消した京急の罪
京急東神奈川などという駅名改悪を呪っています。
・「永遠の0」で特攻してみる
石田英敬教授の「記号論講義」(ちくま学芸文庫)の第9章を批判しています。
・抑止限界論への疑義※
藤原帰一教授の論文(2022「世界」7月号)を批判しています。
etc.

●カラーグラス
―こんな見方もあるさ〈社会文化評論〉

・なぜ世界遺産に浮かれるのか※
世界基準の登録はいいことでしょうか。
・借地借家人としての日本国※
この国は自立できているのでしょうか。
・私はスキップしない※
アレを「ワクチン」と思っている人達と話ができない思いです。
etc.

●男とスコーン
―生活に抒情を求めるとき〈エッセイ〉

・進撃のおじいちゃん
若い女性達にパワーを供給してもらっています。
・ノ―ティストの見た夢
正に本稿です。
etc.

●萌え町紀行
―暮らした町を愛してる〈エッセイ〉

・風の渚
上大岡
・エロスの都
鎌倉
・帰って来た城下町
仙台
etc.

●ファンタジーの小径
―誘われて行く宇宙がある〈創作物語〉

・ポストメルヘン
著名なメルヘンのその後のお話です。
・クッキータイム※
事務所のおやつにまつわるエピソード。
・ぴいちゃんのクリスマスケーキ※
ケーキを用意したんだけどね····
etc.

※印は 2024年6月現在note未投稿。

このように、マガジンつまりブック7種類を構想しています。このセットリストでわかるように、マガジンで記事群を束ねることによって、著者の制作傾向が一覧でき、フルコース的にわかるそこに意義があると思います。このマガジン機能は絶大なものがあります。冒頭付近でノーティストは自らの記事の編集構成まで考えるとは、このことです。書店で作家某のコーナーに行けば作家の著書が一望できるように、あるいは、図書館のパスファインダーを見るように辿れる機能は、凄いことです。

私はまだマガジン作成できていないのですが、そのことによって、著作者としての私のイメージ
 が浮かべやすくなるのではないか、と期待しています。このマガジンがなければ、過去記事が時系列に並ぶだけでのことです。それに対して、マガジンは著作記事のショーケースでもあり、プレゼン効果を演出してくれます。音楽的に例えれば、コンサートの檜舞台のようなものです。セトリがあって当然のことでしょう。しかし、私はチューニング中でして、マガジン作成はこれからのことになります。当初は、さっさとマガジンをまとめてしまい投稿する想いだったのですが、アン・ウーキョン教授が「思考の穴」の「『流暢制』の魔力」で指摘されている通り、すぐできるという認知バイアスに陥っていたようです。これは、十分手間暇が必要とわかった瞬間、本稿に着手したというわけです。今現在で言えば、私の夢として語っています。

春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るゝ横雲の空

セカンド・プレイスnote

デジタルコンテンツnoteは、著作表現の場としては、出版に継ぐ歴史的ネクストステージと言えましょう。ファースト・プレイスをインクルードしてしまう可能性をもったセカンド・プレイスであり、専門家やプロを含めてあまねく国民に開かれています。noteは、私たちの筆記用具であり、編集工具であり、発表舞台でもあります。自由にコンテンツと、ノーティストが往来する場であり、この国の民のリテラシー向上に寄与することでしょう。★

◇写真の和歌は四首とも藤原定家



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