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映画好きと尿意と敗残兵と


#映画にまつわる思い出


 映画が好きだ。
 そして頻尿である。
 ゆえに映画の約二時間がおしっこ的につらい。

 しかも私は並の頻尿ではない。
 ラデツキー行進曲を奏でるような、勇ましい二拍子の頻尿だ。もしも排尿を鹿おどしで表すとしたら、カッコンカッコン連続で鳴り響く竹の音に鹿も怖いと思うよりも先に「うっせーな」と思うであろう頻度の頻尿である。

 けれども私は映画が好きなので、尿意と戦うことになるとわかっていても面白そうな映画の情報を耳にするとつい映画館に行ってしまう。

 私の映画館への道は、まず朝起きてからの水分調整から始まる。ここであまり水分をとってしまうと後がつらい。
 家を出る直前に必ずトイレを済ませて四十分ほど電車に揺られ、映画館の最寄り駅の駅ビルで一度トイレに入る。

 歩いて十数分。映画館に到着してチケットを購入し、まだ見ぬ物語への期待で活動的になった膀胱を鎮めるために、グッズショップの横あたりにあるトイレに行っておく。

 開場案内に従って明るい間に席につき、予告が始まる前にもう一度。
 地元の企業CMを観て、ノーモア映画泥棒が始まったあたりでなんとなく膀胱がそわそわするので念のためにさらにトイレで搾り出してから本編開始を待つ。
 しかし本編が始まり約ニ十分後、早くも膀胱の奥にうっすら水気を感じ始める。

 以降、尿意との本格的な戦いが始まる。

 どんなに感動的な物語で顔面が溶けるほど泣こうが、スカッと爽快な冒険活劇に心を躍らそうが、尿意は存在感を消してくれない。
 スプラッターホラーにいたっては、殺人鬼に追われる恐怖と緊迫感がそのまま失禁への恐怖と緊迫感に直結する。ある意味臨場感があって良い。

 真剣にスクリーンを見つめる私の頭の中には、足をもじもじさせながらトイレへのカウントダウンをしている擬人化された膀胱が常にいる。
 そしてだいたい膀胱のほうが映画よりも先にエンディングを迎えてしまう。

 自分の膀胱の癖はもうわかっているので席を立ちやすいようになるべく通路の隣の席をとるのだが、それでも他の人には邪魔だろう。
 物語の途中で集中力をぶった切ってしまうことを心の底から詫びながら、片手で拝みつつ席を立つ。
 そしてスクリーンに頭がかからないように、なるべくこそこそと身を縮めて廊下へと飛び出す。

 誰もいないトイレで用を足し、洗面所で手を洗って鏡の中の自分と目を合わせて気づく、自分の顔の変化。
 尿意に負けて離席したくせに、何を映画の主人公になりきった顔をしているのか私は。

 鏡の中でちょっと得意げな表情の自分に対して冷静につっこみ、黒背景に映倫のマークが浮かぶまでトイレに駆け込むことがないように、もう一度膀胱に問いかけてから会場に戻る。

 これでようやくリラックスして映画を楽しめると思いきや、場内が暗すぎて自分の席が分からない場合が往々にしてある。
 まるで大型ショッピングモールの駐車場で自分の車がどこにあるのかわからなくなった時のような絶望。そういう時は腹をくくって出入り口の前のちょっとした通路で映画が終わるまで立って観ることにしている。

 たまに私と同じように尿意に負けた敗残兵がその通路に三、四人並んで一緒にエンディングを鑑賞するときもある。
 お互いが見やすいように譲り合って一定の距離をとりながらジグザグと並ぶ私たちの間には、「あなたもか、……同志よ」という謎の連帯感と生暖かい気遣いがある気がする。

 そして会場が明るくなり映画への満足感とともに膀胱が満杯になっているのを感じ、行列に並んで入ったトイレで最後のお勤めをしてから家に帰る。
 帰宅後一番にすることはもちろんトイレに行くことである。
 一連の排尿で毎回ちゃんと一人前出ることが恐ろしい。

 おいそれとトイレに行けない、行っては迷惑がかかるという精神的な制限があると膀胱の活発化が止まらなくなってしまうのだ。
 なんという天の邪鬼な膀胱だろう。私本体は素直な人間だというのに。

 映画は好きだ。
 映像や音楽が素敵な物語は映画館で満喫したい。けれどもこうも膀胱が活動的だと周囲に迷惑をかけてしまう。

 そんな元気すぎる膀胱を抱える私を救ってくれたのが、動画配信サービスである。
 膀胱が暴れ出したら一時停止をしていつでもトイレに行っていいよ、という状態で見る映画は最高に楽しい。
 大迫力の映像や上等な音質で封切り直後の旬な映画を観ることはできないけれど、リラックスした状態でいられるから膀胱に切迫感がなくなり物語にのめり込むことができる。

 おお、私と膀胱の救い主よ。
 ありがとうサブスクリプション。

 おかげで映画と言えば尿意との戦いが思い出の中でワンセットだった頻尿の私は、今は十分に好きな映画を満喫することができている。

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