腹出し

1.

原田さんは妖怪らしい。自分は妖怪であるからあなたを幸せにしてやると言う。その代わりと言ってはなんだけれどもお酒を恵んで欲しいと言う。原田さんは中年のサラリーマンという言葉がぴったりな出で立ちをしていて、くたびれたスーツ姿が哀愁を引き立て、眼鏡を曇らせ、重そうな身体を引きずるようにして僕に近づいてきた。あなた、絶望しているでしょう。確かに僕は絶望していた。大学を卒業して五年間勤めた会社が先月潰れたし、四年間付き合った彼女と先日別れた。親からは二度とこの家の敷居をまたぐなと言われているし、友達が全くと言っていいほどいない。四年間付き合った彼女は大学の友達の紹介だったけれども、その友達は実家の山梨の家業を継ぐために帰って行ってしまったし、そこそこ楽しく生きていけそうな人生だなあと思っていたのだけれども、急転直下、よく考えたら友達と呼べる友達は山梨の彼だけであったし、まあでも四年間付き合ってきた彼女といつまでも一緒にいられたらいいやと思っていたけれども、洗濯物をどっちが畳むかという冷静に考えるとどうでも良い口論がきっかけで、二年間の同棲中に溜まりに溜まった鬱憤を互いにぶつけ合い、だいたいあなたは、だいたい君は、だいたいあんたは、だいたいお前は、とその夜二人が口にした「だいたい」は十回をゆうに越え、とうとう彼女は、実家に帰らせていただきます、とか、お互い距離を取りましょう、といったテレビドラマでよく聞きそうなセリフを何個か漏らして出て行った。そして後日、電話越しの彼女から正式に別れましょうと言われた。正式に別れてしまったかと僕は思った。思いながらも正式の反意語は何かと考えていることに気づき、あまり落ち込んでいないのではないだろうかと自分の性質に腹が立った。仕事もなくなって、彼女もいなくなって、何もすることがなくなってしまったのだけれども、そこそこの貯金はあるのだから一人でゆっくりこれからのことを考えようと一週間ほどぼーっと過ごしていた。だけども八万五千円の家賃を振り込んだ途端急に焦りが起こってきて、急に焦りが起こってくると急に仕事も彼女も友達も恋しくなり急に酒に酔いたくなった。そして繁華街に行くためにいつも通る大きな公園で原田さんに話しかけられたのであった。

公園を通り過ぎたゴミゴミした商店街のコンビニで五百ミリリットルの缶ビールを買い与えた。外で待っていた原田さんに缶ビールを渡すと、肴は?、とぬかすのでチーズ鱈をさらに買い与えると大好物だったらしく、これは出血大サービスしなければですねと言う。公園のベンチに並んで座り、チーズ鱈をつまみに缶ビールを飲んでいる原田さんは、ここの池は本当にチーズ鱈と合いますねとよくわからないことを言う。ビールじゃなくて池に合うんだ?、と聞くと故郷の池にはハンバーガーが合うと言う。その感覚は妖怪の感覚であるから人間のあなたにはわからないでしょうと言う。桜の花はもう散ってしまったけれども、通は葉を愛でるんですよ、だから今夜は最高だ、最高の葉っぱ見だと言う。唐突にこれまでの自分の人生について話してもいいですかと聞かれたので嫌だ、早く幸せにしてくれと言うと、いけず、と言う。しかし、まあいいでしょう、あなたを幸せにしてやることが先決だ、重ねてすみませんが、千円ほど恵んでくれませんか、ちょっとした儀式をするためにペンキが必要なのですよ、ペンキ?、なんで?、それは言えません、言わないほうが盛り上がるからです、千円持って逃げるつもりではないでしょうね、そんな馬鹿な、誓って、神に誓ってすぐ戻ってきます、妖怪だけど、なんつって、少し準備に時間がかかる故、これで時間を潰していてくださいと渡されたのは色褪せたルービックキューブで、色褪せているが故に白いマスが多く、さらに公園の暗い街灯のせいもあり、どれを合わせれば成功なのかよくわからなかったのだけれども、懐かしさの故かそこそこガチャガチャやっていた。

ガチャガチャと一時間ほど経っていることに気づき、自分はなんて馬鹿なんだろう、千円と缶ビールとチーズ鱈代を己を妖怪呼ばわりするおっさんに使ってしまった、ああ、騙された、とは思ったけれどもそんなにショックは受けていなくて、むしろ面白い経験をしたなあとすら思っていて、今度彼女に話してやろうと思ったのだけれども、そういえば正式に彼女と別れたのだったと思い出し、さらにそういえば酒を飲みに行こうと思っていたのだったと思い出して再び商店街の方に歩いて行くと、公園から商店街に出る階段の脇に、うずくまるものがある。原田さんである。チクショウ、チクショウと呻いてる。上半身が裸で、白い肌が露わになっている。原田さんである。妖怪の原田さんが右手で砂を掴んでは投げ、掴んでは投げはじめたが、頭を伏せたままなので自分の目に砂が入ったらしく、さらに大きな声でチクショウ、ウワーと目をこすりながら叫ぶ。そこにアベックがなにあれー、ダッセーと笑いながら通り過ぎていく。アベックが充分通り過ぎてから、原田さん、とこういう状態の人間は何をしてくるかわからないけれどもあまりにも哀れだったので、ソーシャルなディスタンスを意識して呼びかけた。上半身を起こしてこっちを見た原田さんのぽっちゃりしたお腹は真っ白であった。白いのは肌の色ではなくペンキで塗りたくられていたが故であった。真っ白なお腹には黒く太い線でまん丸い円にちょんと点が入っている目が二つと昔のアニメのオナラみたいな鼻、下向きで横に長く歪んだ三角形の口が描かれている。口の中はご丁寧にも赤く塗られていて、頬にあたる部分もうっすら赤い。ひどい、誰がこんなひどいことを、あ、や、これは、自分でやりました、え、自分で?、はい、自分で、え、なんで?、腹踊りしようとしてたんです、え、腹踊り?、ええ、腹踊り、え、なんで?、あなたを幸せにするためですよ、あ、腹踊りしてくれるんだ、あなたのために腹踊りの準備をして、よし描けたーっとあなたのもとに急ごうとしたら不良に絡まれて、財布と服を奪われたんです、ひ、ひどい、ひどい世の中です、ひどい世の中ですよ、ま、でもその格好で歩いていたら不審者ですよ、痴漢と間違えられてもおかしくないし、不良に絡まれてもおかしくないですよ、チクショウ、チクショウ、あいつら、ただじゃおかねえからな、とここでもテレビドラマでよく聞きそうなセリフが飛び出す。そして急に僕の顔を見て、そういえば、腹踊りがまだでした、見ます?、と言う。

見たくはなかった。見たくはなかったが、見るしかなかった。踊りたそうにしている原田さんを誰が止めることができよう。見ます?、と聞かれてからこっちが返事をする暇もなく、そうだ、忘れてた忘れてた、あなたを幸せにしなければならなかったと立ち上がると両手を伸ばし、上半身を左斜め後ろに傾かせた。腹の顔がピンと張る。緩急という言葉がある。落語で一番大事なのは緊張と弛緩であるらしい。緊張の糸が張り詰められれば張り詰められるほど、緩んだ時にドッと笑いが起こる。そういったものを踏まえると、原田さんの芸はプロのそれではなかった。メリハリもなく、驚きもなく、腹の動きによって顔がぐにゃりと変わっていく様がだらだらと繰り広げられた。腹踊りほどプロという言葉が似合わない芸はない。腹踊りは素人がやるから良いのだという意見も重々わかる。だけども原田さんは僕を幸せにしてやると腹踊りをはじめたのであり、その見物料として缶ビール代二百八十六円とチーズ鱈代三百六円と腹の化粧代千円、合計千五百九十二円払っているではないか。千五百九十二円のパフォーマンスかと問われるならば否と答えよう。実際原田さんもこちらの反応の薄さに焦っているようであり、力業みたいに付け焼き刃のような掛け声をはじめた。

そーれそれそれ、腹踊り、そーれそれそれ、腹踊り、今日も踊って、明日も踊って、今も踊って、世間も踊って、腹踊り、はい、腹踊りったら腹踊り、そーれそれそれ、

原田さんを止めた方がいい。原田さんの踊りは僕を幸せにはできない。そして時折通り過ぎるアベック達の目線がつらい。なにより原田さんの白と水色の縦シマ柄パンがきつい。けれども原田さんは頑張っている。僕を幸せにしてくれようと頑張っている。汗でペンキが滲んでる。丸い目玉から黒い涙がこぼれていく。口からも、鼻からも、黒い涙が、黒い鼻水がこぼれ、白い腹が薄まり、もはやお腹の顔が顔でなくなり、原田さんの顔からも涙なのか汗なのかわからない液体が流れていて、眼鏡が曇りに曇っている。原田さんを止めた方がいい。

そーれそれそれ、腹踊り、(ペチン)、腹踊りったら腹踊り、(ペチン)、西も東も、お天道様も、(ペチン)、ぐにゃりと笑うよお腹の顔には、(ペチャ)、オチャラカオチャラカ、お腹がグニャリ、お腹がグニャリよ、ヨイ(ペチン)ヨイ(ペチン)ヨイ(ペチン)ヨイ(ペチン)、

原田さんを止めなければならない。原田さんが無理矢理盛り上げようとしてなのか、汗まみれのお腹を叩くのだけれどもペチンという鈍い音しか起こらない。そして鈍い音の腹太鼓によって、手に白のペンキがつき、腹の白さがとれ、より汚くなる。顔はもうグチャグチャである。原田さんの顔も原田さんの腹の顔もグチャグチャである。原田さんを止めなければならない。僕は勘付いている。原田さんは僕の反応を気にしている。気にしすぎている。僕は冷めた目でこのパフォーマンスを見てしまっていたかもしれない。冷めた目どころか軽蔑の目を原田さんに向けていたかもしれない。笑ってやれよ、笑えるかよ、笑えよ、いや、笑えないでしょ、っていうか笑っちゃ駄目な系統のやつでしょ、笑えよ、笑えよって言われて笑える人なんかいるかっつーの、ってあれ?今、笑えよって言われた?

気づくと原田さんは腹踊りをやめていて、はあはあと荒い呼吸の息遣いが聞こえた。笑えよ、と声が聞こえた。笑えるかよ、と声に出しかけたのだけれど、寸前でこらえた。笑っていればよかった、笑ったふりでもなんでもいいから笑えばよかった。今からでも遅くない、と笑おうとするのだけれどうまく笑えず、ただただ僕の鼻からフッフゥ、フッフゥと勢いよく風が漏れていた。原田さんが重そうな身体を引きずって近づいてくる。あ、駄目なやつだコレ、あ、コレ、失敗した、怖い、やっちゃったわ、小学校の時に先生から教えられたやつってちゃんと守らなきゃ駄目だわ、知らない人について行ってはいけません、知らない人に話しかけられたら逃げなさい、あ、それって大事な教えだったんだわ、知らんかった、やっちまったわ、う、苦し、あ、息できない、うわ、マジか、ここで、ここで死ぬのか、マジかマジか、会社なくなって彼女いなくなって友達いなくなって、さらにその上に己を妖怪呼ばわりするよくわからん腹踊りが下手なおっさんに首絞められて殺されるのか、まあ、それもいいかもね、むしろその方がいいかもね、普通に死ぬよりか全然いいよ、ハッピーハッピー、ハッピーエンドよ、かーぜーをーあつーめてー、かーぜーをーあつーめてー、みたくなるなる、ってなるかーい、どこがハッピーエンドやねーん、諦めたらそこで試合終了やっちゅうねーん、ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな、こんなところで死んでたまるかっちゅーの、こんな変態なおっさんに殺されてたまるかーい、ルネッサーンス、ってバタバタしはじめた足が奇跡的に原田さんの股間に当たったらしく、原田さんはうずくまって呻き声をあげていたので、がむしゃらに逃げた。もう遮二無二に、我武者羅に走って我が家に帰り、鍵をかけ、カーテンを閉め、毛布にくるまってガタガタ震えていたのだけれども、一時間もすると毎週欠かさず見ている深夜アニメの放送を思い出し、テレビを見ていると落ち着いてきて、落ち着いてくるとお腹が空いてきて、さらにムラムラしてきていることにも気づいて、さっきまで殺されかけていたのに、よく行く喫茶店の店員、サーコ、読書が趣味、と胸のネームプレートに書いている女の子のことを考えている自分に腹が立った。痒いなと思って首に触れると、手に白いものがついていて、あ、なるほど、原田さんがお腹を叩いた際に原田さんのお腹の汗でグチャグチャになった白いペンキが原田さんの手につき、その手が僕の首を絞めたから、首が白くなっていて、その白いのが今の僕の手についたのか、と原田さんのお腹から僕の手につくまでの白ペンキの旅路を冷静に整理して、お風呂に入らねばとズボンを脱ごうとした時、ポケットが妙に膨らんでいて、そこから出てきた色あせたルービックキューブを見てゾッとして、裸の状態でユニットバスの入り口の隣にある鏡を見ると、首に白い手形がついていてさらにゾッとした。

2.

原田さんは僕を幸せにしてくれなかった。代わりに与えてくれたのは恐怖だった。今回のことは良い学びになった。くたびれたスーツを着た中年のおっさんは何をしてくるかわからないということである。くたびれたスーツを着た中年のおっさんにも良い人はたくさんいるだろうけれども、おそらく彼らにもそれぞれの地雷が埋まっていて、ついうっかりその地雷を踏んでしまうと最後、何をしでかすかわからない状態に入ってしまうのである。結論として関わらない方が良い。これにつきる。僕は原田さんと会った次の日からなるべく外に出ないように引きこもっていたのだけれど、そこは人間、お腹は空く。非常食の鯖缶もインスタントラーメンもインスタント焼きそばも尽きてしまい、買い出しに行かなければならなくなって、繁華街とは逆方面のスーパーマーケットへ向かった。

大量の鯖缶と大量のインスタントラーメンと大量のインスタント焼きそばと野菜もとっておくかと安かった小松菜をカゴに入れ、レジに持っていく。袋はお使いになりますか?、はい、ポイントカードはお持ちですか?、持っていないです。あれ、このおっさんの声は聞き覚えがあるぞ。チラッと顔を見ると原田さんである。どうしてこんなところで。だけれど原田さんは缶ビールをおごってくれ、幸せにしてやると言ったにもかかわらず、幸せにするどころか首を絞めて殺そうとした僕に気づいていないようであり、尋常でなく驚いていた僕であったけれども、平然と、いつも通りの買い出しなんてだるいわーって若者の雰囲気を崩さぬようにできるだけ原田さんの顔を見ぬように、且つ自分の顔を見られぬように、あれ、スーパーの内装変わったかな、なんてスーパー内のあちこちを見渡していた。レジの会計も無事に済み、袋詰めをしている途中に原田さんの方をチラチラ見ていた。あれ、眼鏡してないな、あれ、というか痩せてないか、もっとぽっちゃりしてたよね原田さん、あれ、これ原田さんでなくないか、と考えた時、三笠さーん、と若い女店員がレジ係のおじさんに近づいていき、レジ変わりますよーと言った。

原田さんは僕を幸せにしてくれなかった。そう思っていたのだけれども、結果的に僕は幸せになった。新しく彼女ができた。僕にマッチングアプリがマッチングしてくれたのは同い年で金髪ボブのギタリストで、写真がかなりタイプだったので、写真かなりタイプです、と連絡したらなんとすぐに会うことになり、喫茶店で落ち合い、モンブランとコーヒーをお供に話していると音楽の趣味は見事に合わなかったけれども、角砂糖は二個入れる派だとか、トイレットペーパーはダブルよりシングル派だとか、お皿は洗った後に拭かずに自然乾燥を待つ派だとか、歯磨きの前にフロスで歯垢を取る派だとか様々な派閥が見事に一致し、これは運命ってやつですか、てなわけで、その日のアメリカンなコーヒーは人生で一番美味しく感じ、その次に会ったのは僕の家で、それは僕の家に金ぴかの鍋があるという話に彼女が食いついたからであって、三笠さんがレジをしているスーパーマーケットで肉をしこたま買ってきてから二人だけのシャブシャブパーティをしていると、彼女がギターを鳴らしはじめて、そのメロディがあまりにも今この時を忘れさせてくれるものであったので、もう肉だとか水菜だとかビールだとかゴマダレだとか全部どうでもよくなってしまい、ギターを抑えて音を止めてからキスをして、キスをするとそういうことになって、それじゃあ僕らは恋人同士だねと手をつないで、ルンルンルンと彼女を駅まで見送ってからの帰り道、例の殺されかけた公園を歩いていると、あの時チーズ鱈を食べながら並んで座ったベンチのそばで原田さんがうずくまっていた。

原田さんは僕を幸せにしてくれた。だけども僕に彼女ができたのが原田さんの腹踊りのおかげなのかと問われるならば微妙なラインである。確かに原田さんは僕を幸せにしてくれると言った。そして実際に今の僕は幸せを感じている。しかしマッチングアプリである。以前から登録していたマッチングアプリである。ただの偶然とも思える。というか運命と思いたい。彼女と僕は出会うべくして出会ったのだ。決して原田さんのおかげなどではない。幸せにしてやろうとする相手を殺そうとするだろうか。お前は死んだほうが幸せだとでも言うのだろうか。否、あの時の原田さんはもはや僕のことを考えてくれていたわけではない。自分のことしか考えていなかったが故の殺意である。実際幸せになりたいのは僕よりも原田さんの方だったのかもしれない。僕が原田さんの腹踊りをちゃんと笑ってやっていれば済んだ話なのかもしれない。だけどもあんな怖い思いはもう御免被る。原田さんのおかげなどではない。僕のトーキングスキルによるものである。僕のトーキングスキルが彼女の心をくすぐったのである。ただそれだけのことなのだ、と原田さんが持ってきてくれた幸せ説を全面否定していると、潰れた会社の上司から電話があり、上司は国家資格を持っているから、潰れた会社の顧客を頼りに起業しようと目論んでいるのだが一緒にどうだとのことである。就職活動の面倒臭さに心がもげかけていたので、やります、やらせてくださいと二つ返事で承諾し、電話を切った後、思わず星空を見上げてしまうほど嬉しかった。星の名前を一つもわからないのだけれども、やけに輝く星を見つけ、とても愛おしく思い、イキテタライイコトアル星という適当な名前をつけた。ありがとう、君のおかげだよ、イキテタライイコトアル星、君は照らしていてくれるんだね、僕の前途有望な人生という名の旅路を。ありがとう、と感謝の気持ちで心が満たされていると山梨の友達が後継を弟に任せたからしばらくしたらこっちへまた帰ってくる故、その際はまた一緒に燗でも空にしに行こうと電話がある。おまけに自動販売機でアイスココアを買うと当たりが出てピカピカ光り、もう一本アイスココアが出てきた。今日はなんて日だろう、なんて幸せなことが次々と起こる日なんでしょう。風が気持ち良い。夏になる手前の少し湿った風が公園の木々を揺らして音を立てる。ササザー。月も綺麗だ。街灯も美しい。池からはポチャンと魚か何かが跳ねる音がし、いつもなら唾を吐きかけたくなる夜の公園のベンチでイチャつくアベックも、耳元をぷう〜んと飛ぶ蚊も、何もかも素敵に感じる。両手で掴んでいるアイスココアのスチール缶からの水滴が愛おしい。名も知らない草木や虫が愛おしい。駐輪禁止と赤い字で書かれた看板の前に駐輪している不法駐輪の自転車が愛おしい。ありがとう。イキテタライイコトアル星。君のおかげだよ。君に祈ったおかげだよ。君のおかげ。いや違う。これってやっぱり原田さんのおかげなのか。こんな幸せが舞い込むことったらないよ。原田さんの腹踊りのおかげだよ。って、あれ、原田さん、大丈夫かな。さっきうずくまってなかったか。見て見ぬ振りして颯爽と通り過ぎたけれど無性に原田さんにお礼が言いたくなり、このアイスココアを一つ与えてあげたくなり、歩いてきた道を駆け戻った。

くたびれたスーツ姿の中年と関わらない方が良い。先日結論付けた考えが一瞬浮かんだけれども、感謝の心に包まれていた僕には怖れなどなかった。うずくまっている原田さんに声をかけるとはじめは僕に気づかないようであった。チーズ鱈をこのベンチで食べた夜のことを話すと、ああ、あの時の、あなたでしたか、と思い出したようではあったけれども、すぐに、お酒を恵んでくれませんか、とはじまる。お酒ではないんですが、とアイスココアのスチール缶を渡すと、アイスココアかあ、って顔を一瞬したのだけれども、そこは大人、ありがとうと微笑んでチマチマ飲みはじめる。アイスココアの甘ったるくザラザラする液体を舌に感じていると、この池にはアイスココアがよく合うと原田さんがこぼした。この前はチーズ鱈が合うと言ってましたが、この前はこの前、今日は今日であります、と返してくる。実際この言葉は前に自分で言ったことを忘れていたことへの取り繕いとも僕が渡したアイスココアに対して空気を読んでくれたとも捉えられるのだけれども、そうではなくて、この前はこの前で本当にチーズ鱈が池に合っていて、今日は今日で本当にアイスココアが池に合っていると原田さんは感じているが故の言葉なのかもしれないと思った。

原田さんは本当に妖怪らしい。腹出しという立派な名前があるらしい。腹出しというのはその名の通り腹を出している妖怪で、腹出しに酒をあげると腹踊りを披露してくれ、その腹踊りを見た人は幸せになるらしい。その話を聞いて合点がいった。原田さんは妖怪であると確信した。ありがとう原田さん、と原田さんと会ってから起こった幸せな出来事を並べて、何度もありがとうと言った。だけれど原田さんの反応は薄かった。感謝なんてされてもしょうがないよと言った。私は長いこと生きてきましたと言った。私は人を喜ばすのが大好きだったのですと言った。今ではもうそんな力、私にはありませんと言った。そんなことはありません、現に僕に幸せをくれたじゃありませんかと僕が言うと、偶然です、と言う。私にはもう妖力が残っていないと言う。昔はすごかったと言う。ペンキなど使わずに腹の顔を変幻自在に浮かび上がらせることができたと言う。腹踊りのキレも凄く、見る者を爆笑に誘ってやまなかったと言う。調子の良い時は二メートルほど浮遊できたし、関節的には絶対に曲がらないような動きもできたと言う。そしてその腹踊りを見たものには皆が皆、絶頂なる幸せが舞い込んできたと言う。しかしあなたは先日の私の腹踊りを見て幸せにはならなかったでしょう。それが何よりもの証拠なのです。ああ、酒が飲みたい、酒を恵んでくれませんか。先日の腹踊りは酒が足りなかったのです。あんな五百ミリリットル缶ぽっちじゃ本領を発揮できるわけがありません。昔はもっともてなされた。私がいると聞くと村中のものが集まってきて酒を寄越した。そして私は与えられた酒を残したことがないのです。一滴も、一滴たりとも与えられた酒は残しませんでした。その一滴が、私を踊らせるのです。そしてその踊りが人々を幸せにした。辛い顔をしている人がいれば共に酒を飲み交わし、踊った。喧嘩している奴らがいれば共に酒を飲み交わし、踊った。陽気にドンチャンと騒ぐ奴らがいれば共に酒を飲み交わし、踊った。一晩中踊った。二晩も三晩も踊った。しかし人々は段々と酒を飲まなくなってしまった。宴会をしなくなってしまった。私の腹は、踊るためにあるのです。そして私の踊りは、酒に酔ってはじめて舞い狂うことができるのです。ああ、寂しい、寂しい世の中になったものです。しかし人間は何が楽しくて生きているのでしょうか。あなたが幸せだという出来事なんて些細なことだとしか思えません。酒を飲んで馬鹿騒ぎしている時が一番の幸せではありませんか、昨日のことも明日のことも考えず、その瞬間が全力で笑いの渦中にあることが一番の幸せではありませんか、なんだっていいんです、渦中にいることほど大事なことはないって言ってるんです、ああ、酒が飲みたい、酒を恵んでくれませんか、ついでに女も恵んでくれませんか、彼女、できたんですよね、私のおかげで、私のおかげですよね、私のおかげですからいいじゃありませんか、恵んでくれませんか、彼女、私、多分そろそろ死にそうなんですよ、もう多分そろそろ駄目だと思うんですよ、交わりたいなあ、女と、一晩でいいんです、一晩でいいですから彼女貸してくれませんか、ついでに部屋も貸してくれませんか、そのついでと言ってはなんですけれども酒を恵んでくれませんか、浴びるほど飲みたいです、なんなら彼女の友達も何人か誘ってもらいましょう、あなたも友達を何人か誘ってください、懐かしいなあ、楽しかったなあ、交わり会、交わり会は人数が多ければ多いほど良いですよ、誰彼ともなく交わるんです、嫌よは無しよ、嫌よは無しよの時間です、酒もあればあるだけ良いんです、酒がなければ盛り上がりません、ビールなんてカタカナの酒なんて駄目です駄目です、酒です酒です、酒が切れたら一気に萎えてしまいますからね、切れないように必要そうな量より多めに用意しておくんです、ああー、楽しみだなあ、今すぐ呼んでくれませんか、彼女、彼女の友達も連れてきてって頼んでくれませんか、幸せにしますよって、超気持ちいいですよって、境目っていうのかな、だんだんとわからなくなっていくんですよ、今、俺は腹踊りしているのか交わっているのか、酒を飲んでいるのかおめこを舐めているのかゲロを吐いているのか、俺は女なのか女が俺なのか、いや、違いますね、俺っていうものが消えるんですよね、消えるって言葉も違いますね、漂うって言うんですかね、あの空間にいる全員がこう、霧状に、こう、たゆたうんですよ、いつまでも、こう、終わらないんだなあ、このたゆたいってやつが、俺がお前でお前があいつであいつがおめこでおめこがちんこでちんこが腹踊りしてヨイヨイヨイヨイ、ああ、ああ、酒酒酒酒、酒を早く持ってこいよ、いつまで待たせるんだよ、ああ、すみません、調子に乗りました、しかしアイスココアでは駄目なのです、アイスココアなんて久しぶりに飲みましたよ、家内がよく作っていました、ストーブの上に常に置いていたヤカンからココアの粉にお湯を注いでかき混ぜましてね、牛乳を入れてさらに混ぜて氷をポチャンと入れるのです、私は牛乳ってやつがどうも苦手でしてね、息子も娘も家内が作るアイスココアが好きなようでしてね、私だけはいつも酒でしたので、アイスココア同盟には参加いたしませんでした、しかし子供というやつも困ったものです、私が、私がですよ、汗水垂らして働いて、大学まで出してやったというのに、パパみたいになりたくないの一点張りですからね、やってられません、これで酒を飲むなって言う方が馬鹿でしょう、ねえ、あなた、そう思いませんか、そう思うならば酒を恵んでくれませんか、颯爽と酒も持ってきてくれませんか、もう私は駄目です、実は私がこの人間界にて人間の姿をしていられるのは酒の力によるものなのです。酒は妖怪に妖力を与えるのです。その妖力によって、私は人間の姿を保っているのです。妖力を失えば妖怪の姿に戻ってしまいます。けれどこの街は二酸化炭素が多すぎるので妖怪の姿に戻ることはすなわち死を意味します。妖怪の体は二酸化炭素が苦手なのです。彼女恵んでくださいなんて言ってすみませんでした。調子に乗ってしまいました。しかし最後に、しかし最後に渾身の腹踊りを舞いたいのです。先日あなたに見せた腹踊りが最後なんて耐えられない。自分が納得のいく、満足のいく腹踊りでをしながら愉快に散りたいのです。どうか、どうか酒をお恵みください。女とかこの際どうでもいいので酒を、できれば、できれば一升瓶ほどでかまわないので日本酒を、恵んでくれませんか、お願いします、お願いします、と本当にこのまま消えてしまいそうな声で言ったので、先日五百ミリリットルの缶ビールとチーズ鱈を買ったコンビニに行き、千三百七十五円の吟醸酒と書かれている酒と原田さんの大好物らしいチーズ鱈もついでに買って戻ってくると原田さんはそこから姿を消していた。

僕は数年前に再放送で流れていた恋愛ドラマの金字塔と言われるテレビドラマの最後の方のシーンを思い浮かべていて、そのドラマのヒロインは午後四時四十八分の電車に乗るから、私ともう一度一緒になる気持ちがあるならそれまでに来て、と主人公に告げ、主人公は高校生の時から好きだった女性を選ぶか彼女を選ぶかをギリギリまで悩んでやっぱりお前だと駅に向かうのだけれども彼女の姿はなく、駅員に尋ねると彼女は一つ前の三十三分の電車に乗って行ってしまったと言う。もちろん僕は原田さんに対してそのような恋愛感情を持っていないし、十五分悩んでしまったが故にすれ違い、もう二度と会えなくなるといったドラマチックな要素も僕らの間にはなかった。ただただ酒を買いに行かされて戻ったらいなくなってしまっていた。ただそれだけのことなのだけれども、さっきまであんなに素敵に思えた公園の草木も街灯もアベックも虫も全てうざったく感じ、ベンチに座ってぼーっとしているとスマートフォンがピコンと鳴り、画面を上にスライドしてパスワード四桁を一瞬で入力すると全体が緑色になってアプリが起動して青空のような背景の左の列に並ぶ名前も知らないピンクの花の小さい写真から白い吹き出しが出ていて、今日は楽しかったよー笑顔の顔文字、次はあたしん家来てねー赤い音符、それからピコンと音がして、見たこともない猫のキャラクターが笑いながら袴を着ていて、左手に大きい筆を持ち、右手に持つ掛け軸にはよろしくと筆で書かれていて、気の利いた言葉を返さなければと思いながらも、原田さんに彼女を恵んでくれと言われたことを思い出してしまい、原田さんに首を絞められたことも思い出してしまい、ゾッとしながらルービックキューブを返すのを忘れていたことも思い出してしまい、スマートフォンをポトリと落として、もし本当に原田さんが消えたのだとしたら、あのルービックキューブも消えるのだろうかと思いながら、吟醸酒をラッパ飲みすると、冷たい液体にふわりと甘さを感じ、慣れない酒が喉を焼くように腹に落ちていくのを感じながら、チーズ鱈を一つかじってみたのだけれども、それがこの公園の池に合うのかどうかはわからなかった。


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