6/11のビッグバン

6/11

日記を全然更新していない。気づいた。毎日、日記を書くのは僕には無理かもしれない。寝る前に気功やら瞑想やらやって、ベッドに入って、思考をしなければならないのはかなりきついし、っていうか、今の僕にとっては不健康かもしれない。言い訳(シャ乱Q)。でも大丈夫(吉高由里子)。適当にやる。これしかない。これしかないのかもしれない。絶対に無理はしない。健康的にやる。健康的に適当にやる。つまりもう日記とかはもうどうでも良い。適当なことを適当に書く場にする。だけど、日記っぽくもする。モッくんの話もするし、ミスチルの話もしたい。だけど今日は今日起きたビッグバンのことについて書こうと思う。


今日は朝チラッと勉強してたら妻が昨日鍵を無くしたおかげで買えたというツバメグリルの持ち帰りハンバーグとサラダとパンという最高な朝食と共に始まった。

サンマのお笑い向上委員会見てたら、ヤジマリー。の芸風が好きだってことを認識した。

昼から鍼の勉強会へ。違う学校の人とペアになってもらい新鮮だった。がまだまだ練習しなければならぬと思った。痩せてる人は痩せDNAが開花すると長生きできるらしいって先生が言ってた。なんじゃそりゃ。


帰って録画した伊丹十三監督の大病人を見ながら、妻が作ってくれたチーズささみ焼きと味噌汁を食べる。妻よ、ありがとう。朝から晩まで、何から何まで、昨日二次会行けなかったくらいで小言を言ってごめんよ。今の日本に伊丹十三が足りないって日本映画専門チャンネルのキャッチコピーが良かった。勉強しながら見てたら、勉強してるんでしょ、変えていい?て妻に言われて、なんらかの洋画がテレビに流れる。ベッドで颯爽と肺やら気管支について勉強してたけど、飽きてて、ゴーゴリの肖像画を読む。


今、まだ冒頭だけど、うーむ、面白い。

ビッグバンって言ったけど、ビッグバンってほどでもないのかもしれない。

つまり人物描写の話なんだけど、人は他人にその人が知らない誰かについての話をする時、枠を設けるのかもしれないと思った。

僕がクラスメイトに妻の話をするときに、「好きそうな映画は絶対に映画館に観にいく人」、「シールとか水で貼れるタトゥーとか可愛いおもちゃみたいなの好きな人」とか、「机に出したペンとか鋏とかポン酢とかをしまえない人」とか、いろんな枠を設けて、人に話をする。「文藝春秋のトートバッグをよく持ち歩いてる。」とか、「めっちゃ小さい財布を持っているんだけど、案の定、その財布を電車に置き忘れて、エポスカード停止した途端戻ってきて、登録してるの全てやり直しになった」とか、具体的エピソードだとか、身につけてるもの、好み、性格、等いろんな枠を設けて、まだ会ったことのない人に妻を説明する。ゴーゴリもさまざまな枠を設けて登場人物を説明する。だけどもちろん、これは作者が語る登場人物であって、その枠自体も本当かどうか主観的な話におけるものなので怪しいし、(そもそも小説って時点で実際に本当とかどうでも良いものでもある)、枠の中で、その人物がどういう人なのかは、その枠を与えられた、その話を聞いた人が勝手に描くものである。枠の上から、枠を重ねて、さらにさらにと枠を重ねていくことで、枠の幅は小さくなっていくんだけど、決して一点にはなれない。なんかそんな人物描写をしているような気がしている。って思って。今、やる気が満ちているので、ちょうど今読んでいるところの「肖像画」(横田瑞穂訳)の家主の紹介をうつしてみようと思い立った。


↓ここから。


チャルトコーフが住んでいた小さなアパートの持ち主というのは、いかにもペテルブルクの片隅にでもアパートともっているような連中の一人で、ーーロシヤにはこういう連中はいくらでもいるが、その性質となると、着古したフロックコートの色とおなじで、どうも、はっきりしたところのない人物である。若いころには口汚い大尉で、文官の勤務に就いたこともあって、部下に咎をくらわす名人で、抜け目のないところも、おしゃれなところも、ちょっと足りないところもあったが、年をとってからは、こういうきわだった特徴がひとつに溶けあって、なんだかぼんやりした、曖昧な性質になってしまったのだ。もう勤めもやめて、鰥暮しの身の上になっていて、もうおしゃれもしなければ、法螺も吹かず、喧嘩をすることもなく、ただお茶を飲みながら、いろんな馬鹿話をするのが好きで、部屋のなかを歩きまわっては、脂蝋燭の燃えさしをなおしたり、毎月、月末になると几帳面に自分の間借人たちのところをまわって部屋代を集めたり、片手に鍵を持ったまま住来にでて自分の家の屋根をながめたり、犬小屋のように汚い小屋へ隠れてずる寝をしたがる門番を何度も追い立てたりしている、ひと口に言えば、あらゆる放蕩無頼の生活と駅馬車にゆられゆられたそのあげく、下劣な習慣だけを身につけて退職した男だった。


ーーーーーーー


1、着古したフロックコートの色とおなじで、どうも、はっきりしたところのない人物

2、若いころは口汚い大尉、文官の勤務もした。部下に咎をくらわす名人。

3、若いときは抜け目ない。

4、若いときはおしゃれ。

5、若いときはちょっと足りない。

6、年をとってからは上記の情報が溶け合って、ぼんやりしている。

7、年とってから、お茶を飲みながら馬鹿話をするのが好き。

8、蝋燭の燃えさしを直したりしてる。

9、屋根の上を眺めたりしてる。

10、サボる門番を追い立てたりしている。


11、一言で言うと、下劣な習慣だけを身につけて退職した男。



ーーーーーーー


うーん、枠って感じではないのかもしれない、って言うか、過去の彼と、今の彼のどっちも情報があって、ややこしい。しかし、この紹介だけでこの宿屋の主人のさまざまな絵は浮かぶと思う。いや、むしろ、彼の大雑把な人生ダイジェストを一瞬にして見せられたと言っても良いくらいではないかと思う。絵と共にサイレント映画の活動弁士さながら、お茶を飲んでゲヘゲヘと変な笑い方をする彼の絵が浮かぶし、鍵を持って、ぼーっと屋根の上を眺める彼の絵が浮かぶ。サボる門番を追い立てる彼にいたっては、トムとジェリー的と言いますか、足がグルグル巻きになって、両手をあげて門番を追いかける彼の絵が浮かぶわけで、だけど、これは僕の脳内に浮かんだ作家の紹介によって浮かんだ彼の絵であって、もちろん、この紹介を僕以外の他の人が聞いた時、全然違う絵を浮かべているかもしれないってことなのですよね。

めっちゃ熱いお茶をフーフーってしながら、ヒソヒソってニヤーって静かめに馬鹿話をする絵かもしれないし、屋根の上に故障、異常はないか、家屋の状態をちゃんとチェックしてる彼の絵を浮かべるかもしれない。トムとジェリー的でない、なんだろう、これは結構、漫画的にならざるを得ないかもしれないが、ヨボヨボとした足で、全然捕まる気配のない追いかけ方をしてる彼の絵もありうる。


つまり、枠を設けたところで、その枠ごとで浮かぶ人物像には聞く人によっての誤差が絶対にあるわけで、その枠を積み重ねていった挙句に、誤差誤差誤差と積み重なり、聞くものそれぞれの具体的人物像が生じていくわけで、なんだろう。そう言うことを思って、ビッグバンって言ったんだけど、やっぱり結構普通のことを普通に言ってるだけなのかもしれないけど、僕にとっては大きなビッグバンだった。


さあて、勉強をしていないぞ、ぞぞぞ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?