「待遠力」             ─人生を豊かにしたければ好きなビールを3日に1回にしなさい─     

1 待遠力は人生を豊かにする

「待遠力(たいえんりょく)」こそ人生を豊かにする力である。待遠力とは「待ち遠しいと思う力」のことだ。これがあるのとないのとでは人生の張りが違ってくる。
 「もういくつ寝るとお正月〜♪」という童謡がある。待遠力はこの歌詞そのまま具現化したものである。この力は幼少時代は当たり前のように持ち合わせているが、大人になると日々の忙しさから忘れている方が多いのではないだろうか。だからこそ意識して日常生活に採り入れるべきである。
 私が待遠力の必要性を感じたのは大晦日における実家の恒例行事である。
 我が家では、大晦日に豪華なステーキが出てくる。子供時分はそれが楽しみで1・2週間前からソワソワしていたものであった。光沢のあるココア色。自然と呼吸が深くなる新鮮で高級感のある匂い。ナイフで切るとすぐ切れる。自分のはやる気持ちに応えてくれる、利口な肉である。
 それから十数年経ったある大晦日、同じ肉が出てきてもあのときの感動がないことに気が付いた。
 あのソワソワした気分はどこへ行ってしまったのか。
 この体験が待遠力に目覚めるきっかけであった。
 

2 「ハレ」の日と「ケ」の日の不明瞭さは待遠力で解決

 現代社会の問題に「ハレ」と「ケ」の日の不明瞭さがある。
 「ハレ」の日は特別な日のことで普段では味わえない体験をする。「ケ」の日は日常のことである。
 昔は物が豊かでなかったため、先人たちは要所々々で「ハレ」の日を設けて「ケ」の日の活力としていた。
 しかし、現在の世の中は物が溢れるほど豊かになり、「ハレ」の日が常態化している。つまり、「ハレ」と「ケ」の区別がなくなったのだ。
 「ハレ」の日が日常の「当たり前」になると、贅沢の感覚が麻痺し感動が薄れる。まさに先に挙げた大晦日のステーキはこれに当てはまる。感動が薄れると「ケ」の日を懸命に生きようとする力も弱まっていく。 
 裏を返せば、「ケ」の日が「特別」になると、普段の地道な作業をすることが面倒になり、様々な場面で省略を求めることにも繋がっていく。食事をコンビニ飯で済ますことやお掃除ロボットを活用するなどがその典型例だ。
 書家の石川九楊氏は「ケ」の日を手で触れる日常と表現し、このように述べている。

手で触れることのできる日常がすっかり希薄になってしまったわけで、このことは現実感覚の希薄さを生み、それがさらに物事の良し悪しを判断する感覚の喪失へとつながっています。

石川九楊 縦に書け! 2005 祥伝社 p199 

何度も飢饉等の脅威に直面してきた人類にとって、物に困らない生活は大きな望みであった。現代社会ではその望みがほぼ叶えられた反面、人間の判断力の喪失という副産物を生み出す結果となった。
 物質的豊かさが必ずしも歓迎できるものではないことがわかる。

 こうした課題を解決する術が待遠力である。待遠力をつけることで、「ハレ」の日と「ケ」の日が自身の中で明確化しメリハリのある生活が送れるようになる。
 また、待遠力は精神的な強さも身につく。何か楽しいことをイメージすると自然と笑みがこぼれるのが人間の性だ。日常生活でつらく、苦しいことがあったとしてもその先に喜びがあれば乗り越えられる。心身ともにタフになっていくのだ。

3 待遠力の身につけかた

 待遠力の具体的方法は、
  1 先にご褒美を設定すること 
  2 毎日の行うことを減らすこと

 このいずれかである。 
 例えばビールが好きで毎日飲んでいるのならその回数を制限すること。するとビールのありがたみが実感できるだろう。昔お酒は高級品だったらしく、月に2、3回しか嗜めなかったと聞いたことがある。当時の人にとってお酒の味は格別のものであったに違いない。
 毎日飲んでいた人がいきなり回数を減らすのは厳しいだろう。1週間に1回もつらい。しかし、3日に1回だったらなんとか耐えられるのではないか。対象物はなんでもよろしい。アイスクリームやコーヒーでも。因みに私はカフェラテである。
 3日に1回を継続しても良いし、より喜びを噛みしめたいのなら1週間に1回に設定しても良い。自由に楽しんで日々を送ってもらいたい。
 このように待遠力は人生をよりよく生きる工夫であり、喜びをもたらす発想法である。
 生活をより豊かしたいのなら、手始めとして毎日のビールを3日に1回にしてはいかがだろうか。


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