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「キリスト教の会」からのエクソダス
(2022年8月3日のハテナブログの記事を加筆修正)
RACネットワークの「ネタ」になってきました😆
通信環境なのか、機材なのか、音割れが酷いのがごめんなさいです😌
すでにブログで書いてる事しか言ってませんが、表題と編集が攻めてます。
「教会からのエクソダス」って🤣
編集の都合で抜けておりますが…。
Q:聖書にある「教会」の回復を目指しておられる
⇒ いや、現実的に無理でしょ。
Q:今は教師として、またもしかして使徒としての働きも
⇒ いや、良きサマリヤ人のロバです。乗せられた荷物を目的地に運ぶだけです。
インタビュアーのけんたろさん、持ち上げて言ってくださるのが伝わるので申し訳ないのですけれども。
だけど、僕は気合も、気負いも、召命も、ビジョンも、持ち合わせておりません。
僕の言わせていただいた本音は
⇒ 道楽ですから
道楽ってね、他人からすればあんなことに時間と金と労力を使って、何が嬉しいんだ?って言われるもの。
キリストを楽しんでいる、だからやってる。
Q:これからオーガニックチャーチを志す人へのアドバイスはありますか?
⇒ 「キリスト教」をやめることです。
「キリスト教の会」では、聖書が提示している事を、実際には伝えていません。
たとえば。
イエス・キリストの十字架死は、私たちの身代わりだった、という話はしても、私たちも彼の内にあって共に死んだという話は、ほとんどされません。
多くの「キリスト教の会」は、十字架理解50%OFFの状態でせう。
いわゆる「福音の三要素」を語る方は多いけれど、「共なる死」を語る人は少ない御様子です。
たとえば。
罪という言葉を、単数形と複数形を区別せずに語るので、いつまでも「罪々:sins」の赦免が不明確であり、内在の「罪:Sin」を自分の性質と思い込んで苦しむ方が、少なくありません。
たとえば。
「牧師」という肩書、働き、存在は、聖書の提示するエクレシア(教会)には、ありません。
は?え?どういくこと?と思われるかもしれませんが、そうなのです。
ということで。
「教会からのエクソダス」
こうしてみると、実に悪人顔ですな。
この動画撮影が、今年の8月に発売される「異教まみれのキリスト教?」のきっかけのひとつになったみたいなので、実に嬉しい。
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