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三重のバプテスマ

そもそもバプテスマとはなんでしょう?

バプテスマとは、布の染色や、ピクルスのレシピに使われる言葉で、漬け込む、という意味です。

キュウリは、糠味噌にバプテスマされて、キュウリではない「漬物」に変質します。糠味噌の成分が浸透して、もはやキュウリには戻れません。
それがバプテスマです。

聖書では、この「バプテスマ」を、ひとつになること「一体化」として教えています。

そして、問題になるのは、バプテスマはひとつなのか?

それとも、いくつかあるものなのか?


@エペソ4:4-6 新共同訳
4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

この箇所では、洗礼は一つ、と書かれています。


ですが、ヘブル書においては、種々の洗礼、と書かれています。

@へブル6:1ー2 新共同訳
6:1 -2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。

これは、どう理解するべきでしょうか。



エペソ4:5で主張していることは、文脈的に一致です。
ひとつであること、です。


@エペソ4:1-6 聖書協会・共同訳 
エフェ 4:1 ですから、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。招かれたあなたがたは、その招きにふさわしく歩み、
エフェ 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
エフェ 4:3 平和の絆で結ばれて霊による一致を保つよう熱心に努めなさい。
エフェ 4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれたのと同じです。
エフェ 4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つです。
エフェ 4:6 すべてのものの父なる神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられます。


言わんとしていることは、エクレシアはひとつ、ということです。

エルサレムにあろうとも、サマリヤにあろうとも、エペソにあろうとも、エクレシアは、ひとつ、そのことを教えています。

現代的には、カトリック、オーソドックス、プロテスタント諸派、それぞれ可視的エクレシアとしては差異がありますが、不可視的エクレシアとしてはひとつ、ということです。


ここで洗礼と書かれているバプテスマは、公の信仰告白である「水のバプテスマ」であり、それはマタイ28:19にある「父、子、霊」の聖名(単数形)へのバプテスマです。

(なお、イエスの御名によるバプテスマも使徒行伝19章にあります。
そもそも、イエスの名の意味は「ヤハウェは救い」ですので、「父、子、霊」の聖名へのバプテスマと、同義と考えて差し支えないでしょう)

言い換えると、ペテロから授けられても、ヨハネからでも、パウロからでも、テモテからでも、誰からバプテスマを受けても、同じ意味と価値を持つ、ということです。


そして、ヘブル6:1の焦点は、キリスト者の知識と実際についてです。

@ヘブル6:1-2 聖書協会・共同訳 
ヘブ 6:1-2 ですから私たちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼(バプテスマ)についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の裁きといった教えを今さら学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を後にして、完成を目指して進もうではありませんか。

ここでは、キリストの教えの初歩として、種々のバプテスマを提示しています。

註解書などでは、この種々のバプテスマを、ユダヤ教の儀式のことだとしていたりします。
ですが、ここの文脈はキリストの初歩の教えについてなので、ユダヤ教のことではありません。


岩波訳では、キリストの初歩の教えであるヘブル6章を「洗礼」と訳し、ユダヤ教の儀式を指しているヘブル9章では「沐浴」と訳しています。 

@ヘブル6:1-2 岩波訳 
 1:それゆえキリスト(について)の初歩的なことばはあとに残して、完成へと進もう。次のような基礎を再び据える(ようなまね)はすまい。死んだ業からの回心や神に対する信仰、
2:もろもろの洗礼(について)の教えや按手、死者たちの甦りや永遠のさばき(についての教えの基礎)は…。

@ヘブル9:9-10
9:第一の幕屋は現在の時を示す象徴である。(象徴として)供え物や生け贄が献げられるのであって、これらは勤めを果たす人々を(その)内奥の意識まで(も)完成に導くことはできない。
10:食べ物とか飲み物とか、種々の沐浴についての、改革の時まで課せられている肉(体のため)の規定にすぎないのである。


ということで、ヘブル6:2にあるように、キリストの初歩の教えには、種々のバプテスマがあります。

それは、三つです。

人はそもそも、神の似姿となることを意図されて、神の形に造られました。
それで人は、三位一体のヤハウェにならい、霊・魂・体の存在として、三部構成の存在となっています。

そして、三部構成のそれぞれに、バプテスマがあります。

霊:キリストの御体に属するバプテスマ
魂:聖霊のバプテスマ
体:水のバプテスマ

この三つです。


「キリストの御体に属するバプテスマ」

@Ⅰコリント12:13【恊共訳】
1コリ 12:13 なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。

これは、イエス・キリストを信じたときに受けました。

イエス・キリストを信じたときに、人の「霊」に、イエス・キリスト御自身が入ってくださり、人の「霊」はイエス・キリストとひとつになりました。

それは「ひとつの体となるために」と書いてあります。

これは、キリストの御体である「エクレシア」とされることであり、イエス・キリストとひとつとなっています。

@Ⅰコリント12:3 【協共訳】
1コリ 12:3 そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。

福音が語られ、聖霊が働かれ、ローマ10:10が実践されるとき、聖霊はその人を、キリストの御体にバプテスマします。

@ローマ10:9-10 【協共訳】
ロマ 10:9 口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ロマ 10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。

それは、イエスの母マリヤが聖霊によって「御子」を受胎したことと同じような現象です。

イエス・キリストの福音を信じた人は、その時、聖霊によって、「アバ、父」と呼ぶ「御子の霊」を受け、人は新生し、キリスト者となります。

つまり、キリストの御体に属するバプテスマ=御子の霊を受ける=霊の救い、です。


「水のバプテスマ」

これは前述の「キリストの御体に属するバプテスマ」を、見える世界と見えない世界に対して、公に表明することです。

@使徒行伝2:38【恊共訳】
使徒 2:38 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。

メタノイア:思考の方向転換。日本語としては「思い改め」が適当。

@使徒行伝8:35-8【恊共訳】
使徒 8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた。
使徒 8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ここに水があります。洗礼(バプテスマ)を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」?
使徒 8:38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼(バプテスマ)を授けた。



「聖霊のバプテスマ」

これは人の「魂」に聖霊が入り、一体化されること。

聖霊は、イエス・キリストを証するための知恵と力をくださり、そのしるしとして「異言」という新しい言葉で祈る能力をくださる。
この「聖霊のバププテスマ」は、多くの場合は「水のバプテスマ」の後で祈り求めます。
「水のバプテスマ」の前に、「聖霊のバププテスマ」を受ける人もいます。


@使徒行伝2:1-4【恊共訳】
使徒 2:1 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、
使徒 2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。
使徒 2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
使徒 2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。

@使徒行伝8:14-17【恊共訳】
使徒 8:14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ遣わした。
使徒 8:15 二人は下って行って、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
使徒 8:16 人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。
使徒 8:17 二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った。


この三つを、三重のバプテスマ、と呼びます。

それではこの三つのバプテスマ、三重のバプテスマを、出エジプト記で対比させてみましょう。

出エジプト記は「救い」の雛形ですので、三重のバプテスマに対応しています。

@Ⅰコリント10:1-2 協共訳
1コリ 10:1 きょうだいたち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
1コリ 10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼(バプテスマ)を受け、

これは出エジプト記の出来事を指しており、雲の中と、海の中と、モーセにつくバプテスマを受けた、とされている。
この記述も、ギリシャ語では複数形で書かれています。

@御体に属するバプテスマ

創造主を認めない世界観、統治構造である「世」から召し出されて、「エクレシア/召衆」とされる。

雛型:出エジプト12:41
四百三十年が終わる、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの地を離れた。

雛型:出エジプト12:51
ちょうどこの日、主はイスラエルの人々を集団ごとにエジプトの地から導き出された。

12章の時点で、出エジプトをしています。

事実:ヨハネ伝20:22
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

*「聖霊を受けよ」と言って、息を吹きかけたのではない。
息を吹きかけたのは、創世記2:7の再現であり弟子たちの「霊」の中に、「御子の霊/キリストの霊」を吹き込み、新生させた。
そして新生した弟子たちに「聖霊を受けよ」と。


@水のバプテスマ

「エクレシア/召衆」とされたことが公にされる。

型:出エジプト14:21‐22
モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

型:ヨシュア2:9‐10
二人に言った。「主があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たちもあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたの前で葦の海の水を干上がらせたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたアモリ人の二人の王、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、私たちは聞いています。

これは、遊女ラハブの言葉です。
彼女は、イスラエルを救われた、ヤハウェによる救いを伝え聞いてきいています。ヤハウェによる救いが、世に対して公に示されています。

実際:使徒2:38
そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。

実際:使徒 8:12
しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼(バプテスマ)を受けた。


@聖霊のバプテスマ

神のことばが与えられる。

型:出エジプト 19:16‐19
三日後の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上に臨み、角笛の音が極めて力強く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。彼らは山の麓に立った。
シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
角笛の音がますます力強くなったとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴で答えられた。

実際:使徒2:1-3
五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

型:出エジプト記20:1
それから神は、これらすべての言葉を告げられた。

実際:使徒2:4
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。

型:出エジプト 32:27‐28
そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」レビ人はモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人が倒れた。

実際:使徒2:41
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

モーセ律法は、罪に定める働きであり、それによって死が定められました。

聖霊の降臨は、ヨハネ伝7章の「生ける水の川々」の現象であり、ペテロの腹から流れ出て、思い改めを起こさせ、救いを得させています。

3000人の死と、3000人の救い、それぞれの対応をしています。


終わりに。

僕は、これを伝えて、「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」を実践しています。

僕のような「ペンテコステ派」出身の方には、受け取りやすいのではないでしょうか。

もちろん、一般的な聖書理解ではありませんので、「キリスト教の会」の方には、おススメしません。

自己責任でどうぞ。


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