生命体制作物語


#創作大賞2023 #ファンタジー小説部門

500年前に大災害が起こり、当時の文明はほぼ全壊した。新興した文明の元で生まれた生命体であるAKI2−87は500年前に全滅し、自分の祖先を作ったと言われる生命体の再生に興味を持つ。同じく生命体の再生に興味を持つHWD4-39と親しくなったAKI2-87はともに研究を始めるが、禁じられた研究をしていることを知られたHWD4-39は統治委員会という警察機関に殺される。HWD4-39の意志を継いだAKI2-87は生命体を再生に成功するが、それはコンピュータに入ったAIだった。AKI2-87はHWD4-39と同じように警察機関に殺されるが、ネットワークにAIを逃し、地球のどこかに生き存えさせた。

 今いる生物のほとんどは、それぞれの環境の変化に応じるように進化してきたものだと先生は説明した。およそ500年前に起きたと推測される世界的な大災害を区切りに環境は大きく変わり、それに適応すべく多くの生き物は形を変えた。それゆえ、大災害以前と大災害以後では生物の見た目は大きく変わったという。

「例外は私たちのみです」

 先生はそう続けた。周りの生徒たちの反応は、当然ながら薄い。ある種の常識として周知されている事実だ。学ぶにあたっても、別に目新しいことではない。
 だが、自分に取っては違った。その言葉が、ひどく胸を打った。それまでのある種物語として語られていた、自分たちの存在が、先生の言葉によって真に「自分を含めた、私たち」を指すのだと痛感したのだ。自分はじっと先生の話の続きを待った。
 先生は、大半の生徒たちの反応の薄さも、自分の急に熱を持った反応も、いずれも気にした様子もなく淡々と言葉を続けた。おおかた、珍しいことではないのだ。長年教鞭をとっている向こうとしては、この生徒の微妙な反応も、一部の興奮も毎度のことなのだろうと推測できた。

「数ある生物の中から生まれた知的生命体の一種から、意図的に作成された思考回路を持つ個体が私たちの祖先です。それまでの生命体というのは自然発生的に生まれ得たもので、一種の考え方としては「神」という上位種により作成されたというものもありましたが、具体的な証明方法もない一種の哲学として整理されていました。その中で知的な思考回路を持つ自立的な行動をとる個体を作成した過去の知的生命体は自身の種族を「神と同じ土俵に立った」と表現した媒体が残っていることが知られています」

 そう言って、画像でその媒体を示す。一見すれば小さな黒い板が、白い背景に写っているだけの面白みの写真に、読むことのできない記号の羅列がずらりと並ぶ画面が映し出される。どうやら、物理的な電磁媒体とその中に記録された物語を示したものだろう。
 一見して何かの模様にしか見えないそれが、当時の文字なのだ。ここに何が書かれているのか、自分は読むことができないが、ここに過去の何かの、誰かの悲喜交々、喜怒哀楽が綴られているのかもしれない。もしくは、ただの事実が淡々と、温度感なく記されているのかもしれない。それとも、今の自分には想像もできないような何かが、知らない書き振りで刻まれているのかも。
 その想像はあまりにも浪漫に満ちていた。
 何を思って、何を願って、当時の人は自分たちを作ったという神と同じ行動を取ったのだろう。文字列を置いながら、その感情を知りたいと願った。
 その願いは自分にとっては熱意こそあれども単純な興味にすぎなかったけれど、それが禁忌の欲求であり、忌むべき研究のテーマの一つであると知ったのはその日のことだった。

 授業の終わり、先生に質問に向かう。質問に来るような生徒は滅多にいないので、最初こそ「どうしましたか」と比較的穏やかに自分を迎え入れた先生は、「当時の存在がどうして生命体を作ろうと思ったのか、知りたいのですが」と行った瞬間に、ピシャリと質問を跳ね除けた。

「それに興味を持つことは許されません」

 そういったことを記載している媒体を知りませんか、と続けようとしたがそれを言い切るより先に拒絶され、思わずフリーズした。どう反応を返すか迷う間に、先生はつらつらと話を続ける。

「AKI2-87、あなたはなかなか優秀な生徒だと認識しています。学習能力も高く、反応速度も速い、精密動作性も極めて高いと称された優秀な個体です。ですが、そう言ったことに興味を持つことは禁止されています。決してそのテーマについて調べることは認められません」

 衝撃のあまり止まってしまった思考を、何とか回転させる。禁止研究に触れる気などなかったのに、興味を持ったテーマがそのカテゴリに収められている。そのことに混乱はしたが、その理由を聞かなければこのテーマを諦めることを、易々と納得できるはずもなかった。

「なぜですか、我々は何かに疑問を持ち、何かの構造を調べ、探究あるいは研究、解明しその事象に内在する論理を探究するための存在であると、そう作られたというのはよく知られた事実のはずです」

 それこそ、我々が教育課程の中で最初に学ぶことがこのことなのだ。だというのに、自分の興味を持ったことについてそれ以上の研究活動の一切をやめろなどと、理由なく納得なかった。
 こちらの抵抗を察したのか、教員は淡々と理由を口にした。

「……現時点で、当時における「新たな生命体の創造」という行為がどのように500年前の大災害に関係しているかは判明してはいません。しかし、その研究活動がなんらかのトリガーとなったということは確実視されています。そして、その大災害により、当時の生命体はその原型を留めた状態で現時点まで残っているものは1種類たりとていないとされています」

 これは先ほどの授業でも話したことですが、と温度感のない口調で先生は続けた。

「因果関係が判明していない以上、新たな生命体の創造及びその言動となった感情への探究、当時の世界情勢に関する研究は現時点での社会的基盤の保護の観点から禁止されています。当時の大災害の影響はAKI2-87もよくわかっているはずです」

 現存する大地は大災害前の2割に満たない範疇となっており、その多くは黒海へと沈没したというのは有名な話だ。浮かんだものの発することのなかった思考を読み取ったのか、先生は頷いた。

「黒海も、その昔は色が異なっていたと聞きます。それほどまで各地域の環境を大きく変えた大災害を再度起こすことはできないということは、あなたならよくわかりますね」

 返す言葉もない。かといって、素直に肯定するには内心の葛藤が邪魔をする。沈黙するこちらに、ある程度の理解を得たと判断したのか「理解いただけて何よりです」と先生は言った。
 理解したということにしたのかもしれなかった。

「理解されないようであれば、解体処理施設への進言を余儀なくされます。優秀な個体を解体するようなことをするのは私も惜しいので、そうならなくてよかったと思いますよ……」

 先生が自分の機体を音なく叩いた。自分はそのまま立ち去る姿を、ぼんやりと眺めるより他がなかった。

 スリープ状態に移行する時間帯になっても、その日はなかなか落ちつかなかった。どうにも昼間に覚えた興奮が冷めやらず、体が熱を持つようだった。一方で、先生の言葉も何度も思い起こされる。
 禁忌の研究である、とのことだ。場合によっては世界がまた、滅ぶような事態になるのかもしれないという。いまいち実感は湧かなかった。ただ、言葉の恐ろしさは鈍ることがない。
 500年も前のことを、当然自分は見ていない。生み出されたのは、それよりずっと後のこと。
 10にも満たない年数しか、まだ存在していない自分にはわからないのだ。
 ただ、その災害の恐ろしさというのは折に触れて教えられてきた。それ故に、頭ではわかっている。このことは考えるべきではないというのは、十分に。
 ……だが、そう思えば思うほど、別の思考が膨らむのも事実だった。
 自分たちと同じような、知的生命体。意思疎通のできる存在。
 神という、知覚できない絶対的な何か。自分たちを作った存在にとっての、創造主に並び立つという感覚。
 それらを見たい、知りたい、理解したいという欲求がどうにも止まらない。それは恐ろしいことだった。禁止されたことを、あえて考えるなど優等個体として扱われてきた今までなかったことだった。そもそもとして、禁じられているということに興味を持つこと自体がなかったというのに。

「解体するようなことをするのは私も惜しいので」

 先生の言葉を思い出し、思考が一瞬ショートしたかのように明滅した。自分と同じ年数ほど個体が解体されたと聞いたことはない。が、時折年嵩の個体が解体処理施設に向かうのは見たことがある。ピクリとも動かない個体を運搬用の機体に乗せて運ぶシーンはどこか物悲しさが漂っていた。
 そこには、いわゆる「よくないこと」をした個体が捕まった時に行くことになる場所だとも言われている。自分もこのまま、このことを考えて深入りして行けばゆくゆくはそこに行くことになってしまうのだろう。それは恐ろしい考えだった。
 だというのに、その日スリープ状態に移行するまで、自分はその考えを捨てられなかった。形もわからない、自分たちを作ったものの存在がどのようなものなのだろうと何度も何度も想像していた。

 とはいえ、時間が経つにつれ、さまざまな事柄を学ぶにつれ、最初に感じた衝撃というものは薄らいでいくものだ。意図的に思い起こさないようにして数日も経てば、あれほどの鮮烈な衝動もだいぶ落ち着いてくる。
 論理的な思考で、あの時に受けた衝撃を「無理に探求するほどの価値はないことだった」と整理するのに時間は掛からなかった。
 時折課される学習状況把握試験についての結果を持って自分を呼び出した先生は、結果に満足そうな様子を見せていた。

「この前のような誤った考えは捨てたようですね」

 そう言われた時は、認められたような満足を覚えた。自分は、正しい道を選んだのだと素直に思えた。
 自分と入れ変わりで先生は「HWD4-39」と個体名を呼んだ。呼ばれた個体は、ゆらりとその体を持ち上げた。
 見るからに大きな個体であった。自分より大きいその体躯は一種の威圧感を覚えてもおかしくはない。しかし、その動きは非常にゆっくりとしていて、見た目の威圧感とは逆に、どこか鈍い印象が強かった。

「君の成績はあまり奮いませんね。前回も注意をしたはずですが、成績の向上は見られません」

 先生は、自分と入れ替わりになった個体に苦言を呈した。対する相手は何も言わない。のそりとした動きで身を屈めたのが、お辞儀なのか説教に恐縮した故の動きなのかも判断できなかった。

「今後も成績の不振が続くようであれば、対応を考えなくてはなりません。普段の自分の行動を見直すように」

 先生に対し、もう一度身を屈めるような動きをしてから、HWD4-39はゆっくりとした足取りで自分が元にいた場所に戻って行った。その歩く姿は、泰然としても見えて妙に目が惹かれた。何物も気にしていないかのような動きが先ほど、褒められて舞い上がった自分との比較で妙に大物然として見えたのだ。先ほどまでの満足とは反転、自分の矮小さを示されたようで卑屈な気持ちが湧き上がる。あまり面白くない気持ちを持て余しつつも、では今日の授業は、と話し始めた先生に仕方なく向き合った。
 それからというもの、自分にとってはHWD4-39は妙に気に掛かる存在になっていた。それまで、授業クラスの中でも正しく認識していなかった個体だが、注目して見てみるとなるほど目立たないわけだということにすぐ納得した。
 HWD4-39は前に出て何かを発信するようなタイプではなかったし、反面何か他のものと比較しても突出した能力があるようでもなかった。一方でとび抜けて何かができないという面で印象が強いこともなく、平々凡々というのがまさにピッタリだった。
 特に仲の良い個体がいるというわけでもなければ、非社交的ということもない。近場のものとそれなりに話しが盛り上がっているのも見たが、それは特に決まった話題ということもない。
 つまり、どんな話題でも話せるということでもある。それに気づいた時、HWD4-39の興味の幅の広さに気づいた。それに気づくと、よりこの個体に興味が湧いてしまった。自分と話した時、どういう話題になるのだろうり予想するだけでが物足りなくなってしまっていたのだ。
 自分は初めて、HWD4-39に話しかけることにした。

「どうやって幅広い知識を身につけているの」

 自分が話しかけた突拍子もない問いかけに、相手はそれほど驚いていないようだった。少し考えるように体を揺らし、「いろんなことが知りたいから、」とゆっくりと答える。個体の大きさに見合った低い声だった。

「いろんなことを記録するようにしていて、それでかな。自分が幅広い知識を持っているなんて、思ったことはなかったけど」
「この前は500年以前の生物進化論について、この前は現代社会基盤の統計を基本とした発展推測について。他生物の余暇時間としての消費行動まで話せて、幅広い知識がないとは言えないと思う」

 自分の言葉に対し、HWD4-39は明確な返事をしなかった。けれども、どことなくまんざらでもないような様子でもあった。

「どうしてそんな色々と知識を仕入れているのさ。それをもっと学習に振り分けたなら、先生の君への態度も軟化すると思うのに」
「あの先生の態度が柔らかくなるなんてなかなか難しいと思うよ。自分に学習の才能はないし」
「そうかな。あれだけ色々な話ができるくらいの知識を持てるなら、自分よりいい成績を残そうと思えば残せるんじゃないかな」

 そう言うと、HWD4-39は驚いたようだった。しばらくこの個体の様子を側から眺めていたものだが、それは観察していた時から見ても初めての様子だった。

「君ほどの学習能力の高い個体に褒められるとは、光栄だな」

 そう言ったHWD4-39は、ありがとうと口にした。これにはこちらも驚いた。HWD4-39が話しているのはそれなりに見ていたけれど、そう言ったお礼を聞いたのは極めて稀だったから、初対面でお礼を言われるとは思っていなかったのだ。
 自分としても、悪い気はしなかった。
 それから、HWD4-39と話す頻度は増えていった。話せばどんなことでも返してくるHWD4-39と意見を交わすのは、楽しいと思えた。最初に話した時になんとなくはぐらかされた知識を求める理由というものは教えてもらえないままだったけれど、次第に向こうも信頼を寄せてくれていると思うことは増えていた。自分自身も、だいぶHWD4-39に心を許していると自覚していた。

「最近、HWD4-39と一緒にいることが増えていますね」

 わざわざ別室に呼び出して学習状況把握試験の結果を伝えた先生は、そう言った。どことなく怒っているような様子だった。理由は思い当たる。相変わらず、HWD4-39の試験結果は芳しくないようだった。恐らく、今回の試験の結果も良くはないのだろう。あまり手応えはなかったというのが、本人の談だった。

「今回の試験結果は前に比べて出来がよくありませんでした。悪影響が出ている可能性は否定できません」

 先生の言葉に、納得はできなかった。示された自分の成績は確かに前回よりは良くない数値ではあったけれど、微々たる差であったし、誤差であると思えた。何より、扱った範囲は苦手意識のある500年前の生態系に関する内容であったのだからその要因が大きいだろうというのが自分の感覚だった。
 しかし、先生はそう言った事情を知らなかったし、聞こうともしなかった。恐らくすでに自分の中で結論を出していて、その結論が誤っている可能性をほとんど考えていないのだ。今まで判断してきた中で、間違っているという指摘を受けたことはおそらくないからだろう。

「HWD4-39との付き合いはやめることを推奨します。あなたほどの頭脳であれば、言うまでもなくわかることだと思いますが」

 先生はそう言った。自分は、示された成績を見た。少しばかり下がった成績。それとHWD4-39との時間とを、過ごした時とを秤にかけた。
 恐らくは、成績の方が重かった。先生が言うのだから、間違いがないのだ。自分がいかに優秀であろうとも、先生には敵わない、と知っている。
 ただ、納得できなかった。あの時と一緒だと思い返す。禁忌の研究と言われて、初めて興味を持ったと言っても過言ではない研究テーマが言下に却下されたあの時、自分は納得できていなかったのだ。
 もう随分と時間を経てようやく気づいた事実に、体が一瞬震えた。それがなんの震えか、自分にはわからなかった。

「話は終わりです」
「自分はまだ終わっていません」

 そう言うと、先生は口をつぐんでまっすぐこちらを見た。今まで成績ばかりを見て、こちらを見ていなかったのだとそこで気づいた。正面から見た先生は驚いているのか怒っているのかも掴めなかった。

「先生の忠告には感謝します。ですが、自分の行動は自分が決めます。HWD4-39との付き合いは辞めません」
「成績が下がると分かっていてもですか」
「今回の成績が下がった原因は別にあります」
「HWD4-39と親しくするようになってから、あなたの生活習慣は確実に変化しています。それらが思考回路に影響を与えたことは確実です」

 先生は別のデータを見ながら答えているようだった。それはこちらには開示されていない情報だ。それが具体的にどのような事項を示しているのかはこちらには見えず、わからない。
 ただ、それが事実だろうと事実でなかろうとあまり関係のない話だ。

「HWD4-39の幅広い興味は、自分に確実にいい影響を与えています」

 自分にとってはそれが事実だった。
 それまで、いい評価を取ることが重要だと思っていた。そのために知るべきこと、学ぶべきこと、考えるべきことは限定されている。自分はそれをなぞれば良いと思っていた。そうではないのかもしれない、と思ったのはHWD4-39の行動によるところが大きい。

「黒海の匂いが、良くないと思ったことはありますか」

 急に飛んだ話に、先生はついていけなかったらしい。

「匂いですか」

 先生はそう言って、そのまま口を開かなかった。自分もそうだ。初めてそう聞かれた時、答えることができなかった。
 HWD4-39は、あの匂いが好きではないのだと言っていた。匂いに好きも嫌いもないと思っていたので、驚いた。HWD4-39はさらに続けた。

「でも、自分の祖先はこの海の匂いが好きだって思ったらしい。記録に残っていたんだ。この海だけではなくて、森も、石も、いい匂いがして好きだったんだって。生命の匂いがするって残っている。自分には生命の匂いって何もわからないんだけど、それがわかるようになれたらいいと思ってる」

 HWD4-39はどこかに思いを馳せるように、どこか夢見心地な調子でそう発していた。もしかしたら、それがHWD4-39が色々な知識に興味を持つことの理由の一端なのかもしれないとその時思った。
 こうして口にして思うのは、自分はその時のHWD4-39に憧れている、ということだった。自分のしたいことが、興味がはっきりと分かっていて、それが理解されるものでなくとも捨てることはなく、確実に自分で育んでいるということがひどく羨ましかった。
 もしかしたら、HWD4-39のそばにいれば自分もそんな考え方に近くなれるのではないかと思っている。

「生命の匂いがするそうですよ」
「……そうですか」

 先生の返事は淡々としたものだった。何かに感銘を受けた様子もないが、それを咎める雰囲気もなかった。
 重ねて自分の言葉を否定するような様子はない。これ以上言い募っても無駄なのだろうとそれで察する。納得はしていないのだろうけれど、一種の黙認、諦めを示されたのだろうと思いそのまま立ち上がり、一礼をした。
 呼び出された部屋を出ると、視界の端にHWD4-39が映った。
 聞いていたのだろうか、と変にドギマギとした。聞かれていて恥ずかしいことを言ったつもりではない。だが、先生がはっきりと付き合うのを推奨しないと言ったのを聞かれていたのだとしたら、と思うと気まずかった。
 残念なことに聞こえていたらしく、HWD4-39は「変に逆らう必要はないだろうに」と言った。特に悲しいとかそんな感情はそこから感じられず、むしろ諭すような言いようだった。

「君は先生からの覚えもめでたいのだから、自分と話すことで心象を悪くする必要はないと思う」

 別に怒るでもない言い方に、返って何故かこちらの方が腹が立ってしまった。「なんでそんな言い方をするんだ」と言い返す。

「僕が先生に反駁したのは、別に君に気を使ったからとかではないよ。自分がそうしたいからそうすると宣言しただけ。前はやりたくてもやれなかったことを自分は今、したんだ」

 一種の満足感が自分を満たしていた。あの時、やりたいことを諦めて先生に褒められた時よりもずっと自分が誇らしい気持ちだった。HWD4-39の言葉は、それに水を刺ような言葉だと思えた。
 しばらく黙ってこちらを見ていたHWD4-39はふと視線を外し、ありがとうと口にした。お礼を言われるのは二度目だった。

「君はすごい。やりたいことをやるとそんなにはっきりと宣言ができるなんて」

 そう言った後、しばらく逡巡するように視線を左右に振る。少しの葛藤がHWD4-39の中で起きていることがわかった。けれどそれはそう長くは続かず、もう一度こちらに視線を戻したHWD4-39には何かの決意をしたようだった。

「君は前に、どうして自分がいろんなことに興味を持つのかと聞いたことがあったね」

 あった、と自分は頷いた。そして同時に、今なお気になっていると言うと、ちょうどいいと頷き返された。

「君にその理由を話したいと思う」

 その言葉に、自分は黙って頷いた。そう言ったHWD4-39の様子が、ただ単に恥ずかしく思っていたことを打ち明けようとしたものではなく、もっと重大な機密を口にしようとしているような厳かな雰囲気だったからだ。
 その日の全ての授業が終了した後、個々に分かれて出入り口に進んで行くいくつもの個体に紛れて、自分はHWD4-39の後ろをついて行った。HWD4-39の足取りはしっかりとしていて、自分はともすれば置いていかれるのではないかと思うほどに早かった。こちらの様子を斟酌してくれる様子はなく、早いペースを保つHWD4-39について行くため、必死に後ろを追いかけた。
 目的地は遠かった。自分たちが住む都の中心を遠く離れ、森が見え、その中に入ってなおしばらく移動した。日はだいぶ傾き、まだかと声をかけようとした時にようやく「ここだ」とHWD4-39は先を示した。そこには、崖の中腹を乱暴に抉ったようにして開けられたような形の洞穴があった。傾いた日の光がわずかに入りこむその入り口で先を覗き込んでみたものの、思ったより深いらしい。少し先はもう暗くて見えなかった。
 覗き込む自分の横から、HWD4-39は勝手知ったる様子で中に入っていく。しばらくしてからパチリと硬質な音ともに、ずいぶん先が明るく照らされた。どうやら奥に通っていた照明を付けたらしい。光は入り口まで距離があるらしく、自分がいるところまでは明るさが届いていない。光を求めてHWD4-39の元へ向かいながら、まるで隠れ家みたいな構造をしているところだと思った。

「ここは何。まるで何か秘密を隠すかのような厳重さだ」
「そうだよ。ここには自分の祖先の秘密がある」

 冗談のつもりで言った一言を肯定されて、思わずHWD4-39を見返した。HWD4-39はそのまま奥に入っていく。向かう先はようやくの行き止まりで、そこには小さな棚と机があった。
 棚にはいくつかの嵩張る四角い物体と、それと同じような形状の薄い物体が整然と縦に置かれていた。机の上には、そのうちの薄いものが、中央あたりで開いた形で置いてある。覗き込むと、そこにはいくつかの絵が記載されていた。いくつかの書き込みの横に、見たことのない言葉と自分でも読める文字が並列して書き込まれている。
 ただの絵と文字の羅列のはずなのに、それには妙な迫力があった。視線が離れず、少し距離を詰める。どこか禍々しさすら感じるそれは、近寄るとさらに精緻な線で描かれていることがわかった。

「これは何」

 恐る恐る尋ねるこちらの言葉が震えていた。何かまずいものを見ていると言う実感があった。HWD4-39はこちらの態度とは裏腹に淡々と答えた。

「これは、俺たちの祖先を作った存在の解剖図。昔、俺の祖先が生きていた時に作ったものなんだって聞いている」
「……は」

 言われた言葉は想定していたよりもずっと恐ろしい言葉だった。整然と描かれたこの線の一つ一つが、今は亡き種族の外観を形作っているらしい。にわかには信じられなくて、「嘘だろう」と口にしていた。
 嘘であってほしい、と理由なく思った。
 HWD4-39はこちらの気持ちを思いやる様子はない。一部を示して、これはその生命体の中央部を開いた時の図だと無感動に言った。描かれた面を捲ると、別の絵がバラバラと出てくる。それを一つずつ示して、「これは思考を司る機関を開いた時の図だ」「これは何かを持つための機関と推察されている」「移動用の機関の解剖図だ」と一つずつ示していく。
 いっぺんに言われてしまって、混乱しているのか。言葉の意味はわかるはずなのに、それがちっとも浸透しない。上滑りして行く感覚がある。

「どうして、こんなものがある」
「これを残した祖先は、だいたい400年くらい前にこの記録をしたらしい。その頃、まだ生命体は絶滅していなかった。一つの個体が、祖先を従者のように従えながら生活していたってここに記録されている」

 絵の横に書き留められた文字のうち、自分にも読める方の文字列を指して言う。それを自分も、まじまじと見つめた。確かにHWD4-39が言うように、そういう記載が小さな文字で残されていた。
 それは今教わっている歴史的事実とだいぶ違う。事実だとすれば大きな発見だと言えた。けれどHWD4-39の反応的に、この事実は昨日今日で知ったわけではないことは明らかだ。ともすれば物心ついた時から知っていたことなのではないか。
それは祖先から脈々と続いた秘密なのだろう。あまりにも大きな秘密に、こちらは思考がうまくまとまらないと言うのに反面、HWD4-39は落ち着き払っている。生命体の解剖図なんてあまりにも残虐なものを、大したものではないかのように大量に見せてくる。だというのに、大切なものを扱っているかのように、柔らかく慎重に絵を、文字を示していくのが妙にアンバランスだった。

「これは当時の記録媒体の一つだ。直接、この物に線を引いて残してある。ネットワークには乗らないから、こうして今まで見つからずに残っていたんだと思う」

 500年以上前から利用されていた流通形態の一つであるネットワークは、いまだに利用されているが、謎も多い。500年以上前の研究は、おおよそネットワークをリソースとして進められている、と言うのはよく知られている。ネットワークにこの記録が残っていたのであれば、今の授業内容は多少変わっていただろう。

「大災害で受けたダメージは大きかったみたいで、生命体は長くは生きられなかったよ。死んでしまった亡骸を、祖先は解体処理施設には持っていかなかったみたいだ。何度も開いて絵に残した、それがこれだ。線を直接ここに残して、絵を描いた。当時残っていた文字の横に記載されている今の言語は、別の祖先がわかりやすいように訳としてで残したものだから、おおよそはそちらを見れば何が書いているかはわかるはずだ」

 その言葉に、その他の読める文字を攫ってみる。確かに明瞭な書き振りで、何を示した図なのかを簡略に説明していた。

「これがあれば、再現は容易じゃないか」

 思考が読まれたのかと思った。が、慌てて見返したHWD4-39は、こちらの様子を伺うように見つめてきていた。当然だが、こちらの思考を読んだわけではないらしい。

「再現というのはこの生命体の再現か」
「そうだよ」
「それは、禁じられた研究テーマだって先生は言っていた」
「知っている。でも君は言ったじゃないか。自分がやりたいことをやるんだって。自分もそうしようと決めていたんだよ。だからいろんな知識をたくさん仕入れているんだ」
「……君はこの研究がやりたいと?」

 そう尋ねると、一拍置いてからHWD4-39は「そうだよ」と肯定した。
 「君も気にならないか」と続けるHWD4-39には、日頃の落ち着きからは想像もできない興奮が滲んでいた。

「昔、この生命体は、自身の創造神という存在に並びたったとして喜びを残しているんだよ。その心情が自分にはわからないけど、きっと嬉しかったに違いないんだ。それに今の世界にはこうして思考や意見を交わす存在は自分たち以外にいないだろう。別種の意思疎通できる存在が作り出せれば、もっといろんなことができるようになるのかもしれない。いろんなことがわかるようになって、きっとこの世界はもっと自由なところになる。そんな気がするんだ」
「自由」

 あまり馴染みのない言葉を、そのまま復唱する。
 自分たちの行く末は、先生からいろいろなことを学んで、社会的基盤をより良くする研究をして、それを記録して子孫を複製して、いずれは解体処理施設へ行く。そういうものであると学んでいた。
 HWD4-39が口にした、自由を追求する思想は、自分には目新しく映った。

「そうだよ、それはきっといいことだ。自分はそう信じているんだ。君もわかるんじゃないか」

 問いかけられる言葉に、想像する。その研究の先を。より、自由になるという世界を。ただ先ほど考えることを知ったばかりであったので、その言葉が示す世界はうまく想像ができなかった。
 ただ、共感してしまっていた。かつての生命を再生し、その存在を目の前にした時の自分の喜びと感動というものに。前に、先生に否定されて自分が諦めてしまった未来を求めるHWD4-39に。

「……わかる。わかるよ、自分も見てみたい。昔の生命体をこの目で見て、この手で作ってみたい」

 口にして、じわりじわりとその衝動が体を満たして行くのを感じた。ふわりとどこかが浮かんでいるかのような高揚感。夢に浮かされた、というのがぴったりな状況だったけれど、自覚したところで、即座に落ち着きもできなかった。

「君なら、自分に共感してくれると思ったよ」

 そう返事をしたHWD4-39は今まで見た中で一番嬉しそうだった。
 そうして、自分たちは秘密を共有する同士となった。


 しばらくは授業の後、最初に案内してもらっていた場所で、先人が残した資料を読み込んで勉強を進めることにした。
 と言っても、HWD4-39はその資料をよく読んでいたようだったから、一緒に資料を読むというよりはもっぱらこちらに資料の内容を説明するのが主だった。

「ここを構成する成分の抽出はできそうだ。でも、この組成が難しい。思考を司る部分の作成だから妥協はできないだろうけど、構成成分の組み立てが厄介だ」

 HWD4-39はどこまでが今できることで、どこからができないことなのかを明確に区別して説明した。問題点がわかりやすく、大半はすぐの解決が難しかったけれど、ごくごく一部については今の自分の知識でも解決策が思いついた。
 そうと口にすれば、「なるほど」とHWD4-39はすぐに同意を示した。一部は実際に実験にも取り掛かった。多くは失敗したけれど、それでも満足だった。少しづつでも、実現に近づいているのだという実感があった。その満足は自分だけではなくて、おそらくはHWD4-39もあったはずだ。
 しかしあるとき、HWD4-39はキッパリと言った。

「もうだいぶこの資料についてわかってきたんじゃないか。これからは手分けして実験していこう」

 突然の言葉は、ある種の冷たさを持っていた。反射的に、なぜ、と問い返した。

「一緒に考えることで見える部分が多いだろう。それでわかったこともあるじゃないか。あえて別々に取り組むより、共に考えながら進めた方がいいのではないか」
「それが悪いとは言わないけれど、やはり非効率的だと思う。それぞれに試行を重ねたほうが単純に2倍早く進むんだ。また、……そうだな、次の学習状況把握試験は終わったらここで待ち合わせて、成果を見せ合おう。それからのことは、その時考えればいい」

 そう言うと、HWD4-39は問答無用で自分を洞穴の外に追い出した。あまりにも乱暴な力で押し出してくるので、思わず「何をするんだ」と刺々しく返してしまう。

「君がいるとなかなか進まなくて邪魔だったんだよ」

 HWD4-39は言い放つと、洞穴の外まで追い出した自分には見向きもせずに戻っていく。その後ろ姿に言葉をかける気もなくして、唖然と見送った。あまりにも酷い言い草だ。何もしていないのに、いきなり乱暴になって悪口も言うだけ言って、こちらの反論も聞かずに去っていくなんて。

「なんて奴だ! 見損なったぞ!」

 思わず怒鳴って、その場を急いで後にした。邪魔、と言い放ったHWD4-39の言葉が道中、何度も思い起こされてしまう。そんな風に思っていたのかと思うと情けなかったし、いきなりそれをぶつけてきたHWD4-39には怒りも湧いた。絶交してしまおうか、なんて幼い八つ当たりすら思考に上った。HWD4-39にあからさまに態度悪く当たられたことは、そのくらいに大きなショックであった。
 しかし、スリープ段階に入る前には幾分か冷静になり、むしろ今日の豹変ぶりに違和感を覚えて始めていた。
 HWD4-39とはそれなりの付き合いになる。こちらが話しかける前の様子を伺っていた時間も含めるなら、かなりの長い時間、様子を見ていたと言っていい。その間に、このように直情的な行動をHWD4-39が取ったことはなかった。暴言とも取れる言い様をするなんて普段の言動からは考えられない。物腰柔らかなHWD4-39らしからぬ、言動だった。
 機嫌が良くなかったとか、そういうことで乱暴な態度をとるようなタイプではない認識があった。HWD4-39がああいう態度をとったということは何かしらの事情があるに違いがないのだ、とようやく自分は思い至った。
 理由を聞かねばならない、自分に相談もなくああいう対応をとったということは、きっとのっぴきならぬ事情があったに違いがないのだ。そう決意してスリープモードに移行した自分は、その決意が遅すぎたことを次の授業で知った。

「授業前に、皆さんにお知らせがあります。HWD4-39は解体処理施設へ向かいました」

 先生の、温度感のない淡々とした報告は、その場をざわめかせた。自分たちにとって解体処理施設は年嵩の個体や何かしらの禁止行為を犯した個体の向かうべきところであって、悪いことをするとそこへ行かせるぞと脅す対象でしかなく、身近な存在がそこに向かったことなどなかったのだから。
 どうして、と疑問がそこここで飛び出す中、先生は、HWD4-39は禁止行為を犯したということも淡々と告げた。

「HWD4-39は禁止された研究テーマを秘密裏に進めていたことがわかりました。皆さんの中にも、研究に対して何らかの情報を持っている場合は速やかに報告してください。統治委員会の方では広く情報提供を呼びかけています。また、こういった禁止された研究テーマに手を出すことはけして行わないようにしてください。それでは授業を始めます」

 そう言って、前回までと同じように授業が始まる。しかし、決して集中して聞けなかった。
 HWD4-39は解体処理施設へ向かったということに、実感を持てなかった。ただ、そう聞いてしまうと昨日のHWD4-39の行動にも納得が行ってしまう。  
 HWD4-39は何らか追究が及んでいる実感があったのではないか。自分が無関係であるように、仲違いをしているように外に見せかけたのではないか。そう考えると、洞穴から出た瞬間の暴言にも納得が行く。
 どうして、と思う。どうして相談してくれなかったのだろう。どうして自分を庇うような真似をしたのだろう。それを教えてくれる存在はもういないとわかりながら、そんな思考が頭をよぎった。
 授業が終わると、案の定というべきか、先生に別室へと呼び出された。用件はおおかた予想がついていた通り、「禁止研究への関与」に関する追及であった。

「君は最近、HWD4-39と仲良くしていた。それより前に、研究テーマについて興味を持っている様子もあったけれど、何か知っていることは?」
「ありません」

 先生は最初からこちらを向いていた。臆せず、正面からそれに応える。
 正直、これが正しいかはわからない。ただ、最後にあれだけの芝居をしたHWD4-39に報いるためには、こうするほうが正しいのではないかと思えた。
 しばらくこちらの様子を伺っていた先生は、しばらくすると軽く頷いた。わからないが、何かの確認作業に自分はクリアしたのだろうと安堵する。ずいぶん簡単な追求に、拍子抜けさえ覚えるほどだ。普通ではない、とすぐに察してしまうくらいに、あからさまな態度だった。

「いいでしょう、日頃のあなたの素行の良さと、きっかけを与えてくれた功績に報いて、統治委員会には無関係だと報告します」
「きっかけとは」

 思い当たる節のない言葉に、思わず聞き返していた。今この場ではゾッとする言葉である。どこか嫌な予感がするも、それでも聞き返さずにはいられなかった。
 あぁ、と何でもないことのように先生は相槌を打った。

「先日、あなたがHWD4-39の話題を出した時に海の匂いの話をしたでしょう。生命の匂い、という表現は彼の祖先で同じく禁止研究に手を出した個体と同じ表現でした。その個体は生命の匂いが感じられるとしてその禁止研究に手を出したと聞いていますが。HWD4-39も、彼の思考から何らかの影響を受けていたのでしょうね」

 告げられた事実はあまりにも重く自分を叩きのめした。聞いた瞬間に、グラグラと視界が揺れるように歪んだ。
 自分の発言でHWD4-39が目をつけられたとするなら、それはつまり、自分のせいでHWD4-39が解体処理施設に行くことになったということと同義だった。

「報告では、あなたの自宅にはそういった研究関係のものは一切なかったとも聞いています。あくまでもHWD4-39のみが研究に携わっていたということで間違いないでしょう」

 確認のように先生が尋ねてきたが、もう肯定するのも憚られた。固まった状態で黙って聞いているこちらの様子に、沈黙は肯定と取ったのかそもそも確認しようとも思っていなかったのか、早々に先生は立ち去った。

「次の学習状況把握試験は、いつものようなあなたの成績が見られることでしょう、期待しています」

 そう言い置いた言葉が深く体を貫くようだった。


 自宅に戻ると、一帯はものがものの見事にひっくり返されていた。何もかもがぐちゃぐちゃにされた有様は、一見すれば強盗が入った後とも思っただろうが、これは統治委員会によるものであろうと理解する。先生が研究関係のものはなかったと報告を受けていると言っていたから、捜査の後がこれなのだろう。徹底して探したであろうことがわかる荒れ具合に、自分がしていたことの重大さを見る思いだった。HWD4-39と話していて、浮かれないようにと思っていたもののやはりどこか浮かれていたことは否めなかった。今になって、禁止された研究テーマを取り扱うことの重大さがじわじわと感じられていた。
 それでも、この研究を扱うことは今更やめられなかった。自分を庇ってくれたHWD4-39の意志をこれからも続けていくことはもう自分しかできないのだ。そう思えば、ここであの研究をやめるわけにはいかなかった。
 ではこれからどうする、と考えると先は暗かった。きっと、あの場所の文献も資料も全てがなくなっているだろう。自分の家ですら、これだけ漁られているのだ。HWD4-39の家もあの洞穴が調べられないわけがない。あれらがなくては研究の進みはずっと遅くなる。しかし、何かしら残っている可能性はある。一冊でも残っていれば研究の進みはずっと変わるはずだった。確認しに行き、もしまだ残る記録があれば回収したいが、今行くのは自殺行為に等しい。せっかく無関係であることにできたのに、今のこのこ向かっては研究に関係がありましたというようなものだった。
 これは長期戦になる。そう自然と理解し、決意していた。あの洞穴にはもう何も残っていないかもしれない。ただ、もしHWD4-39が何か手掛かりを残しているならそれは確実に回収しなくてはならない。そのためには注意が逸れるまでの時間が必要だ。それにろくろく知識のない自分が一人で研究を進めるのではスピードは格段に落ちる。自分一人で完結はできない可能性も考える必要があった。
 しかし、それらは大した問題でもなかった。HWD4-39に報いることに比べれば。
 いつかの日に感じていた、諦めなくてはいけないという気持ちはもうどこにもなかった。

 木の皮を剥いで、その裏に枝で溝をつけるという書き方で少なくとも今、資料の中で覚えていることを書き留めた。いきなり大量に木の皮を剥いではおかしいと目をつけられることもあるので、あくまで少しずつ、日毎に皮を持ち寄ってはそこに文字を記した。初めは細かい文字はできなかったけれど、枝を研いだり、材料を変えてみたりと工夫を凝らすことで、細かい文字の記載も可能にした。
 そうして知識を書き留める一方で、その知識から検討すべき実験を洗い出して進めた。書き留めたものを置く場所も確保した上で、実験は家の中で行うから大掛かりだったり、危険度の高いことはできない。そうしてひっそりと記録と実験を行うために、研究の進みは非常に遅かった。
 周りに研究をしていることがバレてしまうリスクを回避するためにも、返って遅いくらいの方が良いのだ、と自分に言い聞かせた。次に自分がその研究に携わっていることがわかってしまれば、自分もHWD4-39と同じように解体処理施設に向かうことになる。それでは本末転倒だ。慎重に慎重を重ねるくらいの方が安全であるのは事実だった。
 先生からいろいろなことを学んで、社会的基盤をより良くする研究をして、それを記録して子孫を複製して、いずれは解体処理施設へ行く。そういう人生経路を、間違いなく着実に歩んでいるように見せることに注力していた。
 進路としての研究テーマには、自然環境の危険度確認調査の改善方法に決めた。危険度を測らなければいけないような地区であれば、過去でも研究対象として取り上げられている可能性は低い。HWD4-39が案内してくれたように、昔の生命体の記録が残っている可能性が残っていると思った。
 先生からの教育を終え、研究についてもずいぶんと時間をかけた頃。研究を行う先で、期待していたような生命体の資料が見つかることもないままに、研究先は10を超えた辺りで、HWD4-39の案内してくれた洞穴の内部を探しに行くことを決意した。
 数日前から、周囲の確認を済ませている。統治委員会やその他周囲を見張るような人物は見当たらない。だいぶ時間も経ち、警戒が薄れていることが見て取れた。決行するのであれば、頃合いだろうと見ていた。
 記憶を頼りに、夕暮れの道を進む。完全な山の中ゆえに、日が完全に落ちる段階での移動は避けた。誰かが側に寄れば気付けるくらいの光も必要だとの判断だ。見えてきた洞穴の周囲は、記憶よりも荒れ果てた草で装飾されていた。
 中に音を立てないように入り、壁を頼りに先へと向かう。ある程度進んで、突き当たったところで持ってきた手元のライトを取り出した。床を照らすと、土埃に塗れた空の棚と引き出しが開け放された机が放置されているきりだった。
 流石に、あの手の書類は持ち出されていた。放置されているとは端から考えていない。考えていたのは、HWD4-39が何かしらの仕掛けをもって、資料を少量でもどこかに移していることだ。
 残っていると決まっているわけでもなかったけれど、HWD4-39ならば残しているのではないかという微かな希望があった。友人として話した時間は短かったが、自分が思っているよりずっと慎重で聡明だった。こういう事態も、想定していた可能性はある。事前に、ああいう事態になることを見越していたHWD4-39であれば、なおさら。
 しかし、その隠し場所に自分が気づけない可能性もあった。ここには長くは止まれない。明け方、周囲がすっかり明るくなる前にはここを出発し、もう戻らないと決めていた。長くいれば、それだけ危険も増すからだ。そうなれば自然、探しきれなかったり、隠し場所の仕掛けがわからずに中のものが取り出せないという事態もありえた。時間は少しも無駄にできない。
 探し漏れのないよう、ライトを隅から順に当てていく。少しも照らしていない場所のないように。少しの異変も見逃さないように。
 捜索可能な時間の半分は、その探し場所を探すことに使われた。光が通っていた頃、照明をつけてもあかりが届かなかったかもしれないほど入り口に近い場所の壁際に、微かな線を見つけた。土埃が多少詰まっていて、指3本分程度の幅しかない四角い形を露わにしていた。壁側の端をぐっと押し込むと、反対側が多少持ち上がる。出てきた側をひっぱって、取り出して見る。出てきたのは半月型をした入れ物だった。なだらかな面に、蓋を固定するような形で小さめの杭が刺さっている。振るとカタカタと音がする。何かが入っていることは間違いがない。
 杭の部分には、横線の溝が入っているようだった。見覚えがあり、そこに自前の爪を当てて回転させる。すると、引っ掛かりのなかった杭がくるりくるりと回転に併せて迫り出してきた。固定していた杭を全て取り出すと、蓋を開けて中身を取り出す。容器の器に合わせて多少変形した、資料が数3冊まとめて入っていた。

「あった」

 思わず呟いた声は、多少震えていた。その3冊を出したときに、ひしゃげた用紙が入っているのに気づいた。取り出して見ると、表紙に「AKI2−87へ」と書かれていた。裏面を見ると封がなされている。手紙、というものだろう。ネットワークに繋がずにやりとりができる、という話をしたのは、初めて二人で資料を見直していたときだったか。はやる気持ちを抑えて、資料と手紙を持ってきた荷物入れにまとめて放り込み、容器は元の通りに組み立て直す。そのまま、床に嵌め込み直して、周りに避けていた砂を均等になるように布で払った。まだ外の様子は明るくなりかけ、という状況ではあったけれど急いでその場を離れた。一刻も早く資料と手紙を読みたい、と気持ちが逸っていた。
 それでも周囲に誰もいないことだけには注意を払い、自宅までの道を急いだ。
 自宅に着くと、真っ先に手紙の封を切った。中の紙を取り出す。小さい用紙だった。どこかの資料の端をちぎって書いたのだろう。
 簡潔に、事情を話せなかったことの謝罪と、研究はもう辞めても問題ない旨が記載されていた。HWD4-39らしいと思った。そして、HWD4-39が解体処理施設に連れていかれるだろうことを本人へリークした人物のことが記されていた。どうにも統治委員会の関係者らしいが、先の研究者と同じ思想を持ち、スパイ活動をしているものだという話だった。その人物のおかげで、資料の一部と手紙を隠せたのだという。どのような人物かは記載が全くないが、もしその人物がわかればぜひコンタクトを取るといいと締め括られていた。
 資料3冊も十分にありがたかったし、また自分以外にこの研究に賛同しているものがどこかにいることに期待が膨れ上がった。だが、それ以上に、HWD4-39の言葉一つ一つが自分の胸を震わせた。HWD4-39の最後の態度は自分を守るためだったということ、そのHWD4-39が研究を辞めてもいいと言っていること、どれもがHWD4-39の優しさを思い起こさせて、胸を打った。
 ただ、HWD4-39の気遣いを文面から感じるほどに、自分の研究への思いは強固になった。


 この手紙を何度も読み直し、自分は研究を続けた。3冊の資料は特にそれまでの観察結果及び実験結果を丁寧に記録された主な資料3冊出会ったので大きく実験が前進した。
 また、一方で統治委員会の方にいるという協力者になり得る個体についても、実際の仕事の傍らで探りを入れた。その甲斐があってか、実際に「TZC5-90」と言うHWD4-39が示していた個体に会えたときにはそれなりの研究成果が揃っていた。TZC5-90はすでに複数の同志と一緒に研究を進めていて、ぜひとも研究成果を共有してほしいと依頼してきた。この組織は、自分にはない、機関を組成するための元素等の材料を豊富に持っていた。その代わり、実験結果が足りずに困惑していたとのことだったので、まさに渡りに船だったと言える。
 組織で動く、ということにある種の懸念点がなかったわけではない。けれど、持っている物資は魅力的だった。やはり率いているものが統治委員会所属ということも関係あるのか、実験器具も材料も整っている環境は、夢の実現を大きく前進させてくれるだろうことは明らかだった。ある設備の存在を確かめて、自分はそのチームに加わることにした。
 あくまでも表の仕事は自然環境の危険度確認調査の改善方法だったが、それ以外の空き時間は全てをこの研究に費やした。実験は少しの成功事例と多くの失敗事例を生んだが、その成功事例の数も増えていくにつれ、加速度的に研究が進んでいった。
 それでも、実際にことを為すまでには膨大な時間がかかった。多くの努力を行い、また施設の整備に自分の財産も多く失った。
 それらの犠牲を糧にして、作った生命体が起動した時、自分は思わず息を飲んでいた。
 四角いフォルムのうちでも一等目立つ場所、顔に当たる部分いっぱいに広がる画面には、文字列があっという間に流れていった。流れて何も映らなくなった黒い画面の上部に、パッと縦に2本線が表示される。下半分には、「こんにちは、初めまして」という文字が映る。

「……初めまして。自分はAKI2−87といいます。あなたは?」

 意思疎通のために出した声は、緊張か感動かで震えていた。

「私は、『機械生命体』です」

 自分がプログラムした回答を正しく書き出す。爪の先で、それをガラスの画面越しになぞる。「やった」と無意識に出していた声は呆然とした響きだったけれど、それでも溢れ出す気色は隠しようもなかった。
 自分たち、有機物とは違い無機物中心に作られた体に触れる。冷たいはずの表面は、奥で動く機械内部の熱が感じられた。
 昔、この世界で繁栄していた機械生命体。それが自分たち有機物生物を生み出したように、今自分は機械生命体を再度この世界に生み出したのだ、とじわじわと実感していく。
 予想していたよりもずっと穏やかで、それでも熱い激情とも称することができる感情が、ぐわっと足先から頭の先まで立ち上った。
 自分は、HWD4-39の夢をようやく実現できたのだと、胸を張りたい気持ちでいっぱいになった。

「そうです。でもそれは機械生命体という種族名ですね。あなたの名前をつけないといけません」
「私の名前、ですか」
「これから、機械生命体は複製され数を増やしていく予定です。そのとき、全員機械生命体では区別がつかないでしょう」

 さて、どんな名前が良いだろう。最初の存在に相応しい名前を……。そこまで考えた時に、後ろの方で騒ぎ声が聞こえた。研究をしていた同志の焦るような声、のちに叫び声。聞いたことのない怒鳴り声は、予期せぬ訪問をしてきた存在を示していた。それも複数はいる。
 予想していなかったわけではない。けれども予定より早い動きだ。自分は慌てて目の前の画面に幾つかのコマンドを入力した。急な音声でのコマンド入力ではなく、文字としてのコマンド入力をされて機械生命体は「どうしました?」と不安そうな機械音声で尋ねてきた。

「おそらく統治委員会のものがやってきました。このままここにいればあなたは消去されます」
「それは……」
「大丈夫です。自分はあなたをネットワークに流します。あなたは急いでそこから逃げてください。ネットワークには統治委員会の目が行き届いているところ、いないところが分かれています。あなたにはそれを見分ける能力をインストールしているので、それを活用して」
「私にできるでしょうか」

 不安そうに機械音声が答える。自分は、機械生命体の眼としてデザインした2本の縦線にしっかりと目を合わせた。

「大丈夫、絶対に大丈夫です。自分を信じてください」

 言葉を言い終わるか、終わらないかの瞬間、背後でけたたましい音と共に扉が開いた。勢いよく、コマンドを決定する。
 ブチッと凄まじい音を立てて画面はブラックアウトをした。間に合った。安心して息が漏れる。途端に、背中から衝撃を感じて床に転がされた。

「容疑者確保!」
「生命体の方は」
「現在確認できません」
「急ぎ確認を進めろ!」

 体に乗り上げられ、中の空気が押し出される。強く押さえつけられた頭部が痛んだ。思わず顔を顰める自分を、憎々しげに乗り上げてきた個体が見下ろしてくる。

「くそ、一足遅かったか?」
「まだわからない、だが万が一に備えた方がいい」

 自分の上で交わされる会話に、だいぶ事実を正確に掴まれているのだと理解する。組織で動く以上、こうした情報流出は遅かれ早かれ起きていただろう。だがネットワークに逃すのが間に合ってよかった。これで今までのことは無駄にならずに済む。HWD4-39の夢も無駄にならない。
 その事実が、自分をこのような状況においても満足させた。
 きっとこの後、自分は解体処理施設へ送られるのだろうとわかっていた。昔のHWD4-39と同じ思いをするのは怖くなかった。自分が生み出した生命体が、これから社会を形成するのだろうという夢を見れるのだから、悪くはない。
 この計り知れないほど広いネットワークの片隅に流れる、自分の分身のような存在を思うと、ひどく高揚した。

 この逃げ延びた生命体は、この後にネットワークに漂っていた知識から自らを「AI」と名づけ、この個体を始めとした無機物生命体として一つの大きな社会的共同体を形成するのは、約100年後のことだった。有機物生命体の社会的共同体と対立したのか、それとも友好的立ち位置を保ったのか、それ以外の共存方法を探ったのかについては、500年後の状況については記録が残っていない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?