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何十年生きてきてわかっていないこと

小さい頃は、大人になればわかるようになるんだろうと漠然と思っていたことがいくつかある。

例えば、空の色が時間と共に変わる理由だとか。女性が「おばさん」と呼びかけられた時にショックを受ける理由だとか。
そういうことである。

そういったことの大半は自然とわかるようになったり、それでなくとも調べ方がわかったりするような年齢になったのだが、それでもいまだにわからないことというものもやはりある。

自分の中で、いまだに謎なことの1つに「ご飯のお供」という言葉がある。
いやご飯のお供ってなに……?
ご飯にお供なんているの?といい歳した今でも疑問を抱えている。

自覚したきっかけは、先日近所のお店で見かけた、とある商品が気になったことだった。
瓶詰めの商品で、ツナと明太子を全面的に押し出していた。おそらく掛けて良し和えて良しの調味料的な一品だったと思う。
マグロも明太子も大好きな私にとっては非常に興味をそそられる逸品でもあった。
誘蛾灯に惹かれる虫が如く近寄った自分の目に、商品の側のポップが飛び込んだ。

「ご飯のお供に!」

微妙に言い回しは異なるかもしれないが、ポップに「ご飯のお供」という言葉はあったはずだ。それを見てから「ご飯のお供 とは」という検索欄に打ち込みたくなるような文言が頭を過り、それに気を取られてその商品を買うことは霧散した。
それのみならず、ふとした拍子に脳裏をよぎるようになってしまった。

ご飯のお供という言葉が数日に渡るほど引っ掛かっているのは、自分がいまだに三角食べという流儀を体得していないことによるのだと思う。
私は白米とおかずを基本的に一緒に食べない。卵かけご飯などの一部を除いて、ご飯を汚すことに物心ついたときから抵抗がある。
焼肉でタレ付きの肉をご飯にバウンドさせるなんてもってのほか。
おかずはおかず、白米は白米、別個に食べるのが自分の習慣として確立して久しい。

カレーも基本的にはカレールーを食べ終えてからご飯を食べるし、丼物は上の具材を食べてから下のご飯を食べる。お寿司は流石に具材と酢飯を一緒に食べるけれど、ちらし寿司は具を先に食べてから最後に酢飯を食べる。
そんな食べ方をしているものだから、ご飯と一緒に食べるのにおすすめ、という文言がいまいちピンとこない。

この食べ方で損をしたのは、札幌に旅行した先で激辛スープカレーを食べた時くらいだ。ルーとご飯と一緒に食べないせいで、辛さを超えた激痛を味わった。その上ご飯に到達する頃には疲労困憊で食べる気力もなく、ご飯がかなり余ってしまうという状態に陥った(なお、同じく苦痛でのたうち回っていた友人は逆にご飯が足りなくなっていたので、シェアすることで事なきを得た)。

流石にちらし寿司の食べ方は見た目が良くないかもしれない、と思うに至り人前では一緒に食べることを心がけるようになったが、それ以外のものについては今でも極力、おかずとご飯を別々に食べるようにしている。

この食べ方に拍車をかけているのが、白米だけで美味しさを感じられるという自分の舌だ。
おかずやふりかけなく、白米だけで3杯食べられるような舌である。お供と言われるおかずなどなくても、単体で立派に大将張れちゃっているのだ。
おにぎりの具として一等好きな梅干しだけはご飯と一緒の方が美味しいという言葉にも頷けるが、その梅干しだって単体でも十分美味しいと思っている。それ以外のおかずに関して言えばご飯があろうがなかろうが変わりなく、そしてごはんの方もおかずがあろうがなかろうが関係なく、モリモリ食べられるのだ。冷静に考えればれで実感する方が難しい。

そんな自分が今後、生きていてご飯のお供という言葉に実感が湧く日が来るのだろうか。ある食べ物をして「これこそご飯のお供!」と思えるものが梅干し以外にも発見できるものだろうか。そんなことを最近考えている。

もしかしたらあの日見かけた調味料のようなあの商品がその実感をもたらしてくれる物だったのかもしれない。今度見かけたら、食べてみよう……。
そんなことをつらつら考えてもう1週間ほどは経っている。
いまだに手元にその商品はない。

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