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福田恆存を勝手に体系化する。4  ルネッサンス 歴史の素描

歴史との最初の小競り合い


 歴史とは、過去に起こったこと、過ぎ去った出来事、かつてそのようであったものについて探究することであると一般に考えられている。もしそうだとすれば、人間の歴史は、翩々たる事件の連鎖に還元されてしまうことになる。そうした外部から歴史を観察する方法は純然たる経験論に帰着するほかないのだが、そこには持続するものはなにもなく、歴史はバラバラな現実の継起として記述されることになる。

 しかしこれまでのべてきたように、人生に生起するあらゆるものごとは、かれの内部でおこり、かれのパースペクティヴにあらわれる。その各人のパースペクティヴの多様な総合が固定した思考のパターンを形成し、一定の高さをもった水準を示す。それが「時代精神」とよばれるものである。それはその時代特有の形式と構造をもっている。人は誰しも、それぞれの立場に応じて時代精神の創造と維持に寄与しながら、それでいてそれに依存して日々の生活をおくっているのである。われわれはさながら、目に見えない檻の中から外の事象をながめている。このことは古代であろうと現代であろうとすこしもかわらない。時代によって檻の網目がちがうだけだ。

 福田恆存は、「歴史を学ぶのではない、歴史に学ぶのだ」と、いっている。それは上述のような歴史認識を前提としている。歴史的事実を対象化するのではなく、生きた人間の内部からの声に耳をかたむけなければ、真の歴史はそのすがたをあらわさないのだ。したがって、かれがもっとも忌避するのは、現在の水準から過去を見下ろす態度である。それは歴史から、人間の生き生きとした思考と行動の試みを抹殺することだからである。

 たとえば中世から近世へというとき、車のギアを入れ替えるように時代の状況が変化するわけではない。真理は神にあるというキリスト教の世界観から、人間理性を真理探究の基礎とする人文主義へという移行は、たしかに疑いのない歴史認識ではあるが、そこには変化するものと持続するものが存在する。

 たびたび登場するデカルトにしても、かれの登場によってものの考え方に変革が起こったとするのは――たいていの哲学史にはそう書いてあるが、そういう軽薄な歴史の見方では、真の歴史にふれることはできない。それが福田恆存のいう、現在の高みから過去を見下ろす態度の典型である。自分が檻のなかからものを見ているという自己認識が欠如しているからだ。デカルトの哲学の欠陥を指摘してみせることは、すこし哲学史を学べばたやすいにしても、それ自体、なんの意味もない。
 歴史の真実にせまろうとするならば、まず第一に、デカルトの内部でなにがおこっていたか、ということに関心をむけなくてはならない。それはかれがどのような状況のなかで生きていたのかということを探究することであり、かれのパースペクティヴの大枠がどのようなものであったかということを知ることであり、そこでかれがどのような使命を自己に課したかということを追体験することである。

 どの時代も固有の水準を有している。同時代に生きる人びとは例外なく、その地平線の上で生活している。とりあえずここから、福田恆存からしばらく離れて、ヨーロッパ精神史について語ることになるのだが、かれの思想を体系化する上でこれは絶対に避けては通れない道程であることをご理解いただきたい。それはかれの思考の前提を共有するための不可避な手続きなのである。

 で、デカルトをつつんでいたのは中世の黄昏と、その反動としての新しい科学の進出だった。いいかえれば、歴史の地平線は揺らいでおり、かれは過渡の時代を生きていたのだ。

 それまでのヨーロッパは、中世にうみだされたまれにみる安定した世界だった。周知のように、アラビア経由でアリストテレス哲学が流入し、神学者たちは、それまでのキリスト教思想を更新し、精緻な体系へと仕上げて行った。古代のアウグスティヌス的な神学においては、神は啓示を通じて一方的に語りかけてくるものであり、人間の側からアプローチするすべはない。要するに人間と神、彼岸と此岸は完全に切り離されていたのである。神の国が真の実在であり、現世は仮象にすぎぬものとして位置付けられていた。

 ところが、カトリック教会の勢力が伸長し、ヨーロッパに民族的一体感ができあがってくるにつれて、古代の世界観は身の丈に合わなくなってきた。それまですべて神へと照準を合わせていた視線が、生活が充実するにつれて、わずかにでも人間それみずからにむけられるようになる。カトリック教会も、迫害される少数者から統治する多数者へと立場が移行したことによって、自己の正統性、一義性を示す必要にかられていた。

 あらゆる真理が神に由来するものであるにしても、それを受けとるのは人間であり、そこには他の動物にはない人間ならではの理解や認識の能力がからんでくるはずだ。そういう知的雰囲気のなか、タイミングよく、イスラム世界から還流したアリストテレス哲学が論理的に構築された自然観をかれらに提示したのである。それはかれらの目には神の摂理とダブって見えた。その結果、そうした摂理をいくぶんでも理解できる以上、人間にもそうした神とおなじ能力が限定的ではあるが、いくぶんかはそなわっているはずだと、かれらは考えたのである。そのようにして天上へと通じる梯子がかけられた。
 同時にカトリック教会もそこに、天上の神からまったく断絶した地上教会という位置づけから、すくなくとも理論的には彼岸と連続性をもつ此岸の団体としてみずから主張しうる根拠をみいだしたのである。

 こうした成行きを異邦人の目から見ると、しだいに縮小してゆく神の領域と、それに反比例するように伸長する人間的領域という相対的な過程がみとめられる。そしてヨーロッパ中世とは、その相対的過程が限界に達しルネサンスの扉を開くところまでの期間というふうに定義づけることが可能なのではないかとおもえる。

 トマス・アクィナスが完成した中世の世界観を私なりにさっと素描してみよう。まず、アリストテレス由来の「形相」という概念がある。それは精神的で非物質的な実体であり、それが「質量」という物質に形をあたえて、われわれが知覚できる現実存在となる。具体的には、普遍的なものから、動物、類、種、脊椎動物、哺乳類、馬というふうに一段ずつ階梯を下りてゆく。「固体化」の原理とよばれていた。
 その場合、「形相」はものの本質であり、それぞれ独立していて、他の条件からいっさいの影響をうけない不変の実体である。たとえば、馬は、馬性の形相と質量により構成されるのだが、その形相自体は永遠不滅、不動の本質とされる。つまり、「普遍」なのだ。そうすると、われわれの眼前に広がっているのは、絶対的に変化せず、外部からの影響もうけず、互いに独立して同一性をたもった多くの実在が、ジクゾーパズルのようにきっちりと嵌め込まれた、永遠に一定の世界ということになる。
 要するに、中世の世界とは、絶対的なるもの、普遍的なるものの巨大な集積なのである。まことに安定した世界といえる。社会的な面でも、王、貴族、騎士、聖職者、農民、商人、職人という、階級の固定化がすすんでゆく。神は論理的にこの世をつくり、それゆえ人間は力足らずも、理性をよすがにして神とつながることができた。神と被造物は截然と区別されているので直接むすびつくことはできないのだが、知性とか善といった属性を基盤として、神と人とは類比的に関連づけられたのだ。これを存在のアナロギアという。このようにして、トマスは信仰と理性、神と自然の調和を達成したのである。

 しかし、ドゥンス・スコトゥスの登場によって、早くも中世の夢はやぶられる。かれは神が論理的な存在者であるというのは、神の絶対性を否定するものであると主張した。万能の神は理性的でもありうるし、そうでないものでもありうる。絶対者にたいするいかなる限定も、その絶対性を否定するものである、と。存在のアナロギアは根底からくつがえされたのだ。しかもかれは「存在の一義性」において、神の認識はひたすら啓示によるとしたトマスを反駁して、自然的認識――すなわち理性による認識が可能であるとした。
 こうして、ふたたび信仰と理性、神と自然は均衡を失い、完全に分離される。だがここで見逃してはならないことは、「理性」というものが信仰と切断されて、人間独自の方法論的能力として手許にのこされたという点である。

 さらに半世紀たってあらわれたウィリアム・オッカムは、れいの固体化の原理をも否定する。普遍とは人間のつくりあげた概念であり、だとすれば類から種へという階梯それ自体は、たんなる名辞、言語的なシンボルにすぎないと考えたのだ。実在するのは、「人間」や「馬」ではなく、あくまでも福田恆存やソクラテス、ロシナンテやディープインパクトといった個別の存在者である。

 こうして世界はふたたびバラバラの部品に分解されてしまった――中世の世界観は破局をむかえたのである。ひとびとは道を見失い、途方にくれていた。アリストテレスとの出会いからはじまった中世の歴史的精神は、その可能性をことごとく使いはたし、ついには限界点にまで到達したのである。人びとはバラバラに解体した事物の中で自己を喪失した。

 ルネッサンスは復興再生であるよりも、まずもって危機の時代だったのである。人はふたたび未知となった世界の海へとのりだしていかねばならなかった。しかしかれらの手にはしっかりと、スコラ哲学の置き土産として、人間理性という貴重な道具がのこされていた。そしてそうした未来の空白が、未知の世界にむけた期待感と新たな冒険への熱情を醸成していたのだ。
 これを精神史からみれば、当初すべての中心をなしていた信仰の世界が漸次縮小されてゆき、それと切り離された人間の生きる世界が拡大されてゆく過程として記述される。政治史的にみれば、中世ヨーロッパはイスラム社会などにくらべて遅れた地域としてスタートしたが、しだいに文化的に熟成され、政治的にも経済的にも、巨大な潜在力を有する社会へとへと変貌を遂げていたということである。その意味でも、中世の殻をやぶって外へでる時期にさしかかっていたのだ。

 コペルニクスやガリレオは、その理性を駆使することで「科学」という新しい世界解釈の方法論を創出していったのである。ここから「近代」ははじまる。だが、その発想の根底には、世界が規則的なものであるというトミスムの残影がたゆたっていたこともまたみのがせない事実である。新たな時代をつくるとはいっても、いかに限界に達したとはいえ、みずからの足許にある過去を土台にしなければ人間は一歩もすすみえないからである。

 デカルトがあらわれたのは、そういう時代だった。かれはバラバラになった世界を前にして、ガリレオに呼応するように、幾何学的な世界理解による自然界の再構築と、数学的にあらゆる学問の分野を統合することに、みずからの使命をみいだしていた。かれは独我論の哲学者であるよりもより多く、幾何学に座標を導入し解析数学を創始した物理学者だった。これが意味するところのものがすっぽりと抜け落ちている文系の哲学史は、歴史記述として致命的な欠陥商品である。

 コペルニクスの地動説にしたつておなじことで、あの画期的な大転換はけつして画期的な頭脳を前提としてゐるのではなく、画期的であつたのは当時の現実の諸要素の相関関係であつたのであり、またそれに触発された人類の生活欲の増大であつたのだ。
                      

「芸術と科学」

 福田恆存のいうように、デカルトにしてもガリレオにしても、なんぴともかれが生きた時代があたえるリストのなかから、みずからの課題をえらびとるということである。人はかれの生きる時代特有の精神のうちに一断片としてはめこまれているのである。したがって、ただたんにふって湧いたように新しい発想が芽生えたのではなく、そこには歴史の体系的・構造的な力が大きくはたらいている。それはわれわれ各自のパースペクティヴを構成する基礎的な成分であり、われわれはいつもそこから養分を吸い上げているのだ。そしてわれわれもまた、この時代精神というものに制限され、それぞれの程度に応じて寄与してもいる。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。