『八日目の蝉』に八日目がある意味

昨晩、眠れなくて、映画「八日目の蝉」を観た。

5年ほど前に冒頭だけ観て、暗い気持ちになってしまってすぐ辞めてしまったのだが、少し成長した今なら観れる気がしたのだ。
結果として気分が晴れたし、深夜に映画を観るのはいいことだなと改めて思った。(深夜に友達は寝ているから連絡とれなくて寂しい気持ちになるけど、映画はそんな孤独な私にもいろいろ教えてくれるので)

この映画は誘拐犯の女:希和子と、彼女に育てられた女の子:恵理菜の二人が主人公である。
映画を観て感じたことを何個かメモしていこうと思う。


ここに出てくる大人たちがマジで自己中心的すぎる

それぞれが互いに影響しあったことで、四年にもわたる誘拐という最悪の結果が生み出されてしまったわけだが、
登場人物がそれぞれに不幸な目に遭っていたという事情を考慮しても【ここに出てくる大人たちがマジで自己中心的すぎる】という感想を最初に抱かざるをえない。


希和子は愛する男との子を産むことができず、自分の子を中絶したことで二度と出産できない体になってしまった。女性にとって子どもを産めないことはどれだけ悲しいことなんだろうと苦しくなるが、これは決して、人の子を誘拐していい理由にはならない。
ただなんとなく過ごす4年間ではなくて、子どもにとって人生最初の4年間だ。当たり前に恵理菜は、自分の名前がカオル(希和子がつけた名前)だと思っていたし、当たり前に恵理菜は希和子を、自分の母親だと信じて疑わなかった。

恵理菜の父親はどうしようもないクズだった。希和子とかつて子を作ったが堕ろすよう指示し、その後別の女と結婚し子どもを作った。人との関係も命の重さも軽視しすぎている。
誘拐の報道で彼が不倫していたことは全国に知れ渡ることになるが、これは自業自得としか言いようがない。

恵理菜の母親もまた最低な女だった。希和子が結婚できなかった女と自分は結婚できる、希和子にはできなかったが自分は愛する男との子を産める、ということが、彼女にとって最高のステータスだった。そして希和子にそれを見せつけ、酷い言葉を浴びせた。
どんな人にも子を産み育てる権利は当然あるが、子どもをステータスだと思うような女が母親だと、どうしても子どもがかわいそうだと思ってしまう。

そして女子大生になった恵理菜が不倫する相手、岸田も最低な男だった。妻子持ちにも関わらず恵理菜と関係を持ち続け、ついには妊娠させてしまう。
こういうとき『男は最低だ』と言ってしまうのは軽率だし、最低なのは男全般ではなく不倫をした個人なんだろうけど、産むことになるのも堕ろすことになるのも女性なので、そういう点では男は責められてしまうなと思った。

自分のことしか考えられない大人たちが次々登場する中で、間違いなく一番かわいそうなのは恵理菜だった。彼女が一番愛し慕っていた人は犯罪者だったり、実の父親が社会的に最低だと扱われたり、実の母がヒステリックになっていたり、それらをすべて見てきた。そしてすべて自分のせいだと、恵理菜には見えた。彼女はすっかり冷めた大人になってしまった。
そこへ追い打ちをかけるように妻子持ちの岸田が近づいてきて、彼女もまた不倫相手になってしまい、ついには妊娠してしまう。

最低な大人というのはもうどうしようもない存在だ。そんな大人になってしまったからには、自分自身がどれだけ苦しんでも自己責任だと思う。

しかし子どもには何の罪もない。子どもというのはこれから長い人生で自分の夢をかなえたり、家庭を築いたりしなければならない存在で、そこに責任を持てない大人がいるから、こういった事件は起こってしまうんだなと思った。



『宗教』がもたらすもの

希和子が恵理菜を誘拐して、身寄りのないふたりに初めて手を差し伸べたのは『宗教』だった。エンジェルホームと呼ばれるその場所では、女性たちがそれぞれに作物を育てたり、互いの子どもの面倒を見たりして、助け合って暮らしていた。
エンジェルホームの存在がなかったら、希和子と恵理菜はこんなにも幸せに過ごせなかったことは間違いないだろう。

私事だが、3年前に人間関係に悩み、ちょっとした鬱状態になっていたときに、友人に誘われて宗教の施設に通っていた時期があった。

そこでは神について話を聞かせてもらった後に(詳しいことはいつか書きます)いつも温かいごはんを提供してくれて、好きなだけDVDを見せてくれたり自習をさせてくれたりした。

どうしても何か事件があったとき、宗教のカルト的な側面ばかりが取り上げられてしまうけれども、それは数ある宗教の中でもごく一部の話で、多くの人はその教えに救われ、日常生活のなかで優しさや献身という形でそれを生かしている。

もう自分はそこにはすっかり行かなくなってしまって、そこでの教えが必ずしも正しいかどうかはわからずじまいだったが、少なくとも、あの時悩んでいた自分に手を差し伸べてくれたのはそこにいた人たちで間違いなかった。

代表のエンゼルに苦しみを見抜かれ、涙を流す希和子が、その時の自分と重なった。


『八日目の蝉』という言葉の意味

この映画のタイトルはどうして、『八日目の蝉』なのか。映画の中でそれが明確に説明されている部分はなく、解釈は個人に委ねられた。

蝉というのは7日間しか生きられない生き物だ。これは周知の事実だが、わたしたち人間には8日目、9日目、もっと先にも未来が続いている。

次々に苦しみながら生きる人々が登場する本映画だが、この映画の唯一の救いといえるのは、希和子にも恵理菜にも、恵理菜の両親にも未来、つまり八日目があるということだ。

恵理菜はこれから、正真正銘、何の隔たりもなく愛せる『子ども』という存在とともに苦楽を共にすることになる。
恵理菜の両親だってそうだ。孫の成長をこれから見守ることになるんだろうけど、彼らが望んでいたかわいい時期を見守るということは、1番手のかかる、大変な時期を直視するということでもある。私のような独身女性には想像できないような大変なこともたくさんあるのだろう。
そして希和子は釈放され、犯罪者という過去を背負って生きていく。

人間というのはとてももろい生き物だが、簡単に死なない生き物でもある。死なない限り、どんな人でも、どんな事情があっても、生きなければいけない。

そんな未来を少しでも変えようともがくことが、私たちが八日目を生きられる存在として果たすべき役割なのではないかと思った。


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