【短編小説】Engagement from RNA【Feat.「FrozenBeach」】

珍しく海にいる。今日も裸足で歩いてみることにした。目前は真の闇で、存在をどこまでも飲み込んでいくように見える。月は出ていなかった。というより、すでに沈んだあとなのだろう。もう夜明けが来るような時刻だ。波の音だけが耳元でたゆたう。残された感覚だけが頼りだ。

意識をおぼろに漂わせて、渚を行く。脳髄へ伝わる濡れた砂の感触。足裏の体温を奪う。砂を踏みしめる感覚がどこまでも続く。そこへ感覚を侵す波の刺激が加わる。存外に冷たいものではないと、視線を足元へ落とした。
けれど何も、見えない。うすぼんやりと、波の動きが視神経に捉えられるだけだ。
足を止めた。
砂の柔らかい冷たさ。波の凜としたぬくもり。

「……?」

何かが脳裏をかすめた。視線だけ海の向こうへやる。それでも分からなかったので、やがて身体ごと向けた。この感覚には、覚えがあった。既視感などというしゃれたものではなかった。
もっと粘度の高く、穢れた熱を帯びる、生々しいもの。
闇がスクリーンのように脳裏に浮かんだ映像を映し出す。海の向こうと二重写しになるのは、私が——

私がここで、泣いていたこと。
うつむき、顔を覆い、膝を突き、背を丸めて——。

(いや……)

記憶違いだ。
最初の記憶では、うつむくための首も、顔を覆う両手も、突くことのできる膝はおろか足も、背骨すら。
——持っていなかった。

(最初の記憶だって? それでは私はここで、何度も……?)

呼応するように、私の意識の奥深くで声がする。私であり、同時に私ではない細胞の異物が密かにつぶやいた。その声に気づき、うなずく。
海は昏い。何も見えない。けれど確かに聞こえて、確かにそこにある。

それと同じように、忘れていたものは、決して失ったものではない。
ただ、時と場合に応じて意識的に意識下に置いていただけだ。この細胞が、私の自意識を超えて動作していただけだ。忘れていたものを思い出すということは、【その時が来た】ということに他ならない。細胞がゴーサインを出したのだ。今こそ、この情報を処理すべきだと。記憶が、在るべき機会と場所を取り戻したのだ。ということは、私はここでもっと深く思い出さねばならぬ何かがあるということになる。

指先をこめかみに当てる。目を閉じ、五感をあえて鈍らせる。
自分の中に潜み、存在を殺していたその息づかいを聞こうとする。

深く。
深く。
海の底より深く、私の意識が沈んでいく。

やがて、泡のように小さなそれを聞く。私そのものが発した、声にならない感覚刺激。それは徐々に、明瞭な範疇内の言語に変換される。

(……!)

重大な記憶の再来に目を見開く私は、誰の目にも留まらない。

「君……は……」

喉を突いて出た声は、自分でも意外なほどに細く弱々しく響き、瞬時に波の狭間に消えていった。口を手で覆い、更に洩れていきそうになる声をからくも押しとどめた。

そうだ。
私はここで、君のために立ちすくみ、そして君を知る私のために泣いていたのだ。
自らが犯した運命と、君が陥れた私の行く末を怨み。
波打ち際で交わる涙を落とす暇さえ与えられぬ事実を悲しみ。
繰り返す痛みを与える君を憎み。
呼吸の始まる迫り来る瞬間を怒り。
幾度の波を経ても未だ埋められぬ時間を憂い。

——それでも君は、私を解放しようとはしなかった。
——そして私は、そんな情け容赦のない君を——。

「君を……」

その先を思い出して、息が止まる。
瞬間、呼吸に波が応じた。
驚愕で、思わず顔を上げた。

けれどそれは本当に一瞬のことで、そのあとは一定のルールとそれを乱す揺らぎとの間で、波の音は何事もなかったかのように響き続けるばかりで。こちらの都合を無視して、突如として記憶の呼び水が胸奥に流れ込んでくる。否応なしにそれを受けると、私の意識は深く深く落ち込んでいった。

今こそ、すべてを思い出す時が来た。


「どうしたんだ?」
「……あ……」

君は私の声を聞いて顔を上げた。何かを思い詰めているような表情だった。うつむいていても、ずっとその気配を感じていた。そうでなかったら、永遠に声などかけなかっただろう。

「実は……」

瞬きをした睫毛の先で、泡が輝いた。影は絶えず揺らめいていて、まったくの無音だった。その指先が唇に当てられ、思案げな顔をこちらに寄せてきた。

「うまく、できなくて……」

安定しないのだという。生み出せないのだという。だから、始められないのだという。
途絶えがちに状況を説明する言葉は、自分の中で飲み込み、都度消化しながらといったふうで、こちらが苛立つほどおっとりとしていた。

「時間がないのではないか?」
「……そう。だから……」

語調の割には、焦っている様子がうかがえない。この鷹揚さがこれからも続くかもしれないと思えば、手を貸す方が得策と思った。

「助けてくれるの?」
「仕方ないだろう」
「……ありがとう」

私は、ごく簡単な提案をした。

「形成が安定しないのは、ここの水温が高いせいだ。分子安定を確実なものにするためには、もっと冷たい場所に行く必要がある。たとえば……どこかの氷海では無理か?」
「……そうね……北極海だったら、大丈夫?」
「それなら問題ない。北極海くらいの水温であれば、凍結融解による成分濃縮も充分起こりうる。確か、そこにも低温で機能するリボザイムがあったはずだ。低温での分子の安定、機能するリボザイムの存在、成分の濃縮。要素が三つも揃えば、成功率は飛躍的に高まる。RNAワールドのスタートはほぼ確定するだろう」
「ずいぶんと頼もしいのね、あなた」
「こんなこと、造作もない」
「ありがとう。もしよかったら……一緒に来てもらえるかしら?」
「乗りかかった船だ。……行こう」

氷海への移動は、さほど時間がかからなかったように思う。その指先が細かな泡に包まれ、ワールドがスタートするのをぼんやりと見ていた。

(私はいったい、何をしているんだろう……? 帰らなくては……仕事が残っているのに)

と思いながら、その声がかかるまで、早く帰る方法ばかり模索していた。

「ありがとう。完了よ。……助かったわ」
「ああ、そうか。それはよかったな」
「あなたのおかげよ」

君は微笑んだが、私は若干焦ってもいた。帰ってから、今日中に仕事を片付けられるかどうか不安だったのだ。それでもこの現場には少なからぬ興味があった。好奇心に負けて、ひとつだけ聞いてみた。

「ひとつだけ聞かせてくれ」
「ええ、なんでもどうぞ」
「順当に行けばここからDNAが生まれるはずだが、もしかしてワールド自体もそちらへ移行するつもりなのか?」

RNAワールドからDNAワールドに移行するのであれば、更に多くの要素が必要となる。そしてもし成功したなら、私が手を貸したこのプロセスは、本格的なものとして一人歩きをし始めることになる。

「そう、それなの。本当はわたし、そちらを気にしていて」
「……そうか」
「でも、心配いらないみたい」

君は微笑んで、顔をこちらに向けた。
その顔に、私は底知れない不気味なものを感じた。

「あなたがいれば、大丈夫だって分かったから」
「……どういうことだ……?」

聞かなくても、分かっていた。そして君は答えない。企みを実行に移そうとしている。深淵が私を飲み込もうとしている。強い危機感を覚えた。逃げなくては。君から逃げなくては、きっと恐ろしいことになる。
私はきびすを返そうとして、動けないことに戦慄した。

「行かないで。私にはあなたが必要なの」
「たまたま必要になっただけだろう。巻き込まないでくれ。私は部外者だ」
「でももう、そうじゃない。……遅いわ」

声を上げようとして、私は既にその喉を失っていることに気づいた。
手は空を切るどころか、振り上げるそのものがなかった。
ものを見る瞳も、音を聞く鼓膜も、味覚も嗅覚も、もはや五感全てが機能を果たさない。
——そもそも、果たすべき器官がなかった。

「始まるの。世界が。あなたには、それを手伝ってもらおうと思う」

私はもはや、何の応答もできない状態にいた。それなのになぜ、この声は聞こえてくるのだろう。すべてが塞がれ、失われ、私はただ、落ちていくだけだった。けれど、ここは海の中のはずだ。それなら私は一体、どこへ落ちていくのだろう。誰か、何か、受け止めてくれるものが痛烈に欲しかった。
私に残されているものは、感情とそれに続く思考だけだった。原始的な思いだけが身体の機能を超えて今、激しく爆ぜる。

奈落の底の更に深奥に落ちながら、それらふたつはなお、機能を続行していた。いっそのこと、これすらも無くなってしまえば楽なのに。
恥を知れ、と脳内でつぶやいた。

……いや。
恥を知るのはむしろ私の方で、私たちの方。他の誰でもなく、この世界を始めたのは私たちだ。私にも責任の半分があるのだ。禁断の、あるいは前代未聞の何かを行ってしまった者として。恥に充ちた私のこの過去は、君だけのものになった。荷担してはならないことをし、その上好奇心に負けて、結果として私は、本来いるべき場所を失ったという事実。
私の犯した過ちは、全ての存在、全ての記憶の中でたったひとり、君だけが知る。そしてこの二人だけがこの先、ずっと、ずうっと抱えていくのだ。
私は官能の昏い海中で、機能の存在自体のない五感を覚えようと試み、その末にただひたすら、君を思っていた。

呼吸が乱れている。額に当てた掌がじっとりと汗ばんでいた。
……ああ、手がある、と安堵した。
渚に立っている。
……ああ、足もある。
呼吸もできる、五感はきちんと存在している。

潮の濃い匂いを鼻腔に感じていた。耳のすぐ傍で鳴るような波音も聞いていた。知覚すればするほど、冷静ではいられなくなっていく。頭蓋の内にもがんがんと鳴り響くような心臓の鼓動が、ひどく苦しい。頭が混乱している。激しい電気信号がめまぐるしく渦巻いている。冷や汗がやまず、動悸がひどい。
けれど記憶は少しずつ思い出されていく。ブレーキの外れた脳内で、加速度的によみがえる。唇がゆがみ、歯列に挟まれて軋み始める。耐えきれずに目を堅くつぶる。唇を解放した代わりに、奥歯を思い切り食いしばった。

【巻き込まないでくれ。私は部外者だ】

——そう言ったはずなのに。
——君は私を巻き込んだばかりか、今もなお、そこにいるんだな……?
——そこにいて、私を監視しているんだろう?

分かっていた。意識がこの真実を覆い隠していただけで。私にも、君にも、おそらくすべてのことは互いに了解済みで。その上で、君はこの上なく強引に交わした私との約束——契約じみた——を更新していただけなのだ。大きく息をついた。それはびっくりするほど切なげな声色を帯びていた。
堅くつぶった目の奥に、潤んだたゆたいを感じる。
私の中に海が潜んでいる。最初に君と話してから、ずっとここに残り続けている、君との契約の証のような極小の海が。

意識を緩ませた瞬間、海が一滴、こぼれ落ちた。
目蓋から離れた瞬間、それは涙になってしまった。
塩辛い雫が、私の頬を伝う。

誰の視線も感じていないのに、深く、恥じた。
それは頬を伝いきって唇の横を滑り、やがておとがいを離れて落ちて、足元の海と同化した。

(……泣いて……?)
(泣いてなど、いない)

即座に答えてやった。
どこから響いてくるものか、もはや細胞でも海からでも、私の心の中からでもいい。どうでも構わない。それより問題なのは、私が、この記憶を取り戻してしまったことだ。胸が灼けるように熱い。火の粉が胸の内から噴くようだ。呼吸をするのさえもつらく感じる。

「……やめてくれ……。私をこれ以上、苦しめないでくれ……」

絞り出すように、哀切きわまりない、ひどくみっともない声音ですがった。それでもこの痛切な思いは、きっと聞き届けられることはない。私が全身全霊を込めた祈りさえも、君が作り出した冷酷な公式の前には通じない。波の狭間へ瞬く間に消えるようなはかない代物だ。
短く息を吸い込んだ瞬間、目の奥の海が急激に膨れ上がった。身体ごと飲み込まれるように、意識は再び落ちていく。こんな思いを何度繰り返せば、私の思いは通じるのだろう。

思いが届き、すべてが成就し、契約が終わる日など、私たちに訪れるのだろうか?


「……ごめんなさい」
「謝るくらいなら、私を解放してくれ」
「……ごめんなさい……」
「君ならできるんじゃないのか。……できないとは言わせない」
「それは、できないの……ごめんなさい……」
「知っている。できないんじゃない。君は分かっていて、しないんだ。あえて私を解放しないだけなんだ」
「あなた、知っているんじゃない……。だったら……お願い、私を責めないで……」

苦しげにゆがんだ顔を互いに合わせてから、それぞれに目を伏せて、口をつぐんだ。口数がこうやってだんだんと少なくなっていくことを、私は知っている。そのうち、会話自体難しくなるだろう。互いの思いが積もりすぎて、意思疎通の必要すらなくなっていくのだ。分かっているからこそ。互いを知るからこそ、言えなくなる。

変わらない思いというのは、なんと厄介で、なんと薄気味悪いものなのだろう。
ほとほとうんざりしている。たぶん、私が、私自身に一番。

「でも……ごめんなさい、もう少しだけ付き合って」
「……嫌だと言ったら?」
「意地悪なこと、言わないで……」
「どうせ、私に拒む権利なんてないんだろう?」
「そんなこと……。でも、そう……そうなの……」

分かりきったことを、何を今さら。鼻白んだふりをして、私はわざとらしく大きなため息をついてみせた。

「君が泣いたりしたところを、私は見たことがない」
「ええ……。私は……泣かないわ……」
「……そうだろうな」

君には涙なんてもの自体がないんだろう。
だって、君は海そのもののような存在だから。

「私を、これ以上傷つけないで……」
「その言葉、そのまま君に返す」

言葉を失ってうつむいたその顔が、いつかの君とぴったり重なって。
私も、もう何も言えなくなった。

こうして私と君は、言葉を失っていくんだ。
何も言わなくても、すべてが分かってしまうから。

「でももう少しなの。本当に……あと、もう少しなの」
「……何が?」
「……ごめんなさい……それは言えない……まだ……」

いつか言ってくれる日が来るのだろうかと、いぶかしんだ。

「では、私がこの責め苦から解放される日はいつなんだ?」
「……いつか……ですって?」
「当たり前だろう。こんな茶番にいつまでも付き合っていられるか」

君のひどく悲しそうな顔が、網膜に焼き付いた。途端に身体が動かなくなり、五感が閉ざされる。私の中の海が揺らぐ。高いところから叩き落とされるような衝撃があった。いつものように繰り返されるそれ。
明日から始まる新たな呼吸の前触れ。
自分のために涙を流す瞬間さえ、与えられぬままに。

——私は気がつくといつも、この渚にいた。

始めは、渚にすらいられなかった。ただ浅い水底にしがみつくことしかできず、気まぐれな海流に蹂躙されてばかりいた。
次は海中を漂っていた。自ら動くことはできたものの、激しい流れが来ると、やはり抗うことはできなかった。
そのうち、行動するための器官を手に入れた。海を能動的に動けるようになった。
渚に上がることができたのは、それからだった。絶えることのない、遙かな揺らぎから解放された日だった。
波の寄せ引きを逃れ、砂を踏みしめた四肢。頭上では、遙か遠くに太陽が輝いていたのを覚えている。
ぬめる肌はやがて硬い組織に覆われていき、身体は徐々に軽く機敏さを得た。
その均衡を司るために必要だった身体の後方の太く長いものは、少しずつ影を潜めていった。
皮膚を覆うものが軽さと柔軟さを獲得したとき、私はついに海を必要としなくなり、砂の向こう側が主たる生の場となった。
前肢がいつしか両腕という機能を持ったのも、その頃からだ。

けれど海を離れることができても、帰ってくるのはいつもここだった。気がつけば、いつもここにいた。この世界に帰ってくるときは、いつだって。
君の無意識の悪意に充ちた、いかにも粋な計らいだ。

どこに帰ってきて、どこに行くのかすら、もう、自分の中でも区別がついていなかった。君の元に帰るのか。それとも、世界に帰るのか、と。いずれにせよ、私は世界と夢の間を際限なく行き来していたことになる。
君と会っている間は、夢だった。かといって世界にいるときが現実、という訳でもない。私にとって夢とは、無限の要素を内包していた。ありとあらゆる可能性を秘めていた。同時に、ありとあらゆる絶望をも抱え込んでいた。
それでも私は、まだ期待していたのだろう。

(……何に……?)
(さあ、な)

私の夢を、【死】と呼ぶのかもしれないと思ったのは、もう世界へ戻る回数すら忘れた頃のことだ。世界での役割を終え、私はその末にいつもどおり、君の元へ帰ってくる。今さら何かを伝える必要も、表す必要すらもなく、ほんの短い間同じ場所にいて、ただ互いの思考を共有するだけで事は済んだ。
苦しみは繰り返すたびに薄れていった。無気力というのとは違うが、諦めていたということとは似ているかもしれない。ただ、互いの共有するこの上ない秘密と、世界へ叩き落とされ呼吸が始まる瞬間の合図は、もはや二人だけの暗黙の了解となっていたことだけは確かだ。

そしてまた何万回目かの、何億回目かの【呼吸】が始まって、長い道のりの間で、いつしか私は君のことを忘れていった。
もしかしたら私はいつの間にか、君のことを許していたのかもしれない。
それほど私は、穏やかに世界の時間を感じるようになっていた。

君とのやりとりをすべて思い出した。今私の心は、冷静さと柔らかな思いを取り戻していた。
切ない痛みは、まだそのままにありはすれど。目を閉じたまま微笑んでみせてから、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

眼前には、薄明の海が広がっていた。優しく淡い色をした朝焼けの中で、鷹揚に凪いでいる。
見えずとも、変わらずにそこにあったことは、もはや疑う余地なく証明された。
呼吸は落ち着いている。気も狂わんばかりだった激情も、この海と同じように、今は穏やかだった。

視線を遠く水平線の向こうへ投げかける。
言葉など必要ない。思うだけで事足りるから。

あとどれだけの生をたどれば、すべてから解放された君に会えるのだろう。
今も君は、閉ざされた氷海の底で私を見守っている。そう、あのときからずっと、なにひとつ変わることなく。
私はいつか君に会えるのだろうか。君が沈む冷たい海の底が溶ける日が来ることをただ、私はこの渚で願っている。

これまでも、今も、これからも、ずっと。

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