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エデュケーションの鉄人「鉄人になるまでの道のり」

これは、鉄人コーチ集団 「Withコーチ」 の "エデュケーションの鉄人"こと、Pokoが鉄人になるまでの道のりを明かしたものである。鉄人コーチとは困難な現実・テーマに、タフに楽しく気迫を持ってwith(伴走)する。強さとしなやかさと愛に溢れるコーチのことを呼ぶ。

私は、大学という場所の中で教えていながら、自分の子には、学校に通わず暮らしの全てから学ぶ「アンスクーリング」というエデュケーションを実践している。

なぜ、学校で教える教師が、自分の子にアンスクーリングを選択したのか。端的にいうと、本人にとってベストな教育は、本人が決めることだと思っているからである。

しかし、それは学校教育を否定しているものではない。学ぶ者が、自分の学びに対してどれだけ主体的に関わっているかが大切である。その主体性とは、自主性や意欲的とは異なるものである。

主体性を持つためには、学ぶ者が自らの魂の声を聞き、魂が伝える「なぜ自分がここにいるのか」という存在理由に耳を傾ける必要がある。本来、うちなる魂の声は全ての人に聞こえていたはずである。しかし、次々と出される「すべき課題」に振り回され、自分の教育が誰かの意図によって奪われている状況になっている者は少なくない。

「すべき課題」に振り回されているうちに、学ぶことに対して受け身となり、いつの間にか、「教育の被害者」として「教育」のせいにしている。教育には本来、被害者も加害者もいないはずだが、そこに学ぶ者の主体性が失われた時、被害者だけが続出する悲劇が起こる。

その理由の一つは、教育は「する」か「受ける」と表現されることが多いからだ。文字も「教え」「育てる」とある。だから、受ける側が被害者意識を持ちやすい。

これに対して、エデュケーションとは、語源に「引き出す」という意味がある。すでに学ぶ者の中にあるものを引き出していくのだ。これと合わせてお伝えしたいのが、スクールの語源、「暇」という意味である。余裕のある時間にこそ、学ぶ者が持つものが引き出されていく。私はカンボジアの大学で学生たちと接しながら、それを痛感している。

私たちが「教育の被害者」から抜け出すためには、「教育サービス」を手放し、「学び」を自らの手で掴んでいかなければならない。

私は学校の内側にいるから見えるものがある。そして、学校のメリットもデメリットも両方とも感じている。それと同時に、刻々と世界のエデュケーションの環境が変化していることを感じている。何をどう学ぶかをもっと主体的に選択ができるように変化している。それとともに、自分の教師としてのあり方も大きく変わったのだ。

私の授業スタイルは5年で刻々と変わっている。私の授業を受けた学生達が何を学んだのか。学生達は「己を知った」、「自信を持った」と答えた。学生からは、「先生にまた教えて欲しい」と言われるが、実は私は「教えていない」。学生自らが、魂の声の聞き、「己」を知り、「学び」をより深めて行ったのだ。

私は試験や受験というような人生の一点に向き合うようなコーチではない。「学び」は偏差値で計られるような物ではない。学ぶ者自らが主体的に学びを選択し、全てのことからも謙虚に学び続け、それが一生涯続くエデュケーションにむけて伴奏するコーチである。そのためには、学ぶ者の魂の声を聞くことが大切である。もう少し馴染みのある言葉で言うと「軸」である。

軸のない学びは危うい。軸がないままに、「知識」を身に付けるのは、鍛えていない体に鎧を着せているようなものである。

人生は、大きな学びの場である。学びは、教室だけ起こっているのではない、人生の全てて起きているのだ。こうしたエデュケーションのダイナミックでエキサイティングな変化の波に乗り、私はエデュケーションの鉄人となったのだろう。


エデュケーションの鉄人 Poko Oya(ポコ)
アンスクーリング実践家/大学講師(経営学) カンボジア首都プノンペン在住。一橋大学大学院商学研究科卒(経営学修士)。教師でありながら、我が子は学校に通わずにアンスクーリング(暮らしの全てから学ぶ教育思想)をしている。昨年は親子旅をしながら、その場とそこで出会った人々を教材にした”共育”に励む。大学の授業にもアンスクーリングの要素を取り入れ、学ぶ者自身が自らの学びを主体的に考える環境作りに努めている。菌活を趣味とし、発酵から人の個性のヒントを学び、人と人の発酵屋もしている。


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