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コトバ化の鉄人「鉄人になるまでの道のり」

これは、鉄人コーチ集団 「Withコーチ」 の "コトバ化の鉄人"こと、星野良太が鉄人になるまでの道のりを明かしたものである。鉄人コーチとは困難な現実・テーマに、タフに楽しく気迫を持ってwith(伴走)する。強さとしなやかさと愛に溢れるコーチのことを呼ぶ。

突然ですが、人にはそれぞれ、持って生まれたその人ならではの特性がある、と考えています。ちなみに自分の場合、それは「人のことをおもしろいと感じられること」です。ぼくはこの「おもしろい」をよく使います。「これはこの人本人から出たオリジナルだ」と感じた時によく使っているように思います。

昔から、周りにばかり興味がありました
実家に帰ると、よく母から言われることがあります。「あんたは昔っから友達の話ばっかりしてたわよね。学校から家に帰ってくると〇〇ちゃんがどうだった、△△くんがどうだったって、自分の話は全然しなかったわ」だそうです。
大学の入学式前日には、明日はどんな人に出会えるんだろう、どんな人生を送ってきたんだろう。その人のこれまでを聞きたい!という気持ちがあふれて仕方ありませんでした。入学後は飲みに行くチャンスをつくっては、いろんな人のこれまでの人生を聞き漁っていました。人の人生を聞くのってなかなかにセンシティブな分野ですが、その人のオリジナルが見えてきておもしろかったのです。聞いてるうちに好きになってきてしまうし、他の人にも言いたくなっちゃいます。そうやって出会った友人同士を引き会わせたりもしていました。
ところがある日友人に「おまえがおもしろい、と紹介してくれたあいつ、全然おもしろくなかったぜ」と言われました。その時「自分だったら、あいつのおもしろさを理解できるのに」という悔しさを感じたのを覚えています。同時に、「あいつのおもしろさを正確に伝えられなかったか…」と、自分の力のなさにも悔しくなりました。

文章で伝える職業との出会い
その後、就職活動をはじめる時期には「友人のことはPRできますが、自分のいいところは自分で言うもんじゃないと思います」と面接で堂々と言い放つ妙な成長を遂げていました。自己PR動画を撮って送れ、という課題には友人を総動員して代わりに自分をPRしてもらっていました。ちなみにこの動画は好評で審査を通過したのですが、次の面接を寝坊して普通に落ちました。とにかくなぜだか自分を売り込むことが極端に苦手で、何社も落ち続けました。
それでも何かを見出してくれたのか、ギリギリ拾ってくれた会社があり、そこに就職しました。新人研修期間終了後、運よく大阪本社の宣伝部に配属されました。毎日全国にTVCMを流すような会社だったのもあり、学生時代から何となく気になっていた広告に、本格的に興味を持ち始めました。日々いろんな広告を見るたびに、広告を作る側に回りたい、という気持ちが大きくなっていきました。中でも広告企画の先頭に立つことの多かったコピーライターという職業に興味を持ちます。企業や人の課題や目的を、制作的な発想で支援する。またその発想を文字にして表現できる。俗人的なスキルな分、組織の一員として働いている自分にはとても魅力的な職業に見えました。また、自己PRの苦手な自分向きの仕事にも思えました。

前に進むために、宣言をする価値
当時、定期的に日記をつけていました。自分は将来どうなりたいのか。今何をするべきなのか。短期的な問題にはどう折り合いをつけるのか。大学受験に本格的に取り組み始めた頃からの習慣なので、この当時で5年ほどは続けていたと思います。恥ずかしながらその日記には「人間ノート」と名前を付けていました。自分の振り返りを通して、人間をもっと知りたい、という欲求からのネーミングですね。
ある日。この日記に「今年の9月にはコピーライターになる」と書きました。そこからMIXI(当時のコミュニティサイト)に転職活動記録をつけていくことにしました。なぜ転職するのか。将来はどうなりたいのか。では、今何をするべきなのか。基本的にはこれまでの日記と一緒です。ですが、明確な目標を立てていること、そして日記の読者がいることが大きく違いました。そこで宣言をしてしまうと、気の乗らないようなタスクも超えることができました。計画的に風邪をひいて会社を休むことを日記で宣言し実行しました。その日は新幹線で東京まで面接に行き、無事内定を得ました。…が、怖い上司に退職届を出すのに勇気が出なかったのを思い出します。何回も日記に「明日こそ出す」と書き、画面越しに友人たち背中を押してもらいました。何日かの失敗の末に、泣きながら退職届を渡した日、怖かった上司は「みんなで星野の門出を祝ってやろう」と部署全員で飲みに連れて行ってくれました。実は意外と優しい上司だったのでした。やさしさにほだされ、飲み会でもついつい泣いてしまいました。

肩書の向こうに人生を聞く
コピーライター見習いとして転職後、1週間ほどの研修の後、すぐに取材に行かせてもらえました。中途採用で困っている企業に取材に行き、企業や仕事の魅力を探り、マッチングしそうなターゲットを考え、そのターゲットに届くように魅力を伝える採用広告をつくる仕事です。とにかく人材採用難の時代でしたので、人を採りたい企業は山ほどあり、でも人を呼ぶためのスキルを持っている人は少なかったので、どんどん仕事を任せてもらえました。自分としてもとにかく経験を積んで上達したいと、前のめりに仕事を受けていきました。1年間で200ほどの原稿をつくった年もありました。この仕事を4年ほど続け、500社ほどは取材ができたかと思います。
仕事はとにかくおもしろかった。企業をセグメントせず、どんな案件でも受ける特殊な部署にいたので、社長一人だけの会社から、社員数万人の大会社まで話が聞けました。はじめて知る職業があり、はじめて知るビジネスモデルがあり、はじめて知る人生がありました。「ビル管理」という肩書の向こうにも、「CEO」という肩書の向こうにも、それぞれのオリジナルでおもしろい人生があり、やっぱりぼくはそこに焦点を当てた取材をし、そこに焦点を当てた原稿をつくっていました。

コーチングで自分を知る
その後は順調に仕事漬けの数年を送り、30歳手前で別の会社にコピーライターとして転職をしました。そんな折に、知人の紹介からコーチングを受ける機会を得ました。知識としては知っていたものの、実際に自分で受けてみるのははじめての経験です。「ストレングスファインダー」というサーベイを受験し初回セッションを受けたのですが、ここで大きな違和感を感じたのです。サーベイの結果で出た上位資質が、自分がこれまで理想としていた自分像とかけ離れていたためでした。自分では自分を「チームを背中で引っ張る行動力のあるリーダー」だと思っていたのですが、出た結果は「着想・内省・適応性・収集心・親密性」。理想とは離れた資質がでました。こんなはずはない、と思わずコーチに食って掛かりました。ですがそこは熟練のコーチ、じっくり振り返りと捉えなおしに伴走してもらいました。落ち着いて振り返ってみると、たしかに自分のこれまでの行動とサーベイ結果はリンクしていました。仕事での役目を果たそうと気負っていた影響で、勝手に頭の中で作り上げていた理想像を自分だと認識してしまっていたことが原因だったと思います。改めて自分の資質を意識しながら動き方を考えてみることで、今までよりも気楽に決断することができるようになってきました。この時コーチと一緒に振り返った自分の人生は意外とおもしろく、これを契機に、コーチという仕事にも興味がわき始め独学で勉強も続けていました。

伝える手段は言語だけじゃない
30代半ばになり、組織の一員として役目を果たし世の中に大きな影響を残す、というはたらき方から、より自分の影響力を身近で感じられる場所で活動したい、という気持ちがつよくなってきていました。この頃にはコピーライターの仕事以外に、若手社会人や学生と面談をする機会も多くなってきていました。取材経験を通して世の中の仕事については一通り知見があり、学生時代に勉強していたカウンセラーの知識と、独学で勉強していたコーチングの知識が意外と重宝されていました。(ちなみにWithコーチの泉さんとはこの頃のお仕事で出会っています。)
キャリア支援系の新規事業をいくつか担当した後、2016年からは奄美大島という離島で予備校事業と日本語学校事業を任されることになりました。東京で企業を対象に企画として仕事をしていたところから、島の高校生や海外の留学生を対象にした事業全体を見る立場への転換です。日々勉強でした。特に日本語学校は戸惑いの連続。ルールも違えば文化も言語も違う。何かをやってほしくても、会話だけでは動いてくれない若者たちが対象です。どうやれば伝わるのか考えた末、何かあれば直接彼らの寮に行ってご飯を食べながら伝える、ということを続けました。お互いの家族の話をし、写真を見せ合い、何度も乾杯を繰り返す。彼らは屋内では上半身裸になることが多かったので、文字通り裸の付き合いです。彼らにとっての日本留学は、人生を大きく変えるための大挑戦です。彼らもそれぞれの家族と自分の人生のために、引けない部分を持っています。たどたどしい日本語でも、将来について、やらなければいけないことについて、こちらとしても学校として目指したい姿について、何度も話しにいきました。ご飯を食べているときには和やかな雰囲気が、こちらが伝えたいことを話し始めるとまた凍り始める、という繰り返しでした。3年目あたりから、こちらの言っていることが嘘ではないと伝わり始め、ぼくの言葉を代弁して後輩たちに母国語で伝えてくれる生徒が現れはじめました。彼らが間に入ってくれたことで、一気に伝わるようになりました。
残念ながら2020年から世界的に広まったコロナウイルスの影響で、日本語学校は閉じることになりました。ですが、島に残っている留学生たちはまだ10名ほどいて、今も交流しています。

誰かの物語を聞きたいし、伝えたい
まだ40歳になったばかりの若輩ですが、いくつかの転機を経験してきました。友人の話ばかりを母親にしていたぼくは、その後の30年で人の話を聞く経験をたくさん積んできました。人の話を聞くことを仕事にもしました。今でも変わらず人の話を聞くのが好きです。どう考えて、どう動いて、どう生きていくのか。徹底的にその人自身が現れたおもしろい物語を聞きたい。そしていまだに、自分だったらいろんな人のおもしろさを見つけられる、という自信があります。それにコピーライターを経た今だったら、見つけたおもしろさを他の人にも伝えられる気がします。

ちなみに、何となくモヤモヤした心の状態は、そのままでは明確なエネルギーを持ちにくいと思っています。何か事態を変化させたいとき、そう思う気持ちと原因、その対策を一つひとつ書き出していく。それが捉えどころのない気持ちや意識を、次に進むたしかな足場に変えていきます。書き出した文章は、頼れる人に相談する際の材料になります。また、あとで自分が振り返る際の目印にもなりますし、自分の向かう先に共感する仲間を呼ぶ旗印にもなります。これまでは企業に向けて使ってきたこのスキルを、今後は誰かのためにも使っていきたいと考えているところです。

コトバ化の鉄人 星野良太
聞く→コトバ化。幼いころからとにかく読書好き。受験期に読んだ本から心理学に興味を持ち、大学は心理学部へ。ある日図書館で出合ったカール・ロジャーズの「受け入れてくれる存在があれば、人は自ら望む方向に向かう」という考えにビビビとくる。2005年からコピーライターとして企業や人への取材を続ける中で「聞く力」の存在に興味を持ち始め、2009年に自身でもコーチングを受け「主体的に生きようとする人にとっての聞き役」という役割の重要性をはっきりと知る。その後、進路に悩む大学生への支援や場づくりにも取り組み、2016年には奄美大島に移住し地元の高校生たちを対象にした塾を運営。企業や人が目標に向かう過程を見るのが大好き。



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