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私はサイコパスに近い?安倍元総理の事件で感じたこと

安倍元総理が銃撃され亡くなった。
その日の会社での雑談、テレビやTwitterは事件についての話題ばかりだった。
当日夕方までは死亡と診断されておらず、演説中に近距離から撃たれたこと、意識がないこと、犯人についての多少の情報があっただけだ。

私は言論の自由が暴力に屈したという事実、銃が日本社会で一般人が起こす事件に使われた事実(後に手製の銃と発表されたが、当初は散弾銃という話だった)は今後の社会を大きく変える可能性があり、大きな問題になると感じた。
しかし安倍元総理が亡くなった事実に対してはショックではなかった。政治家という職業上、恨みを買うことも大いにあるだろうな、という気持ちしかなかった。
知り合いでもなく、個人的に好ましい経歴や業績があるわけではなかったからだ。

しかし周りの反応やネット上では亡くなったことに対するショックもとても大きかった。
後日の通夜や献花に訪れた人の多さにも驚いた。
模倣犯や愉快犯による同様の事件が起こってもおかしくない状況なのに。

私は他人への感情がとても薄いのだな、と改めて思った。
親族や友人に対してすら冷たいと言われたことがあるし、さらにそれは一度ではなかった。
そんな私なので、赤の他人が不幸に見舞われても対して心は動かないのだ。
今回の事件を受けて、友人やその家族が本来保障されるはずの自由を奪われたり、暴力に遭わないように、とは思う。特にその子供たちが危険に遭わないように、と祈りはする。
でもそんな思いは刹那的なものである。

サイコパスとまでは言えないが、私は一般的な人とは感覚が違うのかもしれないな、と改めて感じさせる事件であった。
それよりも安倍元総理の森友はじめ各種疑惑はきちんと事実が明らかにされていたのだろうか?
事件を理由に有耶無耶にされないか?と疑ってしまうあたり、ダメだなぁと思う。

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