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「こちら側のどこからでも切れます」と人生。

もはやこれを思ったことのない日本人はいないのではと思いますが、
「こちら側のどこからでも切れます」は嘘では。

本当か?
と思って、袋のど真ん中から切ってみました、切れた。
切れた、が、めちゃくちゃやりづらい。

多くの人が「こちら側のどこからでも切れます」と書かれているにも関わらず、だいたい同じようなようなところを切るのはとても理にかなっていて、納得のいくことだと理解した瞬間でした。
かつ、「どこからでも切れる」は嘘ではなかったものの、「どこからでも切れますが、本当にそこから切ったほうが良いかはわかりません」というメッセージを受け取った瞬間でした。

これは拡張しすぎですが、なぜかその瞬間

「人生―――?」

と。

これはあくまで私の価値観であることを前置いておきます。
窮屈インターネッツ。

いまや多くの人が小中高と就学し、その半分が大学に進学し、私がそうしたように、就職活動をし、働き続けます。
違う、違う違う、オンラインサロンを開設したいわけではなくて、圧倒的成長を求めて「普通」を脱却しようと諭したいわけではなくて。
むしろその逆とも言えるのですが。

いわゆる王道コース、人によっては「敷かれたレールを歩む」と呼ぶコースは、最低限の安定性があります。
今も、これからもよほど自分にはどうしようもないことがない限り職はあって、つまり最低限安定した収入があって、飢えることなく生活できる。
その分お金もかかるし、試験を通らなければいけない。

その一方で、未踏峰コースと言ったら良いでしょうか。
自分自身の選択にしろ、のっぴきならない事情があって選ぶ余地がなかったにしろ、たとえ小学校を卒業していなくても世の中には何かしら生きていくための道はあります。
しかし、今の私たちが生きる日本の構造の中でその道を選んでいくには、王道ルートとはまた別の、ときに相対的にそれ以上のハードシップを抱えることになります。

これは余談かつ、人によって不快に思う人もいるかもしれませんが、ただ選択をしたくないがために生活保護を受けるなり、親のお金で生きるなり、しても良いと思うんです。
それが可能なら、活用すれば良いと思います。
ただ、それが大多数にはなってはいけないとも思います。
生活保護に関しては、条件があるので現実的かどうかすら、という話ですが。

閑話休題

最近うっすら感じているのは、未踏峰コースを選ぶこと、または未踏峰コース出身であることそのものに価値を置いている人が多いのでは、ということ。
いえ、もちろん自ら選んで行った勇気や、選んだわけではなくとも腐らず努力し何か勝ち取ったその努力は素晴らしいことだと思いますが、つまりはそういうことではないですか。
選択ではなくその後の蓄積物に価値があるのであって、選択そのものに評価の比重が寄ってしまってはいけないと思うわけです。

後出し保険をかけると、比べるだけ無粋と言われればそこまでだし、おっしゃるとおりだと思う

結局のところ、たんにルートではなく、行程と終着地が大事なのであってだ、と言いたいのだと思う。フム。
あぁ、しっくりくるのは、「自覚もなく個性的な人」と「個性的になろうとして個性的なことをする人」は違うよね、みたいな話。
どちらが良い、悪いという話ではなくて、じゃあその人の個性的が素敵ね!すごいね!とされる判断材料は何?というか。

この先余談を書いていたのですが、あまりに長ぇので別記事に分けます。


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