わたしは与太郎になりたい。

むかしお世話になった方が、落語には与太郎が出てくると仰っていた。その方はお子さんが「発達障害」で、お子さんを与太郎に重ね見ていたのかもしれない。おバカで、にくめない、愛される与太郎。江戸時代は与太郎をみんなで少しずつ助けるコミュニティがあったそうだ。そこからふいに与太郎を思い出すことはあったけれど、立川談慶さんの『落語はこころの処方箋』を読んで江戸へのあこがれは募るばかり。一人で全部背負い込むのは無理だけれど、長屋に住む一人一人がほんの少しずつ「迷惑」を分け合って与太郎を助けてあげる。与太郎はへらへらと声をかけられるまま素直に行動する。派手な服を着て朗々と語って踊りながらものを売れと言われれば即行動。私だったら恥ずかしさが先に立って躊躇してしまう。こんなに素直だからみんなほっとする。赤ちゃんみたいなものなのかも。「迷惑」ばかりかけられるけれどそこにいてくれるだけでみんなが笑顔になる。愛したくなる。

『落語はこころの処方箋』のすきなことばたち(引用)
・落語は「人間の業の肯定」
・ストーリーはネタバレしていますし、設定は古いですし、笑いのボルテージだけで言ったら、漫才やコントにはかないっこありません。つまり、勝ち負けで言うならば、落語自体が「最初から負けを意識して作られているのでは」とさえ思えてしまうのです。
・〜落語自体が、負けから始まっているから、どう転んでも強いのでは。だから今こそ、そこから学ことがたくさんあるのでは」と。
・談志は、何か物事を処理するために、他人の作ったもので処理するのが「文明」で、自分の力で処理するのが「文化」だと言いました。
・「与太郎はバカじゃない。非生産的な奴だ」
・「囃されたら踊れ」(紀伊國屋書店創業者の田辺茂一さんが立川談志師匠に言ったそうな)

落語には「笑いを多く取った方が勝ち」という価値観はなく、トリの人を引き立てるためにその直前の人は話を短く切り上げたりするらしい。京都御所にあるけまりの掛け軸と解説を思い出した。平安時代、けまりは玉を落としたら負けなのではなく、相手が受け取りやすいように玉を蹴ることがうつくしいとみなされたらしい。なんか、日本人の美の感覚が凝縮されている感じ...!今はより短く、意見は理由とセットで、という西洋的な考えが浸透しすぎて息苦しい。英語圏は相手に質問することで「私はあなたに興味あります」と示すコミュニケーション文化なのでしょうがないのし、仕事する上で楽だし大事なんだけど。でも余白がほしい。こどもみたいに与太郎みたいに「へ?理由?とくにないけど。なんか楽しいから」とゆるっと続けたい。書道も、絵も、ダンスも、音楽も。文化が爛熟するのは平和だから。ちなみに300年の平和が続いた江戸自体では、あくび教室なるものが開催されていたらしい(落語の世界の話だっけ?実話だっけ?忘れてしまった...ぜひ『落語はこころの処方箋』を読んでいただきたい)。究極のMUDA!!すき。

いろんなことで苦しくなる今の日本で、わたしができる唯一の対抗策は「非生産的な」ことを自分の魂にしたがってやり続けること。心と体と魂で感じたことを、思考を使って実現させていくこと。「コスパ悪いからやらない」ことが実は「コスパ」を悪くしてたり。ぜんぜん「うまく」生きていけない。与太郎になるのはすごくむずかしい。だって自分を世界にバーン!と曝け出しているから。それができるように人生修行だ〜。のんびりと。吉本ばななさんの「花のベッドでひるねして」を読みたくなった。
効率や理由や数字や成果を成長を求め続けられる資本主義社会を舞台に、違うことをやらない・自分に従い続けるゲームだと思って生きる!


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