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勝者の歴史、敗者の歴史

私は神社仏閣に行くのが大好きなのですが、(神社マイラーと呼んでください) 靖国神社だけは、どうしても今まで行くのに抵抗があったのですね。 ※こちら数年前の記事です

私はもともと霊媒体質だから、子供の頃から軍人さんの霊をくっ付けることがよくあって、戦艦大和の歌(歌詞)を聞いては、感情移入して号泣したり、
テレビで見た長門の最期に慟哭して嗚咽しちゃったり、(私にくっ付いていたのはどうも海軍さんらしく・・・)軽飛行機の音を聞いたときに、「奇襲攻撃だ!」などと怯えて、恐怖で身構えてしまったり、お昼のサイレンの音には、「空襲警報だ!」と、体がビクッと反応してしまったり…w
(過去生からくるトラウマではないです)

それなのに、靖国は苦手で、行きたいとは思わなかったり、で。

でも、ふと先日…「そうだ! 靖国に行かなければ!」と、思い立ったり。

今まで「あまり行きたくない」と思っていたのは、別に、A級戦犯を祭ってあるからとか、そのような理由ではなく、あの神社の背景に対抗があったのでしょう。たぶん。

何故行くことにしたのか、その前の布石として、youtubeで、それを目的として検索したわけではないのに、たまたま、桜井よしこさんが討論を展開している靖国談義の番組を見たんですね。ホント偶然ですが。(桜井さん、好きです) いつも神田や神保町までは、ウォーキングで行ってるので、さして変わ らない距離だし、徒歩でと思ったものの、この暑さ。流石に行きは電車にしました。

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近くまでは行ったことがあるものの、避けていたその場所は、
他の神社と比べても、ホントやっぱり独特で。

色んな人の思いが交錯して、寄せられている場でもあり。でも、以前ほどにはイヤな感じはしませんでした。

本殿に参り、ご朱印を頂いてから、鎮霊社のあるほうへ・・・正直、『本殿』や『拝殿』には何も感じるものがなかったけれども、鎮霊社や元宮のほうが、感じるものがあって。

そちらを詣でてるとき、気配を感じて振り返ると、入り口のほうに、立派な軍服を着た、涼やかな若い軍人さんが、敬礼をして下さって。
(勿論、生きてないです。今に生きる人ではなく)

お参りをしたら、次には乃木神社にも行ってみよう、
などと考えていたのだけれども、

せっかくだから、じっくりここで過ごして、あれこれ、『ここ』がどういうところなのか、考えてみようという気持ちになり、遊就館も見てみることにしたのでした。

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思うに・・・
『正しい戦争』なんて、地球上の何処にもないんだよなあ、ってこと。
『正しい歴史』というのもないんだよなあ、とも・・・

私の世代だと、親から戦争の悲惨さを繰り返し聞かせられたもので。

それは、
身内が召集されて戦死したとか、戦争で不具になった人の話とか、空襲の怖さとか恐ろしい体験とか、モノの無い生活のこととか、戦時中の言論統制のこととか恐ろしい教育のこととか、威張り腐った軍人や憲兵たちが市民に行った理不尽なこととか、食べるものが無くて、飢えを経験したこととか、薬がないこととか、戦争が終わっても、モノがなくて、苦しい生活を強いられたこととか。

そうしたこと。

そして、テレビドラマでも映画でもアニメでも漫画でも、「戦争は悪い」と言い、「あの戦争は間違いだった」と繰り返し私たちに刷り込むことをし、

そうした意味で、客観的に事実を捉えることができないほどに、
必要以上の罪悪感と自虐的な加害者意識を植え付けられたように思う。

(でも、在日の人に対する差別はそんな中でも改められることはなく、欧米人には尻尾を振って、『悪うございました』と、彼らの文化に迎合するサル真似文化人ではあっても、中国や韓国の人に対する誹謗中傷と、差別的な態度は、今のほうがむしろマシなくらい、酷いものだった)

あの『戦争』がどういういきさつで始められたもので、続けざるを得ない戦であったにせよ・・・正しい戦争なんていうものは、いつだってこの世には存在しないのだと思う。

だから、日本がとった道が、「正しい選択」だとは思わない。
でも、その道を取らざるを得なかったというのも、事実なのだと思う。

『正しい歴史』を教えていないのは、韓国だけでなく、中国も日本も、そしてアメリカも、何処の国も同じなんだろう(韓国は酷すぎるけど)。

私たちもきちんと事実を把握していないし、その機会も与えられないままにいたし、欧米式の解釈を正義とした教育を疑いも無く受け入れてきたし、
それに疑問に感じることなく、自分の頭で考えることもしてこなかった。

それ以前に存在した戦争、侵略行為は蚊帳の外で、
あの戦争を起こした、ドイツと日本が悪いことをしたという認識のまま。

中国の人も韓国の人も、すべてを「日本」のせいにだけして、誰かを悪役にすることで、国民の不満を別に向けさせ、国民を操ろうとする、政府の情報操作や思惑に引っかかったまま。

なぜ、『五族協和』という思想が生まれたのか、かつての日本がそんな理想を持ち出したのか、それに引っかかったり、乗っかった人が大勢いたのか、
そして、あの『戦争』の前の後で、アジアの地図がどう変わっていったのか、『植民地』がどういう道をたどったのか、

たぶん誰も正しい知識をきちんと学んでいない。

アメリカもイギリスも、その他の国も、
すべての国が、『正しく』歴史を記してきた試しがない。

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~昭和39年社会党の佐々木委員長が、毛沢東主席に、
 「中国国民に多大なる損害をもたらして申し訳ない」
 と挨拶したところ、
 「何も申し訳なく思うことはありませんよ。
 日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。
 中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。
 皆さん、皇軍の力なしには、
 我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう」~

人は、個人の経験、感情を通してしか、事実を認識できない。個人の立場でモノを考え、自分がさらされた立場で、物事のよしあしを解釈する。つまりは自分がどういう経験をしたか、がすべてで。

個人的経験が全体としての一部にしか過ぎないことなど、
想像したり、理解したりすることができるわけもなく。

けど、それが悪いわけではない。

悪人と善人を、民族や国籍で分けられるものではなく、日本人にもアメリカ人にも、善人と悪人がいるように、あの戦争で、中国や韓国の人に非道いことをした日本人がいるのも事実。

自分たちの身内に残虐な行為をし、命を奪い、強姦をし、土地やお金を奪われ、家を焼かれ、田畑を荒らされた人もいて、そういう人からすれば、日本人は侵略者であり、敵だったろう。

でも、日本人と友好的な関係を築き、助けられたと、
そう感じている人たちもいたりする。

日本人のことを、自分たちの英雄を監獄から救い、国を植民地化し、侵略する欧米諸国を追い払ってくれた友と、そのように讃える人たちもいる。

日本が捕虜とした欧米人たちを人体実験したのも事実。

この戦争は正しくないと異議を唱えたことで、
言論統制で逮捕され、リンチされ、命を落とした人もいる。

愛する人を、戦争に取られて、家族の絆を引き裂かれた人もいる。この戦争は是が日でも続けるべきだと、主張した人の中には、純粋に理想論からだった人もいるだろうし、そうでなくて、狂信的な考えや私利私欲を貪るために、戦争の継続を押し通した人もいたかもしれない。

琉球の、沖縄の人たちやアイヌの人たちと本土の人たちでは、
この戦争に対する『思い』の温度差に違いがあったはずだ。

みな、それぞれの立場で、
『戦争』に対する捉え方は一様に異なっていて当たり前で。

つまりは、日本人に酷いことをされた、人がいて、日本人に助けられた、人がいて、実際に戦場で、悪いことをしたと罪悪感に苛まれている日本人もいて、アジアの同胞を欧米諸国から救済したと誇りを持てた日本人もいて、

皆それぞれの経験が事実で。

結局は、個人的経験がどういうものであったか、がすべてで、
人は、個人的体験からしか、物事を図れないってことなのだ。

個人の主観にとっては、国が正しいことをしたとか、そういうことはあまり問題がなくて。とくに・・・一般市民にとってはなおさら。

参加させられた側、実際に戦地に行かされた人々と、家族を戦争に取られた人と、作戦を考えて遂行して、指揮を取る側にあった人と、その後で責任を取らされた人々と、それぞれにあの戦争の景色と意味は違うのだろう。

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さて、靖国神社に行って、改めて知ったことは、

靖国とは、別に、あの『戦争』に関する戦死者たちだけを祭る場所ではないということ。歴史としては決して古いものではなく、比較的新しい神社ではあるけれど・・・

それぞれが信念の違いこそあれ、結果的に誤った思想に走ってしまった人々であれ、『国のためを思い』散っていった人たちの、慰霊の場であるということ。

そういう意味で、加害者たる敗戦国が故に、被災国からして「戦犯」となってしまった人とは言え、国のため、『国益』のために、と・・・自らの任務を遂行し、職務に忠実であった人々が祭られることに、何の咎もないのではなかろうか?と、思った。

確かに、結果的には『間違った』のかも知れないけれど。
誤った信念や考えで、自らの舵取りを失敗した人もいたかも知れないけど、

でも、結果はどうであれ、『動機』の部分に、国のため民のためという思いがあった人たちとするならば、かつて対立しあった人と言えど、それぞれが違う立場にあり、違う道を選択してしまっただけの人たちで、同じ場所に祭られることは、何らおかしいことではないのではないか?

・・・と、思った私なのでした。

とくに今更ながら、
パール判事の「日本無罪論」を読んだりして、そう思うのです。

~復讐の欲望を満たすために、
 たんに法律的な手段を踏んだにすぎないというようなやり方は、
 国際正義の観念とはおよそ縁遠い。
 こんな儀式化された復讐は、
 瞬時の満足感を得るためだけのものであって、
 究極的には後悔を伴うことは必然である~

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東京裁判は、勝者の敗者に対する復讐だったわけで。

原爆も、やはり 私たちがキリスト教国ではなく、白人でもなく、彼らして下等の、植民地として征服されるべきアジア人であって、その本来、服従すべきアジア人が噛み付いたことによる、復讐を伴った「実験」だったのだな・・・と。(実験のことは、「はだしのゲン」を読めば判ります)

私たちが裁かれるべき国民として、あの戦争の罪を問われるのであるならば、これまでにこの地上で行われた、すべての戦争が裁かれるべきで、戦争に至らないまでも、一方的な征服(植民地化)などをした国も、同様に裁かれて、その罪を贖わなければならない。

過去に遡って、その国家が国家として成立した以降のものに関しては。

アジアやアフリカを植民地カしたことに対する罪。
そのことによって、その国家がこうむった多大な損害に対する賠償。

日本が強いられるならば、です。

ていうか、それを日本に言うなら・・・ってこと。アメリカも先住民の土地を奪っての侵略国家だし。イギリスもアイルランドやウェールズに対する罪がある。911の事件だって、アメリカがイスラム国家に撒いた種でもあるし、中南米に対する干渉の罪もある。

日本以上の罪を犯してきた国々が、どうして自分たちこそが、正義と法の剣を振りかざして、自国を侵略される脅威に対して、はむかった国を、当然のように裁くことができたのか?

ここに「差別」がある。自由の国が抱える問題と、矛盾の根がある。

うーん・・・なんかね。かつて私もいろんな国の人間だった。今は日本人だけれど。征服する側の国の人間だったこともあるし、征服された側の人間だったこともある。

どうして、人はそうやって、愚かなことを繰り返すのだろう?と、つくづく考えたりする。なんか、まとまりがないのですけれど。思いごと、だらだらと・・・・なのでした。

※靖国では、軍用犬や軍用馬として亡くなった動物たちの慰霊碑もあって、
戦場で人間の身勝手さの犠牲になった、犬たちや馬たちのことを思うと、胸が痛くてたまらなくなった。どうも、私は同胞たる人間のことよりも、薄情といわれても、動物たちのことに意識が向きがち。映画「影武者」でも、戦場で苦しむ馬たちの姿にもう、号泣するしかなく・・・(そんなところもリアリストな黒澤監督)

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