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昨日書いた記事の、補足と言うほどでは無いのですけど…
蛇足的な関連話と、ちょっとした話などなど。

霊とか過去生のパーソナリティとしてのエレメンタルを説得するときの方法(対話モデル)で参考になるのは、下記の本かと思います。
また、死後に反省部屋へと送られた霊の体験談も、こちらにちらりと書かれていたりします。参照まで。

とは言うものの、すでに絶版本となっており、中古本が高額で売買されているのみなので、気軽に購入しにくい本かも知れませんね。

また、現場のことが解っていないと、読み物としてはともかく、この「やり取り」を理解して応用するのも、ハードルが高いかと。
書かれている内容…と言うか霊側が語っていることのすべてが真実というワケでは無く、彼らにはそう感じられている(事実としてそう捉えられている)だけのことも多いので、知識が無いと見抜けなくて、霊からの情報がすべて真実と信じてしまうのもちょっと危険かな。特にブラバッキー夫人のところ。彼女がいる場所は閉鎖的なところだから、自分のいる場所しか見えず全体が見えてなくて、その制限された枠の中の一部をすべてと信じ込んでいるので、無知なことを言っているのでした。あの世の世界にいる…亡くなった人が言ってるからと言って、その人がすべてを理解出来る段階の人とは限らないのです。

※このようなセラピーの現場(施療)では何が真実で虚構かと言ったことを問題視するのはまったく無意味なことなんですね。ようするにセラピーを成功に導くことにこそ、主眼を置くべきなので。未成仏霊や過去生のパーソナリティを相手にする時にはその人を納得させて(癒して)、行くべきところに導く…その目的のためには嘘も方便も真実も、どうでもいいのです。


知識だけで無く、「視えてない」と無理ってのはあります。いやさ「視えて無くても」ウィックランド博士はそれが出来た人なわけですが…それはマーシー・バンドという霊団(透明なヘルパーたち)ありきのこと。何よりも秀でた霊媒である奥さん、交霊会に参加していた3次元レベルでのサポーターとしての参加者たち…と言った存在があってこその成功なんですよね。
残念ながら、誰にでも出来ることではありません。

というのも、トレーニングを積めばいい様にも思うのですが、問題はそればかりでは無くて…チームで行う仕事ですから、あちら側の都合と言うのもあるのです(これはあちらの世界との契約的なものになるのかなあ)。

私がやっていることは、この本で行われているようなこと、こんなとこですって感じかなあ…審神者みたいな感じで、こんな風に進めているから。

そして依頼して手伝ってもらっている透明なヘルパーたちは、属している白色同胞団の人たちやご縁のあるエレメンタルとかとか…になりますかねぇ。私自身の過去生のパーソナリティたちも手伝ってくれてたりします。

で…
クライアントさん自身に視て頂くことが多いわけですけども。
(見えない解らないって人は、私の方で一方的にやっちゃいます<リーディングと解説をしながらの施療)

中には記憶が混在していると言うのかなあ…他のデータとこんがらがっちゃっている人もいるのです。バグを起こしているっていうのかな、レコードの針が飛んでしまう状態。もしくはデータの一部破損や欠落などと言うか~
そこだけ消しゴム掛けられちゃってたり、シール貼られてしまっているような状態ですね。
もしくは正常性バイアスが働いたかのように、自分に都合の悪い部分を上書き・書き換えて記憶(記録)している場合があったりとかとか。
過去生の一部の情報が記憶喪失状態になっちゃってる感じ?

「記憶は嘘をつく」ので、生前から自分に都合の良い様に覚えている人も多いわけですけれども…

その情報が嘘であるか本当であるかは、あまり大した問題では無いのですけれど…

他のデータと癒着(混在)していて、何処からどこまでがその人生の記憶(エレメンタル)で、交ってしまっている別の人生のデータの部分はどれなんだ?? 
…ってのを、主観が働いてしまう当人自身が見分けるのは大変で、はっきりいってムズイです。
てなわけで、こちらから寄り分けると言いますか…その人が読み込んでいる自身の中に保存されている、個人データとは別のデータと照らし合わせて、精査していく作業を第三者が行う必要性があったりします。ダブルチェックみたいな?

先日もそのような方がいました。そういう場合はこっちから、こういう人生です、こういう内容です…って言っちゃったり、導いてしまいますけどねっ ヒントを与えて誘導する感じで。

自分で視たり、体感することが出来ると、その感情の元となっている人生を追体験し、確認も出来るので、現在のパーソナリティである当人にとっては第三者からの情報として耳に入れるよりもダイレクトに腑に落ちるし、色々と納得出来ることも多くて癒しも解放も早いのですよ。
ただ、過去生のパーソナリティを説得させるためにはそれだけではダメなので(現在の人格だけでなく、過去生の人格も癒さないといけないから、ネゴシエイト的な話術が必要なんですね。現在の人格と過去生の人格の価値観は必ずしも一致しているわけではないので)、そこが審神者としての私の腕の見せ所? いやさ責任重大なところです。
(きゃー!プレッシャーがハンパ無く重いぜいっっ)

で、あらゆる過去生の人格と対話するためには、当時の時代背景や価値観に対する基本的な知識と理解が必要になってきます。例えば、文化や民族や戦争とか国同士の関係性、昔の国名・民族名・宗教・道徳観念などなど、雑学的な知識もね。共感力も大切なとこですが。出来れば地理にも詳しいとモアベター。しかし私は地理弱いです(チリソースは好きだけど)。

故に、日々勉強と知識吸収の日々。必然的な予習はよくさせられます。別に霊がすべてを教えてくれるわけではないんで。

【ルナティック(Lunatic)
英語で狂気を指す語句。かつてのヨーロッパ圏の文化で月(ラテン語でルナ)が人を狂わせるとされたことに由来。西洋では古くから月が人を狂わすと信じられてきた。そのため、月(luna)によって狂った人間をlunaticと呼ぶようになった。
 形容詞としての用法
(けなして)狂った、または、とてもばかげた。キチガイな。常軌を逸した。
(やや古い言い方)(侮蔑的表現)精神異常の。
 名詞としての用法
(けなして)狂った行動をしている人。キチガイ。
(やや古い言い方)(侮蔑的表現)精神的におかしい人。精神異常者。

昔から月は人にロマンチックでメランコリックな郷愁も与えてきましたけれど、同時に月を見ると不安になる心がざわつく、自分の中の狂気じみた感覚や想いが引き出される気がする…なんて人も少なくないです。(満月の日に変身する狼男の伝説とか、月を見て多重人格の入れ替えが起きる人とか、フィクションのモチーフによく使われます)
月の光は人を狂わせる…と言うように。

それはやはり…中には「月での記憶」を呼び起こされている人もいたり、月からの良くない波動(月にはたくさんの死刑囚や終身刑級のネガティブな霊やエレメンタルがいて、彼らの流刑地で巣窟ですから)の影響を受けている人がいるからかも知れませんね。

そして、「かぐや姫」と言う存在は…
もしかしたら「月から脱獄」した稀代の悪女(脱獄囚たる囚人)で、月からお迎えに来た使者と言うのは彼女を捉えに来た看守なのかも知れませんww
だとしたら、彼女が到底達成することの出来ない無理難題なチャレンジを出して、求婚者たちを死に追いやったのも納得出来るかなあ…

次はクライアントさんから聞いた話。

その方が姉妹の方と車で、某県の修験道のお山に行った際、途中とある場所を通りかかった時にゾッとする感覚を覚えたそうです。それはたくさんのお坊さんたちからジロジロ見られている…というような感覚で、何故かそう思ったとのこと。
そして山に行って以来、一人の僧侶の霊らしき存在が自分の傍にいることに気づいたものの、とくに悪意は感じず、実害は無かったそうなので、そのままに。

…で、もうあの山には行きたくないと思っていたならば、また行こうと誘われたそうなんですね… なので、姉妹の方にはそうした感覚は無いのですが、その手の不思議体験話はOKな人でしたので、なぜ行きたくないのかと…以前に感じたことを話したならば…

「お坊さんの世界も、教師の世界と同じで、イジメとかあるのかしらね」

…と。姉妹の方が何気なくそのような言葉を口にされたそうです。実際はもう少し長いセリフだったようですが。(お二人とも教育関係の方)

するとその瞬間に、一緒にいた僧侶の方がいなくなったのだとか。気配が消えたというか、スッーと消えた感じ。

はい。そうです。無意識のうちに言わされた言葉にせよ、何にせよ、その僧侶の方はその言葉に救われたと言いますかね。「ああ、自分はイジメられていたんだ」と改めて他人からの言葉を聞くことによって、自分がされていたことを自覚したというか、確認出来たと言いますかねっっ 
言葉を聞いたその瞬間に彼を縛り付けていた呪縛が解けたんですね。想いがほぐれて「でもでもだって」な罪悪感や、自分を責める気持ちと言った執着が外れた…みたいな。

はい、DVやモラハラ被害者が薄々自分でも気付いていたものの、自分が悪いからだと誤魔化誤魔化していたものの、他人に言われたことで「やっぱりそうだよね」と自覚し、自らに掛けた呪いのような縛り、自己暗示が解ける瞬間…あれと一緒です。

頭の中では「こんな目に合うのは、自分が悪いせいだ。まだまた修行が足りない。これは試練だ。修行だ。自らが背負った宿業のせいなのだ。兄弟子たちは自分のために厳しくしてくれているのだ。だから、ありがたい苦行として受け止めなくては…」などと自分に言い聞かせつつ、何処かで納得出来て無くて、辛い気持ちを抱えて、しんどくて…割り切れない思いが行き場を失っていたんです。

でも、イジメはイジメです。イジメは心を殺す行為です。言葉の暴力、体罰…どんな世界にもあります。愛のない指導は虐待以外の何ものでもありません。聖職と呼ばれる職業・業界にさえも、人を啓蒙し導く仕事に就いている人であっても…残念なことにイジメは存在しますし、イジメをする人は減りません。不真面目で不誠実な人も変態もキチガイもいますし、戒律を犯して、道に背く生き方をしている人は一定数います。

彼…その僧侶の方が、その言葉ひとつだけで上がることが出来たのは、真面目に精進し、学んでいた人だったからこそでしょう。そんな方が命を絶たれてしまったのは、損失とも言える悲しいことでした。でも、それもダルマだったのかなあ…
また、そのクライアントさんがその不愉快な視線に気づけて、その僧侶の霊を拾うことになったのは、かつて仏門に帰依した人生をお持ちの方だったが故だったりします。

さてさて、その寺は…かつてあった場所であり、今はもう無い場所で、その昔に起こった出来事という事で。

はい。そんなこともよくあります。
いつまでも「想い」は時の流れ関係なく、癒されるその時まであり続けるものなのです。

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