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総括、あるいは大きくて小さな世界について

 それを知るためにも、足を動かそう。知らない景色が見えるまで、足を動かしつづけよう。
 どこまでいっても、世界は広くて、新しいなにかは必ず見つかるから。
 ちょっぴりこわいけど、きっとできる。
 だってーー。

宇宙よりも遠い場所

 遠くで、でも目には見えて、耳をすませば音が聞こえるくらいの遠くで、チリンとベルが鳴っている。わたしは友人たちが店内へと入っていくのを、後ろのほうから見つめていた。

 スウェーデンに来て、半年が経った。半年が経ったということは、ちょっとした浮世離れな生活が終わりを迎えるということだった。降り立ったときには、雪と氷が蓋をしていて見えなかった地面にも、いつしか草花が育ち、いまや憎たらしくも花粉を飛ばしている。一日のうち三分の一にも満たなかった日照時間は、丸一日へとのびてしまった。変わっていないのは、あたたかくなったとはいえ、それでもいまだに寒さを感じるということくらいだろうか。

 ヨーロッパに住むのは人生で初めてのことだった。わたしたち日本人は、なんとなく欧米を海の向こうとして同一に扱っているけれど、住んでみると、アメリカとヨーロッパでは全く性質が違うことがわかる。あたりまえだけれど、辿ってきた歴史も違えば、培ってきた文化も全く違うのだ。ヨーロッパという地域、アメリカという合衆国はなにか総体的に見ることができたとしても、欧米という言葉は、極東の島国が扱うにはどうやら大きすぎるみたいだ。それに気がつけただけでも、ここに来た甲斐があったというものだろう。

 いや、そもそも世界はヨーロッパとアメリカだけで構成されているわけではないのだ。月並みだけれども、そう、世界には多くの国々がある。日本にいるだけでは、世界にアフリカがあることも、中東があることも、案外気がつかない。気がついていないことすら、気がついていない。目の前にあり、国の名前は知っているのに、なぜかそれらは網膜で像を結ぶことなく、透明なまま見過ごされていく。わたしたちは意外にも世界の蚊帳の外だったりして、だからこそ蚊帳の中を覗く努力をしなければ、なにも分からずに、始まって、終わってしまうのだ。

 それは共同キッチンでの会話だった。わたしの住んでいた寮では同じ階に住む十二人でキッチンを共有して使うことになっている。寮というだけあって、そこには、現地のひと以外も多く暮らしている。わたしのところには、スウェーデン、イタリア、アメリカ、インド、シンガポール、香港などがいた。まったく喋らないから国籍の分からない欧米系の女性や、いつ料理を作っているのか分からない中東系の男性もいた。
「実家に帰ったら、家政婦とシェフが家にいるから、俺は何もしなくていいんだ」
 学期末のお別れ会で唐突に、インド人が切り出した。それはたしか、各国の家賃を比較していた流れだったように思う。シンガポールでは車を買うためには車を買うための権利を買う必要がある、という話で驚いていた矢先だった。
 もちろんわたしたちはみな、なんだって、と声を大にして問い詰めた。すると当の本人は、きょとんとした顔で、
「だからスウェーデンに来て初めてスーパーに行ったんだよ」
 と続けた。それはもう、かれにとっては至極日常的なことみたいに。
 それを聞いたわたしたちは、かれのことを王子様だと揶揄った。だってそうではないか。二十四時間在中してくれているシェフがいて、運転手がいて、洗濯掃除をしてくれるメイドが二人いる。これがその町の王子様でなくなんというのか。
 しかしかれはそれを否定する。インドではそれが当たり前なのだと。自分の両親はビジネスマンと教師で、特権階級にいるわけでもないと。そもそも住んでいるところだって片田舎なんだぜと言って、町の名前をあげた。もちろんそれはだれもが聞いたことのない場所だった。聞いたことがあるような街から、車で二時間ほど、たしかに片田舎といっても差し支えないかもしれない。帰省も一苦労だろう。

 かれの話を聞くまで、インドといえば近代化が進んできている、中国に次ぐ大国候補というイメージがあった。圧倒的な人口と、高い数理能力による先進国化。それがわたしの、インドという国だった。もちろんそこには宗教があって、カースト制度が根強く残っているということも知ってはいた。それでも、資本主義が国を支配し、西洋による影響を受けてしまえば、カースト制度は形骸化していくのだろうと、どこかで思っていた。実態はそうではない。そこにはまだ、いまだに、階層が根強く残っている。それは従来のカーストとは全く異なるのかもしれないけれど、名前と形を変えて、そこにあるのだ。それも留学に送り出すような家庭にも。あるいは留学に送り出せるような家庭だからこそ、その恩恵に甘んじているのかもしれないけれど。

 2024年6月、厚生労働省より2023年の合計特殊出生率が発表された。それは過去最低を下回る1.20であった。全国最下位の東京では0.99とついに1を割り込んだ。

 ところでわたしたちは、この会話を英語でおこなっている。多国籍が集まる寮という環境だけでなく、大学でも、お店でも、わたしはみんなに英語で話しかけている。残念ながらわたしはスウェーデン語を話すことができないし、向こうに合わせてもらうほかないからだ。しかし幸いなことに、スウェーデンの公用語はスウェーデン語だけれど、ある一定年齢以下のスウェーデン人は、おおよそ全員が英語を話すことができる。都心に近づけば近づくほど、かれらの話す英語はとても流暢で、それはもしかすると、イギリス人やアメリカ人の話すそれよりも、はっきりとしていて聞きとりやすい。それもそのはずで、スウェーデン人の話す英語は、他の西欧諸国の人々が話す英語に比べて、訛りがとにかく小さいのだ。

 そもそも、大学院の授業はすべて英語で開講されている。それは留学生にとってはとてもありがたいことだけれど、果たしてスウェーデン人にとってはどうなのか、一度だけ、そのことについて尋ねてみたことがある。

 わたしがいた大学では毎週決まった時間に大学の図書館での言語交流の場が設けられていた。日本語に割り当てられていたのは月曜日で、そこでは日本語や日本に興味のある学生と、日本から来た留学生が集まって言語や文化を交換していた。あらかじめそういう場として用意されていたそこでは、単純な興味による不躾なことだって訊いてもいい空気が漂っていた。

 文化系サークルにいつまでもいる長のようなひとが、そこにはいた。かれはいつも抹茶クッキーを焼いてきてくれて、スウェーデンについてのあれこれを教えてくれる。わたしたちはそれを囲みながら、なんとなしに英語を勉強することについての話を始めていた。
「なんでみんなはそんなに英語が上手なの?」
 わたしはかれらよりもたどたどしい英語でもって、尋ねた。
 机に置かれていたそのクッキーは、プロ級とはいえないけれど、それでもしっかりと抹茶の味がして、なのになぜかそれはあきらかに海外のものだった。
「小学生のころから英語の授業があるからね」
 口髭が切り揃えられた友人がいった。
「授業だけでそんなに、ネイティブのレベルまでになれるの?」
 耳を疑うような話だ。小学生のころからとは言わないまでも、日本でだってそれなりに英語の授業はおこなわれる。それなのに、全く喋れないひとだっている。授業だけでどうにかなるとは、到底思えなかった。そもそもかれらに言わせれば、スウェーデン語を喋るのと、英語を喋るので、そこまで負荷が変わらないらしい。留学をして、どうしてもそこにある言語の壁を痛感してやまないわたしたち日本人留学生は、そのことをとにかく羨ましがった。

 君たちみたいに、英語を流暢に喋れるようになりたい。と、だれかがいった。それはだれかひとりの口から溢れたものだったけれど、でもたしかに、それはその場にいた日本人全員の総意だったように思う。
 それを聞いて、かれは笑った。ウケるね、とちょっとだけ照れ隠しを混ぜながら。
 でもそのあと、かれはふと寂しそうな表情をした。わたしはいまだに、そのかれの顔が、目に焼きついている。
「俺たちはさ、人口が少ないんだ。スウェーデン語を喋るひとは世界にそう多くない。たった1000万人程度だ。だから意思疎通を図るために、英語を喋れないといけないんだ。でも日本は違うだろう?」
 かれはそういった。たぶん、それはいろいろなことの、本質を突いている発言だった。

 そのあと村上春樹のエッセイを読んでいて、そこでもまったく同じことが書かれていたことに気がついた。それは村上春樹が、フィンランドに行ったときの旅行記に書かれていたことだった。村上春樹の本は、フィンランド語にも翻訳されているみたいで、その縁もあって、フィンランドの出版社をかれが訪ねたときの話だった。そこの編集者は、村上に、フィンランド語の本を出版する意味を次のように説いていた。わたしたちは、フィンランド語を残すためにフィンランド語の本を出しつづける義務があると。スウェーデンと同じように、フィンランドでも、いや北欧の多くでは英語が当然のように通じる。通じてしまう。だからこそ、単純に利益だけを考えるのならば、英語の本を出版したほうが良いという。たしかにスウェーデンの本屋でも、フィンランドの本屋でも、棚面積の半分以上を英語の本が占めている。それでも、現地の言語の本を出すことは、重要なのだとかれらは語る。言葉を守るために。言葉を守ることは、思想を守ることでもあるし、それは結局文化を守ることでもあるだろうから。

 この話を聞いてから、日本語という言語の環境について、たびたび考え込むようになった。日本人は日本語を喋れるし、その人口は一億人ほどいる。さらにはありがたいことに、決して簡単な言語ではないのにもかかわらず、学ぼうとしてくれているひとも多い。本屋に行けば、当たり前のように日本語の本がほぼ全ての棚を占めている。大学の授業もそのほとんどが日本語で開講されている。「だから日本に留学したくても、日本には行きにくい」そういった留学生もいた。たしかに日本語を理解できないと、日本で暮らすのはとても厳しいだろう。それを聞いたときは、なんとなく後進国なような気がして、恥ずかしいとはいわないけれどなんだか後ろめたかった。でもそれは、実は、とても幸せなことなのかもしれない。逆にいえば、それは、これまでわたしたちが必死こいて外国語を学ぶ必要がなかったということなのだから。一部のひとが喋れればそれで良かった。日本人の経済活動のほとんどは日本で完結できていて、文化も国内だけで多様に存在する。日本語しか喋れないというのは、日本で十分満足できるということの裏返しでもあるのだ。

 そのことに思い至ってから、いまわたしたちが、なにかに取り憑かれたように英語を学んでいることに、ちょっとした寂しさを覚えてしまっている。なんだかそれこそが衰退なような気がして。
 全てのミーティングを英語で行うことを義務化している企業があるという。日本の企業なのに、グローバルだと、多様性だといって、多くのひとは礼賛している。でも、ほんとうにそれは礼賛されるべきことなのだろうか? ここは日本だ。そしていま日本の出生率は右肩下がりで、それはつまり、これまで以上に日本語を使い続けなければならないのではないか? もちろん世界と戦うために英語が必要になるというのはわかるけれど、こちらがグローバルスタンダードに合わせるのではなくて、こちらでグローバルスタンダードを作るくらいの意気込みが必要なのではないだろうか? なんて思わないこともない。現状を見て、偉い人たちはそこから撤退したということなのかもしれないけれど、それはなんだか、とても物哀しいことのように思う。将来、わたしたちもかれのような、諦めと寂しさを湛えながら、わたしたちは英語を勉強しないといけないんだって言わないといけなくなるような想像を前にして。

 2024年2月、スウェーデンがNATOに加盟した。隣国フィンランドに次ぎ、32カ国目の加盟国となった。
 2024年6月現在、ロシアはウクライナ侵攻を止めていない。

 わたしがスウェーデンにいた半年の間でさえも、日に日に国際情勢は、安定で均衡な点から外れていっている。よく分かっていないけれど、それでもロシアは隣の隣だし、エストニアに旅行した際には、そこからサンクトペテルブルク行きのバスも出ていた。ワルシャワに行った際にはキーウ行きのバスも見かけた。街ゆくバスの標識にはキーウやウクライナを応援する特別な文字列が並び、ストックホルムの街並みにはプーチンを直接批判するシールが貼られている。各々が各々の立場を表明していて、それでもわたしはいまだにどこか、それが遠くで、はるか遠くで起きていることだと、夢うつつから抜け出せていない。

 わたしはスウェーデン人の友人に、「ロシアとウクライナの戦争ってスウェーデン的にどうなの?」と、かれらに比べれば無責任な外様であることを自覚しつつも、そうたびたび問いかけていた。

 ごはんを食べながら、かれらはわたしたちと同じくそう深刻そうな表情もせず「ロシアが良くないね。撤退したほうがいい」と告げる。どこか他人事なのは変わらないのかと思うけれど、この国ではいまだに徴兵制度が続いている。そのことについて問うてみると、皆して「断れば良いだけだから大したことがない」という。

 詳しく話を聞いてみると、ある年齢に達すると、かれらのもとには入隊の意思を問う紙が送られてくるらしい。そこで意思がないというと、抽選プールに送られる。入隊者が定員数に満たなければ、そのプールのなかから、抽選で徴兵が決まるわけだ。でもかれらはいう。「結構人気だから、行きたくないひとが行くことはないよ」と。スウェーデンを取り巻く情勢について、かれらはそこまで興味もなさそうに、端的に意見を述べる。でも深掘っていくと、いまこの国がどのような立場にあるかを知っていて、どうして欲しいかについての意見を持っていることが多い。それは道徳的な観点でも、人道的な観点でもない、生の声だった。わたしたちがより良く生きていくために、どうあって欲しいかの話を、かれらは飄々とした顔で語る。

 そんなときかれらはいつも、「自分がこう思うだけだけどね」と謙遜する。でもこういうのはーーあたりまえだけれどもーー自分がどう思っているかこそが重要なのだろう? 

 どうしたらそうあることができるのか。かれらの話を聞いて、かれらの態度を見ていた。あまり建設的な答えは得られなかったが、しいてなにかあるのならば。それは安直な考えかもしれないけれど、かれらがそうあることができるのは、かれらが一度、入隊という選択と否が応でも向き合うからなのだと思う。端から行く気はないといっても、行く気はないという意思を表明しなければならない。そしてなにかを選択すると、そうではなかった未来についてのifが動き出す。わたしはいままで、自分が自衛隊に入隊して、銃を持ち、訓練を受ける未来を想像したことがない。でもかれらは、少なくともそういった選択肢があることを知っている。わたしたちの多くが本当の意味で知ることのできない、その選択肢を、かれらは知っているのだ。そのことを知らないということは、それはとても幸せなことなのだと思う。

 わたしたちはそうだった。でも気がついたら、それはもう、他人事ではなくなっている。わたしの国がいつまで安全で、どこまで紛争と関わりなくいられるのか。いま遠くで起こっていることは、容易にここまでたどり着く。海の向こうで、それは遥か彼方のことだから、あまり要領を得ないけれど、意外にもこの世界は地続きなのだ。

 2024年1月、在スウェーデンイスラエル大使館に不発の手榴弾が投げ込まれた。その二ヶ月後、イスラム教関連施設でテロ犯罪準備等の罪により四人が逮捕されている。
 2024年6月、わたしの通っていた大学で、ガザ地区の解放を訴える運動を行っていたところに、警察が押し掛けた。数名が逮捕されたという。

  日本円ほどではないけれど、スウェーデンクローナも、その価値が下がっていっているという。経済は明らかに悪化していて、まだ余裕はあるけれど、賃金上昇に対する物価上昇が見合っていないと、多くが文句をいっている。

 移民の増加による治安悪化も、国単位の問題となっているらしい。それでも日本とそう変わらない治安の良さではあるけれども、でも明確に悪化の一途を進んでいて、特に銃が出てくるのが怖いと郊外の団地に住んでいる友人はいった。

 そこには家族が多く住んでいて、友人にも生まれたばかりの子どもがいる。とてもかわいらしい赤ちゃんだ。人見知りもせず、訪ねるたびに笑顔で出迎えてくれる。そんなかれが大きくなるころには、ここは、世界は、どうなっているのだろうかと、ふと思う。いまそこで起きている問題は、いまここでは直接的に、問題にはなっていない。それでも間違いなくなんらかの影響は、水面に波が立つように、ゆっくりと届いているはずだ。

 ヨーロッパの歴史は、そして世界の歴史は、織物のようにそれぞれが絡み合ってひとつの総体を成している。知っていたはずのことも、知らなかったことも、まだ知らないことも合わせて、わたしのなかで大きな絵が描かれていく。そのほとんどは、そしていま起きていることも、ひとりのわたしたちにはどうしようもないことで、なにかを問いかけたとしても、無限遠へのフリーフォールみたいに手ごたえがない。でも個人の問題として、向き合うことはできるのだろう。あるいはそうするしかないのだろう。

 わたしに比べたときの世界の大きさと、単純な世界の狭さのギャップに、ずっとピントがぼやけ続けていて、なにかを見ようと思っても、なにを見ているのかが分からない。だから不安だし、この先どうなるのだろうと、日々思う。この半年間に何度か、自分の先が見えないという話を、わたしより幾ばくか人生経験が豊富な友人夫婦につらつらと垂れていた。もしかしたら先を見たくないということの言い間違いなのかもしれないと思いながらも、いやそれでもほんとうに先が見えないのだと自分に言い聞かせて、語っていた。いつしかピントがボケているのか、フォーカスをずらしているのかは分からなくなっていたけれど、かれらに話しているうちに、どちらがどうというわけではないということが分かった。そしてかれらの話を聞いて、べつにそれでも良いのではないかということも。

 スウェーデンの良いところをひとつ挙げるとすれば、わたしはそこにいるひとたちが、日本人に負けず劣らずの几帳面な性格でいて、未来に希望を持っていることだと思う。

 かれらだって文句を言うけれど、それでもどこか、どうとでもなるという自信がみなぎっている。なにがそうさせるのかは分からないけれど、かれらはとりあえず、幸せな明日が来ると信じているみたいだった。そしてそれはわたしも。

 だから居心地が良かったのだと思う。かれらは目の前がボケていることを、良しとしてくれる。それはそれで、明瞭になったときの楽しみがあるだろうと言わんばかりに。

 かれらが日本人ではないように、わたしはスウェーデン人ではない。わたしにはわたしの、日本人らしい規範と価値観のなかで生きていく必要があるし、わたしにはそれしかない。そしてそれは、無根拠に楽観さを肯定してくれるものではないということを、わたしは良く知っている。それでも、わたしにはぼやけて見えるその扉を、その先に良いことがあると勝手に信じて、開けていくことはできる。

 その扉がなにを指しているのかも、開けた先になにがあるのかも、見えないし見たくないから、分からない。それでもその先に幸が在らんことを、そして少しでも世界が良い方向に傾いて、ユーラシア大陸を勢いよく横切れることを、わたしはいま、祈っている。

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