塞いで充たして
はじめに
人と妖の出逢いと、その先――
男子高校生の羽村 薫(はむら かおる)と
自称・精霊のようなもの,ささめ
この二人の、ほのぼのした日常と、妖絡みのちょっとした非日常の物語。
Twitter(現X)にて、ジャンル募集した際
ファンタジーを書いて!とのお声を頂戴し。
現代日本のどこかを舞台にした、オリジナル小説です。
この記事に一話ずつ追加していくので、見守って頂けますと幸いです。
再会
長閑な森の
高校からの帰り道。羽村薫は、ざっざっと落ち葉を派手に蹴散らしながら、鎮守の森を散策していた。町のど真ん中に広がる大きな鎮守の森は、水源池を囲む森でもある。
池に着くまで、あと20分くらいかかるな。ちらっと時計を見て薫は思った。
人けのない森をてくてく歩き続けるうち、落ち葉の擦れるガサゴソいう音がしなくなったことに気付いて、ふと足を止めた。いくら落ち葉を踏んでも、音がしない。
そういえば、鳥も虫も鳴いていない。一切の音が周りから消えている。
え、どうして? なんで音が聞こえないんだ、耳がおかしくなったか?
内心焦る薫の目の前に、はらりはらりと枯れ葉が舞い落ちてきて、やはりカサともコソともいわずに、地面に積もる。恐る恐る頭上を見上げれば、音もなく木々の枝葉が揺れている。風は吹いていないのに。あの梢に、周りの木々の茂みに、ナニかがいるのだ。
異変を感じたら、その場にじっとして、周りが元に戻るのを待つんだ。
下手に逃げ出すと妖に見つかり、標的にされるから。
あの人に教えられた通り、不自然なほどにしんと静まり返る森の小径で、薫はじっと息を殺してその場に佇んでいた。
やがて、
あれ、あの子だ
また、あの子だ
ほら、あの子だ
あの子が来た、あの子が来た、あの子が来た
なにかのささやきあう声が聴こえてきた。
何だ、あいつらか。
「あの子ってなぁ、お前ら」
薫はホッとして、しつこい声に呆れたように言った。
「もう俺はガキじゃねぇよ」
彼の返事に抗議するように、こつんと彼の頭に何かがあたった。
彼は、勢い余って地面に落っこちたそれをそっと摘み上げた。それは、小指の先ほどの大きさの、形は毬栗に似た白いもの。棘だらけの見た目に反して、触ってもそれはごわごわしているだけで、皮膚に突き刺さりはしない。
そのことを彼は子どもの時から知っている。
ただの固い毛束だよな、このトゲ。先っちょ、ちょっと丸いし、ガキん頃は白い金平糖だと思ってたっけ。
つらつらと思い返しながら彼がそれを弄んでいると、ばらばら、ばらばらとそれが樹上からたくさん落ちてきた。
あの子だ、あの子だ、あの子だ……
彼の服に棘を絡ませてくっつき、離れようとしない。
布地越しに棘の感触がちくちくして
「お前ら、よせ、くっつくな、びみょーに擽ってぇんだよ」
彼が笑いながら叫んでも、それらはお構いなしだ。そして、薫が摘んだままの一匹が
う ま そ う だぁぁぁ
不穏な言葉を吐くなり、その小さな身体が真っ二つに割れたのかと思うほどの大きな口をぐわっと開いた。青紫色の触手のような舌をその口の奥からぬらりだらりと伸ばしていく。この体のどこにこんな長い舌が収まっていたのか、本当に謎だ。
「え、腹減ってんの?」
気づけば、体中にくっついた何十、何百もの白いトゲのものたちが餌を前にお預けを食らった犬のように、唾液の滴る長い舌をちらつかせて喘いでいる。
「やめろ、離れろ、莫迦、さすがにこの数は嫌だぁぁ!」
彼が悲痛な声で拒絶したが、まるでそれが“良し”の合図であるかのように、非情にも奴らは一斉に食事を開始した。薫の露わな皮膚、顔、首筋、指先、至るところに奴らの舌が絡みつく。シャツのボタンとボタンの間から侵入させてまで彼の素肌を探し求め、舐め尽くす。奴らに舐められるたび、薫の背筋がぞわりと震える。血の気がざぁと引き、すぅーっと身体が冷えていく。
この白いモノたちは、他の生き物を舐めて精気を吸う妖だ。
一匹や二匹に指先を舐められるくらいなら何のことはないし、舐めさせてやったこともある。とはいえ、この数に一度に食事を摂られると流石に耐えられない。
何よりこれだけの数の舌が身体を這い回るのだ、肌に滑る唾液も舌の感触も途轍もなく悍ましい。
気味の悪さと文字通り気力が尽きたために意識が遠くなりかけた時
「だめだよお前たち。彼は私のものだ」
柔らかな声音が彼の耳朶に届いた。
あれだけ纏わりついていた白い棘のモノたちが彼の体から次々と離れ、地面に転げ落ちてはざわざわと落ち葉を鳴らして消えていった。
力が抜け、どさっと地べたに座り込むと、彼は新たに姿を現した者を見上げた。
「もっと早く助けてくれよぉ、ささめぇ」
「私も食事の最中だったので、手が離せなかった」
中性的な美貌の男が薫を見つめて答えた。長い銀の髪に青い虹彩。少なくともこの国における一般的な容貌ではない。
自分は、精霊のようなもの、らしい。
そう本人から告げられたのは、別れ際だった。
私は、見た目はこれ以上歳を取らないし、見た目の年齢の何倍もの年月を生きてきた。だから、別れはよく知っている。人と妖が別れたら最後、二度と会うことはない。
別れる寂しさに泣きながらも、薫が絶対また会いに来るからね、俺、ささめがおっさんになってもちゃんと見つけるからねと再会を約束した時、ささめは冷ややかにそう言い放ったのだ。
そんなささめだもの、人の子一人、妖に襲われていても、自分の飯のほうが大事だよな。助けてくれただけでも感謝しなきゃな。
薫が一抹の寂しさを覚えつつも
「助けてくれてありがと。……久しぶり、ささめ。あんたほんとに、面変わってねぇな」遅まきながら挨拶をすれば、ささめは首を傾げた。
「ほぉ。久しぶり、と来たか」
「だって、ざっと4年ぶりだぜ」
小学5年の2学期が始まってすぐ。薫は転校し、この町を出ていった。今は高校1年の春だ。
「人の感覚で4年というのは、そこそこ長いものなのか?」
人ではないささめには、人の気持ちも感覚も分からないか。薫はやれやれと肩を竦めた。「そうだよ。4年も経てば普通、色んなものが、……」
変わってしまうのだと言おうとして、薫はふと言葉に迷った。
辺りで小鳥が賑やかに鳴いている。梢を飛び回る姿も見える。
あの鳥の名前を教えてくれたのは誰だったか。
焦げ茶色の蝶がひらりと木陰へ消える。
あの地味な色のジャノメ蝶を蛾だと思って怯える俺に、わざわざそれを捕って、ごらん、蝶だよと意地悪……いや、教えてくれたのは誰だったか。
風が運んでくる、池の水の匂い。フェンスを越えてあの池に近づき、危うく水に落っこちかけた俺をすんでのところで掬い上げてくれたのは誰だったか。
あぁ、俺が生まれた土地の、見慣れた景色だ。
そして、その誰かが今、傍にいる。
これが俺の世界だ。
大事なものは何も変わってないじゃないか。
俺は、帰ってきたんだな。
「ま、何でもいいや」
一人納得して薫は立ち上がった。制服についた土埃を払っていると
「貴方。ずいぶんと背が伸びた。視線が近い。日の光と雨をよほどたっぷりと浴びたと見える」
ささめが興味深そうに薫を眺めて言った。
「俺は植物かよ。人間ってのは、よく食ってよく動いてよく寝ると大きくなるんだよ」薫が真面目に突っ込みを入れると、ささめはふんわりと笑んだ。そして
「……貴方が不在の間、私は相当無聊に苦しんだ」
静かに言った。薫は目を瞠った。そして、恐る恐る聞き返した。
「なぁ、それって。つまんなかったってこと? 俺がいなくて」
まじまじと見つめられて、ささめは目を逸らした。
「これが、……寂しいという感覚なのだと、知った」
ぼそぼそと告げられた言葉に、にぱぁと薫は意地悪い笑みを浮かべた。
「ひひひ、4年間、寂しい思いさせてごめんなぁ、ささめ」
きれいな顔を子どものようにぶすっと歪めてささめが不満げに言った。
「全くだ。こんなにも時を長く感じる日々を過ごすなど、御免被る」
それほどまでに、此奴……!
感極まった薫はぎゅっとささめにハグをした。
「俺もだよ、ささめ。またこの町で暮らすからさ。これからも、
ホケキョ。
絶妙なタイミングで鶯が鳴いた。
人と妖は顔を見合わせてくすくす笑った。
【長閑な春の再会】
姿、変われば
薫はささめを連れて森を出た。今日この鎮守の森を訪れたのは、自分の家に招くためにささめを探していたからだ。
「この姿に化けるのも4年ぶりだ。妙な感じだ、茶色い毛など」
ささめは己の茶髪をくるくると指に絡ませながら言った。
「そうかぁ? 俺、ささめと言えば半分くらいは茶髪の兄ちゃんだけど」
薫と連れ立って町を歩いていてもそこまで違和感がないように。銀髪は鳶色に、青い目は榛色に変えて、そこまでしてささめは薫の傍に居たのだ。人ではないささめが、己の容姿を変えてまで寄り添おうとした人間は、薫ただ一人だ。
「なぁ、ささめ、いつものスーパー行こ。飯になるもん買わねぇと」
大通り沿いのスーパー烹庵に立ち寄る。
確かに、薫がこの町に居た頃には、よくついて行ってやった店だ。
一緒に行くのは4年ぶりにも関わらず、いつものと自然に表現する薫を、ささめは内心面白く感じていた。
「森では見かけない野草だ。この実など、色からして、毒がありそうだ」
「野草じゃなくて野菜。人がわざわざ育ててんの。その、綺麗な赤色の実は甘くて美味いよ」
「相変わらず、魚の死骸が陳列されているのだな」
「まぁ、生きてはいねぇな」
「ならば池の魚のほうが新鮮で旨かろう」
それぞれのコーナーでささめが野生味たっぷりの呟きをし、薫がツッコむ。
これもいつものふざけたやり取りだ。
ささめが普段何を喰っているのかは知らないが、肉よりも魚に興味を示すので、それが好みなのだろうと薫は思っている。だから今日の買い物かごには、半額になった鮭の切り身が2切れ入っている。
「あとはー、青菜ともやしと卵もあれば何とかなる!」
ささめは、ぽいぽいとかごに入れられた品々を見て、
「植物の葉と芽、それに鳥の卵か。これで何になる」
「炒め物とかスープとか」
ほぉ、そうか、などと納得したふうな相槌を打つささめだが、食材を調理することのない彼には、どちらもいまいちピンときていない。
「そうそう、ここな、プリペイドカード使えるようになったんだぜ」
すげーだろ、と何故か薫が自慢げにそのカードをささめに見せる。
ささめは微苦笑して言った。
「貴方、難解な言葉を使うようになったな」
遠まわしに、言っていることが理解できないと伝えられ、薫はハッとした。
そうか、ささめは森に棲んでいる精霊だ。
人間の暮らしだけでなく、それに関係する言葉、況してや英単語など知るはずもない。トマトの赤色を警戒するのも、決してふざけている訳ではないのかもしれない。
そのことに薫は全く思い至らなかった。
ささめの容貌がまるきり人間だから。ささめは自分よりも沢山のことを知っていて、物事を教えてくれる存在だったから。
だから、自分の知ってることはささめも知っていて当たり前だと。心のどこかで思っていた。
でも、自分にとっての当たり前、普通が、ささめには通じないのだ。
「あ、ごめん。このカードは、えーっと、機械でお金と一緒に操作すると、お金の代わりにできて……、ほら、お財布の中が小銭でじゃらじゃらしなくて便利なんだ」
薫の懸命な説明にささめは頷いた。
「おおむね分かった。貴方にはうってつけの代物だな。貴方はよく硬貨を落として失くし、泣いていた」
「それいつの話だよ、恥ずいわ、そんな昔の話すんなし」
むくれつつ、薫はチャージ機に向かった。薫が機械にお札を入れ、
「あっ……」
と声を上げた。肝心のプリペイドカードを取り落としたようだ。カードがすーっと床を滑って向こうへいくのを見て
「貴方、硬貨でなくとも結局落とすのだな」
ささめは呟いた。そして、カードを拾ってやろうと数歩行きかけた時。
男子高校生の一群が向こうから通りかかった。
その中の一人がそれを拾う。薫が駆け寄ってきて、
「すみません、そのカード、俺の。拾ってくれて有難う」
とカードを受け取ろうとした。だが、その男子は、ん? とカード裏面の名前と薫の顔を何度も見比べ、なかなか渡してくれない。やがて
「お前、ハム?」
カードを拾ってくれた親切な男子は、にやにやしながら言った。そして、
「おーい、お前ら、こいつ、うそつき羽村だぜ!」
先に行ってしまった仲間たちを呼び戻した。
「え、まじでくんせい? どした、肉削げたなぁ、ベーコンにして売ったのか?」
奴らはわらわらと寄ってきて囃し立てる。
「コイツな、人間じゃねぇの、ブタなんだぜ。だから、植物とか動物がトモダチで、話しかけるんだぜ」
「まじキモいんだ、ブタのくせにハム食うし、共喰いだ共喰い」
「学校行事のときの弁当、米まで全部茶色くてきったねぇの、残飯だろあれ」
「そそ、だからやっぱり家でもブタ扱い」
薫を知らない仲間にはそうやって紹介する。薫はむっとしたまま黙っている。言われた方も微妙な面持ちで薫を見ているだけだ。仲間の反応が鈍いのが面白くなかったのだろう、カードを拾った学生が、薫を知らない学生に「こいつな、小5ん時、」と何か囁いた。その途端、その学生の表情が引き攣り、薫を露骨に気味悪がった。
「……落し物を拾ってくれたことには礼を言う。だが、私の連れに絡むな」
見かねてささめが割って入り、奴らを睥睨した。華奢とはいえ190cm近い身長の男性に見下ろされ、薫をからかっていた連中はそそくさと散っていった。薫は深く息をついた。相当怯えていたらしい。
「ごめん、ささめ。スーパーの外で、待ってて」
薫は顔を俯けたまま言って、会計の列へと姿を消した。少し逡巡し、ささめは薫の頼みどおり、店の外へ出て行った。
「お待たせ」
買い物を終えた薫の声に元気がない。
「あー、……遅くなっちゃったし、ささめ、もう森に帰ったほうが良いんじゃない?」
「戯け。私を招き、あの森から連れ出しておいて今さら何を言う」
腕組みしてささめは言った。だが、じっと俯いたままの彼を見て、ため息をついた。
「分かった。貴方は帰ればいい」
そうして薫がとぼとぼと歩き出す。ささめはその後にぴたりとついて歩く。
何度か薫はささめを振り返って、もの言いたげな顔をした。
だが、ささめを追い返しはしなかった。
ささめは、硬貨を失くして泣いていた頃の薫は、自分の胸元にも届かない背丈だったなと思い返す。それが今ではささめの肩を越えたぐらいの高さに、薫の頭がある。
ささめの知る薫は、低い身長にふくふくと丸みのある体型の子どもで、いつも何か食べていた。それが今は背がすっと伸びてよく締まった体つきになっている。とは思うが、ささめにとって人間の子どもの体格の変化など些末なことだった。
20分ほど歩いて、住宅地の角の小さな一軒家についた。
「ここ、今の俺の家。母さんの実家。俺しか居ないから、気にせず入って」
薫は玄関に入りながら未だ消沈した様子で言った。
「ならば、邪魔をするぞ」
ささめも薫を真似て屋内に上がる。
「そこのソファ、……でっかい椅子で、ゆっくりしてて」
ささめにはソファを勧め、薫は台所でエプロンを身に着け、紐をきゅっと結わえた。
「いや、貴方、これから、いためものあるいはすーぷとやらを作るのだろう、気になる」ささめはとことこと台所へやってくる。
薫は、鍋に湯を沸かす傍ら、野菜をボウルで水洗いして切り分け、もやしを炒め、魚の切身をグリルに入れ、卵を器に割って溶く。
「おや、今、生魚をどこにしまった? 青菜を洗って食うのはまだ分かるが、卵は生で飲まないのか」
ささめが真横に立って手元を覗き込んでくる。
「火とか刃物も使うから離れて! ってちょっと、そこ開けないで、熱いよ!?」
グリルを勝手に開けようとするささめを押し退けながら、ぼとぼとと青菜を湯にぶち込んで薫が言うと
「そうか、ならば、ここでおとなしく見ている」
ささめが対面キッチンのカウンターに片手をおいた。次の瞬間には、ささめの姿は消え、代わりにカウンターの上に猫ほどの大きさの真っ白な獣が居た。
「これなら、貴方の邪魔になるまい」
ささめより少し高い声で獣が喋った。狼に似た顔つきで、しかし狼にしては妙に大きな耳がついている。その耳をぱったぱったと扇ぎながら、ちょこんとお座りをしている。柔らかそうな毛で覆われた細長い尾が忙しく動き、てしてしとカウンターを打つ。薫を見つめる目は深い青で、金色の細い虹彩が煌めいてまるでラピスラズリのようだ。
外見はなかなか愛らしいが。
「ねぇ、……ささめって……精霊じゃ、ないの?」
温めたフライパンに溶き卵をべしゃぁと流しながら、薫は震え声で訊ねた。
「さぁな。私自身、己が何者か、分からんのだよ」
しれっと返ってきた答えに、薫はぞくりとした。菜箸を持つ手が止まる。
そもそも精霊が何なのかも知らないが、薫は勝手にささめを、人の目に映る人型の精霊、いわば妖精なのだと思い込んでいた。それが突然に獣の形になったのだ。薫のイメージではそれは魔獣とか幻獣と呼ばれるもので、その多くは人間に害をなす存在だ。
自分が子どもの頃は、彼が何者だろうが全く気にしなかった。知ろうとも思っていなかった。その姿を変えられることも、驚きこそすれ、当たり前のように受け入れていた。昔の自分の無邪気さに、そして、今、ささめに対して漠然とした不気味さを覚え始めたことに薫は戸惑った。
そんな薫の胸の内を見透かしたように、ささめは言った。
「私が、怖いとみえる」
「いや……、ささめは、妖精……精霊? その、人の姿なんだとばかり……」
どうにか取り繕う薫に、ささめは特に気にした風もなく答える。
「人型を取れるか否か、というだけで、私を含め、ほとんどの妖の本来の姿は人型ではない。元より人型のものは珍しい、貴方たちのいう鬼だの吸血鬼だのくらいのものだ」
……吸血鬼が、存在するのか?
血を吸われた人の話など、薫は聞いたことがない。
「それはそうだろう、人の血肉や精気を食わずともそれなりに永らえることはできる。徒人の目にも映るほどの強い妖だからな、奴らは人のふりをして人間界で平然と暮らしているぞ。貴方、あの森の白いトゲの連中のようなあんな弱い下等の妖が見えるほどの見鬼だというのに、鬼どもに接触されたことがないのか。奴らにとっては極上の餌のはずだがな。まぁ、最近……この100年ほどの間に人に狩られてめっきり数を減らしているから、そうおかしな話でもないか。どのように人間どもが我々を人外と判別するか知らんが、その術が向上したようでな。狩られるのを恐れて、名のある妖がだいぶ人間界から異界へと移ってしまったよ。自然の気や人の肉や魂を食う精霊や悪鬼の類を除いてな。お陰で下等な不味い妖ばかり食う羽目になっている」
後脚でかりかりと首筋を掻きながら、ささめはつらつらとただ思いつくままに言った。薫は茫然としてささめの話を聞いていた。
妖が見える自分が、妖の餌として狙われやすいということよりも。人の姿をした、人ではない者たちを、人間が狩る……つまり殺めているということに衝撃を受けていた。
あの白いトゲ共のように明らかに異形であれば、そして人間に害をなす存在ならば。
駆除するのは当然だと心のどこかで思ったけれど。
人と変わらない姿の妖を狩るその様は。人が人を害しているのとどう違うのだろう。
茶髪のささめも、銀髪のささめも、自分にとってはかけがえのない友人で。彼が人に狩られるなんて、想像もしたくない。
目の前でささめが、くわっと大口を開けて呑気に欠伸をしている。尖った牙が見える。でも、この小さな狼のような姿のささめが、もし牙を剥いて噛みついてきたら、自分は、……どうするだろう。
「ところで、先ほどから妙な臭いがするうえ、湯が相当に沸いているようだが」
ちっちゃな鉤爪でささめがコンロを指す。
「え、あ、あああああ!」
青菜がぐったぐたに煮え、フライパンの上で玉子ともやしがぱりぱりに焦げ付いていた。グリルの中の魚はどうにか食べられそうでほっとした。
旨いものを前にして
焼鮭と、青菜のスープともやし玉子と白飯。パリパリの焦げ玉子は細く切ってソースをかけて誤魔化すことにする
「あ、あの。ささめ……こんな献立になっちゃったけど、食べる? ていうか、人間の食い物、平気?」
ささめは人ではない。その事実を改めて突きつけられた薫は、今更ながら確認する。
「呼ばれよう。食えぬものは無いぞ」
ささめは薫の心配をよそに、尻尾をふりふり上機嫌で即答した。
薫は2つの茶碗に冷や飯をよそい、レンジで温める。
「……人間は、食べ物を色んなところに入れるのだな」
ささめがカウンターの上から身を乗り出して、庫内を覗き込む。
「ささめ、その椅子に座って待ってて」
人の姿に化けたささめを先に食卓に着かせ、目の前に食事を盛った器を並べる。
「ほーぉ、供物など久方ぶりだ」
「供物て、なに言ってんの」
薫は笑って流し、「頂きます」と手を合わせた。
ささめは鮭に真っ先に手を付け、骨も皮も綺麗に平らげた。それから彼は、煮えすぎた青菜を食って、「食感は、池の藻に少し似ている」などと共感しがたい感想を述べた。「普段、何食べてるのさ、ささめ」
「食えるものなら何でも。あの森は色々居るからな」
先ほどは、人型の妖が減ったから仕方なく弱い妖を食べているようなことを言っていた。ライオンがシマウマを狩るような、そういう単なる弱肉強食の構図ではなく。
本来ならばささめは、今のささめと似たような姿の妖を……?
共喰い。頭に浮かんだ単語に身震いする。
羽村のハムは肉のハム、ブタがブタ食う、共喰いだー!……
小学生の時、あの連中が歌っていた囃し文句が蘇る。
「どうした。貴方、もう食べないのか?」
ささめが気遣わしげに声をかけてきた。
「……あのさぁ。ささめ、スーパーで、俺の、変なとこ見せちゃって、ごめんな」
何を言うべきか悩んだ末、薫はそう言った。
ささめは、記憶を手繰るようにしばし天井を見上げてから、
「そういえばあの連中、貴方を卦体な名で呼んでいたな。貴方はあまり好んでいないようだったが、あの名前はなんだ?」
止めてくれた割にその程度の理解だったのかと薫は拍子抜けした。……いや、単にハムとか燻製を知らず、奴らが何を言っていたのか分かっていないだけかも知れない。うん、その線が濃厚だ。
「あー、うん。……あれは、俺を、豚肉……食べ物に例えてたんだ。豚みたいに太った俺が豚食ってるって。ささめも、俺が太ってたのは知ってるでしょ」
へらっと笑ってみせる薫に、ささめは言った。
「貴方は人間だ。豚とは種族が異なるし共喰いはせぬと私も知っている」
「それはそうだけどさ。……でも、ささめは、こう、……今の俺見て、随分痩せたなぁとか、思わねぇ?」
ささめは淡々と答えた。
「幼体から成体へと変わる時には著しく姿が変わるものだろう」
その答えに薫は吹き出した。
「なにそれ、大人になると姿が変わるって? 子どものときは太ってても良いの?」
薫が聞き返すと、ささめは首を傾げた。
「何か都合が悪いのか? 丈夫な成体になるためにしっかり餌を食うのが幼体の務めだ。それに、体に充分蓄えがあれば、狩りができぬ時があっても生き延びられる。人間の場合は、獣たち以上に長い期間、親に給餌されて育つが、貴方はあの頃から、親が不在だった。朝晩、硬貨を握りしめてコンビニやらスーパーやらに行き、安価で腹の膨れるものを選んで大量に購い、喰っていたではないか」
あの頃。小学校に上がってすぐの頃だ。
薫の母が重い病に倒れて入院し、父はほとんど家で過ごさなくなった。父は会社で食べると言って朝も早く出て、夜は仕事の付き合いと称して飲み会に明け暮れていた。薫は、父から金と鍵を渡されて、朝も晩も好きなものを買って食えと言われた。買った弁当を温めたくても、ガスコンロもグリルも小学校で調理実習をするまでは一人で使うなと禁止されていたので、加熱する手段は電子レンジしかなく、肝心のレンジは冷蔵庫の上に置かれ、薫の背では手が届かなかった。椅子に乗ればいいと思いついたまでは良かったが、取り出した弁当を持って椅子から降りたときに、ものの見事にひっくり返した。
床に落とした惣菜を泣きながら拾って食ったのを昨日のことのように思い出せる。
コンビニで温めてもらっても家につく頃には冷めているので、温かい弁当を食べるのは諦めた。せめて電気ポットがあれば熱々のカップ麺を啜れたのにと今は思う。
それで、安いスナック菓子、半額になった揚げ物や菓子パンの類を、朝はコンビニで、放課後はスーパー烹庵で買い込み、食べていた。
給食は温かい飯が嬉しくて、白飯を3杯も食べた。
そして不健康に肥えていく薫を、クラスメイトが馬鹿にした。
クラスのいじめっ子たちに“ブタ狩り”と称して追いかけられたある日、薫は鎮守の森に迷い込んだ。そして、あの白いトゲの妖に遭遇した。
それだけではない。翼のある白い蜥蜴や、真紅の毛並みが炎のように揺らめく犬。花の露を飲む、蝶の翅を持つ小さな女性。色々なモノ達がその森の奥に棲んでいた。そこは物語で読んだ異世界のようで、面白かった。
その日を境に、薫は、町なかでも妙な生き物が見えるようになった。
教室に現れたモップのおばけみたいな毛むくじゃらのモノが先生の顔にへばり付いているのを見て笑ってしまったり、クラスの女の子のリボンを悪戯好きの小人から取り返したりした。でも、周りには信じてもらえず、ウソつき、リボン泥棒などと非難された。そのせいで下校時の“ブタ狩り”はひどくなる一方だった。体が重くて速く走れない薫を森の中にまで追い立てて、奴らはげらげらと品のない笑い声を上げていた。
だが、不思議なことにいじめっ子共は、森の奥には入ってこない。まるでその先が見えていないかのように。
そのことに気がついてからは、薫は自分から森に逃げ込むようになった。通学路を無視して学校から森まで最短距離を行く。小学校の裏手のビオトープと称した小さな人工池と雑木林の奥、朽ち果てた門のようなものを潜るのだ。
門を抜ければそこは既に、鎮守の森の最奥だ。
森の中ならば連中に追われることなく、帰路につける。自分にしか見えない不思議な妖たちが遊んでくれる。
焔のような犬は薫に懐いてじゃれついてきたし、白いトゲは、あの舌で指先や頬を舐められるのはちょっと気持ち悪いけど、ころころとそこらで蠢いているのが何だか面白かった。蝶の翅の娘がひらひら舞う姿は綺麗だったし、翼の生えた蜥蜴も、触らせてはくれないものの、たびたび姿を現した。
そこは、薫にとって安全で楽しい場所のはずだった。あの日まで。
あの時も、自分は学校の裏手から森に入った。でも途中で道を見失い、分け入っても分け入っても、池の周囲の散策路にも、神社の参道にもたどり着けずに途方に暮れていた。慣れた道で、いつものように歩いていたはずなのに。どうして迷ってしまったのだろう。おろおろと歩き回るうちに、ひんやりした風が吹いてきて、ざぁっと雨まで降り出した。今日は一日晴れのはずだった。だから傘なんて持ってない。天気予報、また外れだ。
雨脚は強く、木々の枝葉では防ぎきれない。何処か、雨宿りできそうなところは……と辺りを見回す。
ひときわ大きな樹の根元にぽかりと虚があいているのを見つけ、薫はそこへ体を押し込んだ。
暗い上、湿った黒土が何だか生臭くて、正直不快な場所だったけれど、土砂振りの雨を避けられるだけマシだろう……。
雨粒が木々の葉を激しく叩く、ばたばたいう音を聴きながら、薫はいつの間にか、とろとろと眠ってしまったようだ。
気がついたら、そこはぼんやりと薄暗い開けた場所だった。大樹も森も消えていた。
何もない、殺風景な空間。自分の手足の触れている地面はあるが、土の感触ではない。冷たくも温かくもない、言わば見えない固い板の上に自分は転がっている。
ここは何処だろう、自分は夢を見ているのだろうか。と首を傾げていたら、何処からともなく、一匹の大蛇が現れた。此方を睨むその目玉だけで、薫の頭くらいの大きさがありそうだった。大蛇は薫を取り囲んでとぐろを巻き、その輪をじりじりと狭めてくる。薫は金縛りにあった時のように、指一本動かせなくなった。怯えて泣いても、ざざ、ざぁ、ざざざと蛇の鱗の擦れる音だけが聞こえて、自分の泣き叫ぶ声が耳に届かなかった。いや、実際のところは、声を出せていなかったのかも知れない。
ぐいっと鎌首をもたげた大蛇は、その顎を開いた。
大蛇が薫を今にも飲み込もうとした時、
「退け」
ずんと腹に重く響く声がした。大蛇の目が、ぎょろりと動き、声の主を探す。
「お前の喰うものではない」
その声の主は薫の視界の外にいるらしく、姿が見えない。
「立ち去れ。さもなくば」
大蛇が仰け反り、身を捩る。大蛇の乗っていた地面がごぽりと波打ち、そのままその妖を飲み込んだ。
大蛇がいなくなって緊張が解けたのか、薫は頭がぼーっとして、そのまま意識を失った。
「起きろ、子ども」
声をかけられて、目が覚める。
銀髪に青い目をした青年が片膝ついて薫を覗き込んでいた。自分は、虚の中ではなく、朽ちた切り株の傍らに倒れていた。虚どころか、大樹も消え失せていた。薫は地面に手をついて身を起こした。触れた落ち葉は乾いていた。
そもそも雨など降っていなかったのか。それなら、自分が見たものは何だったのか。何処から夢だったのか。
「……でっかいヘビは?」
訊くと青年は事も無げに
「私が追い払った」
と言った。ならば、本当に居たのか、あの大蛇は。
青年は薫の服についた土埃を払ってくれ、
「貴方、近頃、ここへよく来ているようだが、先ほどのように何処かへ迷い込んだのは初めてか?」
と訊いてきた。こくりと薫が肯くと、青年は安心したように微笑んだ。
現世に居ながら突然に周囲と隔絶され、妖の声も聴こえるその場所は、人の住む現世に妖の棲む異界が侵食してできる、一時的な異空間、“境界”だという。
下手に動いて、帰る方向を誤れば、異界に連れ込まれて、現実世界に帰れなくなる。
その青年はそう教えてくれた。
見慣れた蝶の翅の娘がひらりと飛んできて、青年の手に止まった。炎のような犬も青年の傍にやってきて座った。白いトゲが数匹転がって来て、薫の指先に舌を巻き付ける。翼のある蜥蜴が這ってきて草の陰に身を潜めた。
「みんな居るね」
「此奴らが視えるのか。……☓☓☓を喚ぶわけだ」
何故か青年は苦笑した。
「貴方、一人ではこの森を抜けられまい。人のいる場所まで案内しよう」
年上の人に“あなた”と呼びかけられるのは初めてで、薫は少し擽ったかった。
「俺ね、薫。羽村、薫。7歳。おにーさんは、お名前、何ていうの」
薫が言うと、おにーさんは、
「私の名か……ささめ、と呼ばれていた」
ささめは名乗るとき、確かにそう言った。
薫には森の妖が視えていることを知った彼は、奴らが薫を異界に拐かさないよう、見張ってくれるようになった。ささめがあの門のところで薫を待ち、一緒に森を抜け、参道から先、スーパーでの買い物にも付き合ってくれるようになるまで、そう時間はかからなかった。
ある時から薫に纏わり付くようになった真っ黒な異形も、ささめが撃退してくれた。
正直、あの境界で出遭った大蛇より、その黒い異形のほうが数段恐ろしかった。それに、ささめはその異形を、追い払うのではなく……。
「ささめは、……なんで、あの時、真っ黒いやつを、」
あの時のことを思い出し、薫は訊いてみた。
ささめは、ふっと薄く笑んで、言った。
「……まぁ、妖の気まぐれだよ」
はぐらかされたなと薫は思った。なにか言いたくない事情でもあるようだ。理由はすごく気になるけれど、追及するのは、今はやめておこう。薫が素直に身を引くと、
「いずれ、……話す」
ささめが静かに言った。
薫が己の住まいに旧友のささめを招き、もてなしていた頃。
「ふぅーん、ここがあのガキの巣かぁ」
一人の男が、電信柱のてっぺんに座って、薫の家を見下ろしていた。
「妙なバケモンがくっついてるが、どうにかなるだろ」
舌舐めずりをすると、その男はぽんと跳躍して隣家の屋根の上に飛び移った。そのまま男は屋根伝いに何処かへと歩き去った。
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