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災厄に 夢見た世界は 幻か

今日から、マスクの着用が個人の判断に、ということになったらしい。


私としては、ウイルスが消えてなくなったわけでもないし、それ以外にも
マスクを着けるメリットは大きいと感じているので、しばらくは着け続ける
つもりだが、世間はノーマスク社会へと回帰していくんだろうか?

メディアではマスクをしていない記者が、マスクをしていない仕事の現場
(厚労省じゃん) を報道しまくっていたけれど、印象操作以外の何ものでも
なく、脱マスク・マスク着用緩和の同調圧力そのものだと思うのだが。

なんというか、残念だ。
私が残念に思うのは、マスクの着脱そのものというよりは、とにかく ”元の
とおり” に戻ろうとする流れそのものであり、マスクはその象徴といえるの
かもしれないけれど。

人前ではマスクを着けることがマナーとして定着すればいいと思っていた。
外を歩くときに、顔をすべて晒さない・見られないってけっこう安心感が
あるし。
あるいは、素顔を知ることが親しさの証にでもなればおもしろいかもしれ
ないなどと想像したりもしていた (平安時代ぽい?)。
(夏でも暑さが気にならない画期的なマスクが開発されるだろうと思った
けど、そこまでには至らずおしゃれ化しただけだったな)

ソーシャル・ディスタンス、快適なのに。
それを保つことが標準化していくのだとばかり思っていた。
以前の図書館勤めを思い返しても、カウンターの中にいる職員にやけに顔を
近づけてきたり、身を乗り出してこちらの手許にあるものや PC モニターを
覗きこもうとする利用者が少なかったから、透明シールドが張られただけで
諸々の危険性やストレスがかなり軽減されたものだったし。

そんなに見たいのか?
そんなにくっつきたいのか?
私は別に、そんなことはない。
それよりも、思い描いていた未来がすーっと後退していくような虚しさを
おぼえている。

誤解のないよう明言しておくが、私は 「コ▢ナ禍があってよかった」 とは
思っていない。
それはもっとずっと先の世界で、歴史が評価を下すことだ。
思いもかけない形で生活が、人生設計が狂ってしまった人が無数にいた
ことも承知している。

ただ、災禍の反作用で進化したことがいろいろあったのに、その発展は
頭打ちで、それどころか元の木阿弥になってしまうのは虚しい
ことこの
うえない。



コ▢ナ初期、飛沫の拡散状況を可視化したものがさんざんテレビでも流れて
いたのを、みんな忘れたのだろうか?

こないだコンビニで見ず知らずの人が、くしゃみの瞬間にわざわざマスク
を下げていたのにぞっとした。ああいう人がいるので、できればマスクは
みんなに着けていてほしいと思うのである。

昔よくサッカーの試合をスタジアム観戦しに行っていたのだけれど、自分
もいろいろまき散らしていたし、いろいろ浴びていたんだと思うと、ノー
マスク・声出し解禁といわれても、素直に喜べない自分がいる。



オンライン授業が普及して、不登校気味だった生徒がだいぶ心理的に楽に
なったと報道されていたけれど、あの生徒たちはどうなったんだろうか?

同様にオンライン化で、遠方の大学への進学をあきらめずに済んだり、
身体に障がいを持つ人の選択の幅も広がるんじゃないだろうかと思って
いたのだが・・・

講義はオンラインで受講できるので地方へ移住して起業したという学生
たちは、今はどうしている (今後どうする) のだろう?

コ▢ナを契機に、9月新学期・新年度に切り替わって、受験生その他の
負担も減るかなと思ったのに頓挫してしまうし。

私が所属している学会も、このところ完全対面化至上主義に傾いている
ようでがっかりしている。

私自身のことをいうなら、コ▢ナでオンライン化が進まなかったら得られ
なかったチャンスもいくつかあったので、文字どおり怪我の功名だったの
だけど。

いろいろ広がりかかっていた可能性が、ここにきて急速に萎んできたという
印象が半端ない。
つまんない。

今の状況は、私にいわせれば ポストコ▢ナというよりプレコ▢ナ (への
揺り戻し)、ニューノーマルならぬ旧ノーマル、といったところか。
夢見た世界は儚い幻だったか。



(そして尊敬する研究者の方から 「近いうちに対面でお目にかかれるのを
楽しみにしていますよ」 と声をかけられ、ぐぬぬ・・・ となる私であった)

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