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100⇔0の思考に陥りやすいのはなぜ?(standFM文字起こし)

自分の発信媒体として、noteだけではなく音声メディアも今年に入ってから使っています。
 
 
standFMというアプリで毎回収録をしているんですが、1人喋りだけではなく、実は地域の仲間とも毎週対談形式で収録をしています。


1人喋りのラジオでは、告知をしたりふとした気づきみたいなものを話したり、自分なりに普遍的かなぁ、と思うような事を話したりしているんですが、ふと「これを文字起こししてみるのもいいなぁ」と思い立ったんですね。
 
 
とは言え、音声を聴きながら文字起こしをする自信は僕にはなく、試験的に外部の方にご依頼して、noteにしてみました。
 
 
ラジオを聴かれた方は内容同じなので、ここから先読まれなくてもいいんですが、微妙にテキストに見合うように言い回しは書き直しています。
 
 
もしラジオを聴いた事がない方は、よかったらお読み下さい。
 
では、どうぞ。
 
 
 
 
 
 
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おはようございます。サトウといいます。

僕は普段岡山県のNPO法人で主に障がい者福祉の仕事をさせてもらってて、障がいを持たれた方が社会に出ていく就労支援だったりとか、それから社会に出た後、自立をしていくための住居の支援とか、それから最近は婚活支援っていう、まあライフステージを支えるような取り組みなんかを普段行っています。


それ以外にも、福祉に携わっている人たちがもっとしっかり繋がりあっていけるといいなと思って、自分でオンラインコミュニティを作ったり、それから自分であちこちに繋がりにいったりとかそういう活動というかお仕事をさせてもらっています。
いつもこのラジオ配信させてもらってて、まあ普段は自分の気づいたこととかそのときにちょっとトピックになってることなんかを、お話させてもらっています。



ということで今日の話なんですけども、普段支援の現場で・・支援の現場だけじゃないかな。なんか結構0⇒100・・・、まあ0か100かっていう思考になってしまうっていうしんどさに出会うことが結構多くって、それがその方の個性というか性格的なものであったりとか、その方の例えば障がいを持たれた方であれば、その発達面の偏りからくるものであったりとかするのかもしれないんですけれども、結構そういう思考になってしまう方とか、物の見方になってしまうことって考えると少なくないなと思うんですよ。


僕なんかはわりと大体人生70点くらい取れてたらいいんじゃないって思ってしまうタチで、逆にいえばもっと頑張れよって言われることもあるかもしれないですし、時期によってはグーンとずーっと100点くらいのエネルギーで走って、あるときは30・40点くらいで走ってたりすることもあったりするので、そういう意味でいうと結構グラデーションはしてるほうかなと自分では思ってはいるんだけども。



なんかいつもちゃんとできてなきゃいけない、完璧にできてなきゃいけない、漏れがあってはいけない、ミスをしてはいけない、っていう思考に陥ってしまってて、一個でもミスをしたりとか一個でも抜けがあったり一個でも漏れがあると、なぜか自分はダメだぁとか、だからダメなんだみたいな、一気に0点に思考が陥ってしまうことって少なくないんですよね。



で、まあもちろんこれは支援というか助言というか、理屈としてはシンプルに「あの、100点じゃなくていいんだよ」ですし、「0点ってことはないよ」っていうことを懇々とお伝えしていくっていうのが対応の仕方になってくるんですよね。
ねぇ、みんな100点なんてそうそういないですし、そもそもずっと0点の人なんかもいないですよ。


絶対に個々で得意なこともあれば不得意なこともあるし、出来ることもあれば苦手なことというかできにくいこともあるし、そもそも初めて何か取り組むときというか初めて何かにこつ触れるときっていうのは、まず分かんないし知らないしできなくて当たり前ですし、最初からできていたら誰も苦労しないわけなので。


最初は10点とか20点とか、場合によっては最初は0点かもしれないんだけれども、そこから経験値を踏んでいったりとかコツを掴んでいったりしていく中で、だんだんそこの点数が上がっていくと、ていう見方かなと思っているので、それを繰り返し繰り返しお伝えしていかなきゃいけないかなっていうのが実際の対応というかサポートというかそういうところかなと思っているわけです。


でも、そもそもなんで0⇒100みたいになってしまう思考の傾向がそんなに増えてきているのか、いや増えているかどうかも僕の肌感覚なのでわからないんですけど、にしても触れることが多いんですよ、そういった思考に陥りがちな方に。
それが一体どこから来ているのかなと思うんですけど、なんの確信も確証もないしなんか統計のデータがあるわけでもなく、自分なりに思い当たるのは「時代背景」って大きいんじゃないのかなと思うんですね。



それこそ僕たちの頃からそうですけど、例えば学校に行けばテスト100点とれば褒められるけど、100点じゃなかったら褒められなかったりする文化ってあるじゃないですか。まあ学歴社会的なことだと思うんですが、そこはずっとある。


結構それ以外でもなんか結構白黒ハッキリつけさせられる風土みたいなものはなんかすごくある気がしていて、インターネットとかの普及によって、情報が皆さん広く多く持てるようになってきたこともあると思うんだけども、直接関係があるかどうか分からないけども、世間のニュースなんかを見ていても、何か一度過ちを犯した人が間違ってるという、こいつは間違ったことをしたと言って叩かれたり、炎上するとかいうのって、今当たり前の風景になっているんだけど、あれって怖いなって思うんですね。



ああいうのは知らず知らずのうちに、間違ったら叩かれる、間違ったら罰せられる、一度でも間違ったらはじき出される、みたいな価値観がこう、刷り込みみたいなものになっているのがすごく影響としては大きいんじゃないのかと思うんですよ。



もちろん世の中って実際誰でも彼でもそんなわけではないですし、物事にも依るんだけども、叩かれることとか過ちを犯してはいけない感覚だったりとかいうものって結構強調されがちだと思うんですね。


で、誤ったことをするとなんか世間体みたいなものも少し悪かったりっていう文化、風土っていうのがすごく強いなって思うので、そこが0⇒100の思考の源になっている部分って少なからずあるような気がするんですね。



文化とかそういうもの自体を大きく変えることっていうのはなかなか難しいなと思うんですけど、もしかしたら僕の感覚ですけど、完璧なものというか100点のものばかりを見ないっていうのは1つありなのかなと思ったりします。


当然子供からしたときに大人は間違うことがあるわけで、だって完璧なわけではない姿が見れて、「間違ってんじゃん」って言われて「ごめんねって間違っちゃった!」みたいな、そういうファジーさっていうか、まあ全部あいまいだといけないんだけど、そういうものにしっかり触れていくことのほうが大事で、そういう触れている風土の繰り返しって結構価値観形成に影響があるのかなと思ったりします。



これは関係ないかもしれないですけど、例えば今だと写真とかって結構加工できるじゃないですか。
だからやろうと思えば常に一番見栄えのいい状態で作って出すことができる、もちろんそれ以外でも人間ってできるだけ品質のいい状態で表に出す、もしくは表に出るということは当然したいですし、それ自体が悪いことではないと思うんですけど、クオリティを上げること自体が要因になって、すごく物事のハードルが高くなっていて、その反面で何か過ちがあったりしたときにすごく叩かれる景色をニュースもそうでしょうし、もしかしたらネットとかの中でもそうかもしれないんですけど、それも同時に見てしまうこの極端なギャップっていうのは、なんか0⇒100になってしまう思考を養っていくというか培っていく土俵になってるのかなと思ったりするので、できるだけファジーなものというかあいまいさというか、未完成なもの不完全なものに触れるって意外と今の時代大事だったりするのかなと思ったりしております。




ちなみに僕は自分の事業所では全然出来栄えのいい所長でもないし、出来のいい支援者でもないので、いつも不完全な姿を晒して利用者さんに怒られたりするんですけども、でもそのほうがもしかしたらいい意味で生々しいのかな。

すごく頑張ってできなくてもいい、できなくてもいいってのは変なんだけれども、完璧じゃないところもあるのが人間なんだよっていうのが、そういうところでもし伝わるのであれば、それもひとつの支援なのかなっていうのを最近感じたりしております。




ということで今日は100⇒0の思考について、それってどっから来るんだろうみたいなそういうお話をさせて頂きました。
もちろん今日お話をしたことが全てでは全然ないと思います。それぞれいろんな事情も持たれていたり、いろんな理由や背景をもっていたりすると思うので、あくまで総合的相対的な大きいところでそういうのも影響しているのかなっていう勝手な考察の話でした。

ということでいつもどおり火曜日の配信となってしまったのですが、もう1週間始まっておりますが、体調を崩さず暑くなってくるので良い1週間をお過ごし下さい。

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